住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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三方よしということ

2023年07月22日 12時00分00秒 | 仏教に関する様々なお話
三方よしということ

三方よしという言葉がある。近江商人の心得とも、モットーともいわれるが、売り手も買い手もそれから世間にも良いことを言うのだという。ネットの言葉検索で「コトバンク」を見てみると、『「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。』とある。

世間良しのところを社会貢献に置き換えてしまっている。これでは世間良しは商いと別物のように受けとられかねない。商いそのものが世間にとってもよいものである必要があるという本来の意味を読み違えそうな表現ではないかと思える。商いと社会貢献を切り離しては本来の意味の三方よしにはならないだろう。

ところで、昔サラリーマン時代に「てんびんの詩」という映画を見たことがある。ある情報出版社で営業企画の仕事をしていて、営業マンたちの研修に参加して一緒に見たのである。研修用の映画というので、誰もがこれ見よがしの教育ビデオ程度に思って見始めたのだが、終わった時にはみんな涙を浮かべて、見てよかった、もっと早く見ておきたかったと言い合ったものだ。みんなしんみりと、自分の営業の至らなさを思い知った人もあろうが、その人生の根幹にまで思いを馳せ考えさせられる内容に誰もが重たい気分になったものだ。

制作した会社のHP『日本映像企画・オフィスTENBIN http://tenbinnouta.ciao.jp/index.html』 には次のようなあらすじが書かれている。

「その日、主人公・近藤大作は小学校を卒業した。近江の大きな商家に生まれた彼は、何不自由なく育ち、今日の日を迎えていた。そんな彼に、父は祝いの言葉と共に一つの小さな包みを手渡す。中には鍋の蓋が入っていた。彼には意味がわからない。だが、その何の変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。父はそれを売ってこいというのだ。売ってこなければ、跡継ぎにはできないという。

しかたなく、大作は鍋蓋を売りに歩く。まず店に出入りする人々に押し売りのようにしてすすめる。だが、そんな商いがうまくいくはずもない。道ゆく人に突然声をかけても、まったく見向きもされない。親を恨み、買わない人々を憎む大作。父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る人々が彼よりもつらい思いをしていることを彼は知らない。その旅は、近江商人の商いの魂を模索する旅だったのだ。

行商人のようにもみ手をし卑屈な商いをしても、乞食をまねて泣き落としをしても、誰も彼の鍋蓋を買うものはいない。いつしか大作の目には涙があふれていた。そんなある日、農家の井戸の洗い場に浮かんでいる鍋をぼんやりと見つめながら、疲れ切った頭で彼は考える。〈鍋蓋がなくなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん〉。しかし、次の瞬間には〈この鍋蓋も誰かが難儀して売ったものかもしれん〉。

無意識のうちに彼は鍋蓋を手に取り洗いはじめていた。不審に思った女は尋ねる、なぜ、そんなことをしているのかと。大作は、その場に手をついて謝る。「堪忍して下さい。わし悪いやつです。売れんかったんやないんです。物を売る気持ちもできてなかったんです。」女は彼の涙をぬぐいながら、その鍋蓋を売ってくれというのだった。」

そして、鍋蓋を買ってくれた女は、近所の人たちにも声をかけてくれ、おかげで大作の鍋蓋は売り切れ、「売る者と買う者の心が通わなければ物は売れない」という商いの神髄を知ることができたという。大作は父もしたようにてんびん捧に“大正13年6月某日”と鍋蓋の売れた日付を書き込み、父や母の待つ家へと帰った。商いに関すること以上に、親の子に対する思い、世間の他所の子に対する接し方、幼い主人公の心の葛藤など、学ぶべきことの多い作品であるが、今の時代、教育という観点からも一度は若いうちに見ておきたい映画の一つではないかと思う。

主人公が農家の井戸の洗い場にあった鍋蓋を見て考えて、思い改めて涙があふれ、そのときその鍋蓋はただ自分が売るための商品ではなく、自分にとってかけがえのないものであり、ただただ、いとおしくなった鍋蓋、気がつくと無意識のうちにその場に下りていき汚れた鍋蓋を一心に洗っていた。自分は何もわかっていなかった、商いということがわかっていなかった、鍋蓋のことも、それを使う人の気持ちも。その素直な気持ちが農家の奥さんの気持ちを動かし、鍋蓋を売ることにつながった。

売り手と買い手、そして、その周りの人たちにも、お父さんお母さんや店の人たちにも喜びや安どの気持ちをもたらしたであろう。主人公の少年から鍋蓋を買った奥さん方はその鍋蓋を大切に使用したであろうことも想像される。まさに三方よしといえようか。

たとえば、お堂の材木は伐採され製材した材木の売り手があり、その材を買い手として大工さんや工務店があり、お堂の一材として建設される。勿論買い手と売り手が適正な価格取引に満足してのことであり、そして、そこに集う参拝する人々が世間としてそのお堂で様々な祈願をなし、多くの人の集う場となることによって、三方よしが成立する。

また様々な病気や感染症に対する薬やワクチンがある。まず、それを作る製薬会社があり、それを症状ある人や感染を危ぶむ人が購入し、飲用したり投与する。それにより世間の人たちは安心し健康な生活を享受できる。それで快復改善されるばかりなら問題はなく三方よしとなるが、その価格が適正なものではなく、さらに副作用が想定よりも多くなり、社会に不安を与えるようならそれは三方よしとはならないだろう。

広島県では今、県が許可した三原市の産廃最終処分場から染み出した水が法定の水質基準の二倍を超えているなどとして地域住民による訴えがなされ、地裁にて県の審査の不備が指摘され建設と操業差し止めの仮処分が決定したが、それに対し県は控訴するとしている問題がある。処分場建設会社と土地を提供した県の二方に、世間としての地域住民がよければ三方よしとなるのであろうが、残念ながらそうはならなかったケースといえようか。当事者だけ良い取引ではやはり後々問題が生じ世間からは後ろ指をさされる可能性があるということであろう。

日本の仏教はその教えの基本的な考え方として自力とか他力とか言われることもあるが、密教では三力という考え方をする。修行する自らの功徳力とそれに対して仏の側からの救済の力、それに宇宙の万物に宿る生命力によって悟りは成し遂げられると考える。やはり三方の力が総合されて初めて良しとする考え方といえよう。

さらに慈悲も自らがよくあってこそ他を慈しむことができるわけだが、慈悲の心を養う瞑想法では、まずは自らの幸せを願い、身近な人たちの幸せを願い、そして生きとし生けるものの幸せを願う。やはり三方がよくあらねば慈悲も成り立たない。何事にもこの三方よしを確認することによって、当事者だけでなく周囲の人たちや社会にとってもよい、間違いのない行いをなすことができるということにもなろうか。

近江商人が育てあげた総合商社に伊藤忠商事がある。その創業者の言葉に『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉があるという。これは近江商人の先達たちに尊敬を込めて語ったとされるが、いにしえの商人方は実業も仏行と捉えられていた。仏の心にかなう行いを心掛けたいと思うなら、近江商人に倣い、この三方よしを確認すべしということなのであろう。


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