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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

Sさんのこと (11/25追記)

2012年11月21日 19時17分59秒 | 仏教に関する様々なお話
Sさん、本当にお疲れさまでした。不意の事故で脳挫傷となり、十一年も寝たきりで、意識も回復せず、声は聞こえど姿も見えず。もどかしい十一年だったことと思います。享年九十一歳。事故の時には八十歳だったのですね。Sさん、申し訳ありません、私には想像もつかないのです。じっと何も言えない、寝返りもうてない、音に時々反応できるだけで、それでも生きて頑張ってこられたSさんがどれだけ大変だったかを。

それまではお元気に旦那さんに先立たれたあと、一人で家を切り盛りしてこられました。庭も家の中もいつも片付いて、きれいにされていました。畑や田圃も、それまでは元気に往来して収穫されていました。長男さんは遠くに行かれ、次男さんも少し離れていましたね。何度かお盆にお邪魔してお経を唱えたときにも、優しいお人柄が感じられたものでした。

突然の事故で次男さんの近くの病院や介護施設に入られて、どうなさっておられるのかと思っていると、お盆に仏壇をまいって下さいと次男さんからご連絡があり、以来毎年お盆には、その日には帰りますからと日にちを指定されてお参りしました。お経が終わると、ご夫妻で、お茶を飲みながら、小さな時の話やお母さんの近況を知らせて下さいました。

奥さんは、ご自分もガンをかかえながらも、明るく、お母さんのことを心配されている間に良くなってしまいましたと、お母さんのお蔭ですと言われていました。もうダメかと思ったのに持ち直したことも何度もあったとのことですね。心臓が強いんですかね、とお二人で笑われたり。お孫さんが来られていることもありました。

お通夜の晩に、お経の後、いつも少しだけお話をさせていただいています。ご自宅にはご親族だけでしたが沢山の人がお通夜にお見えになりました。畳の部屋に座りきれなくて、ずっと立って聞いて下さった人もあったようです。Sさんのこの十一年を、私はどのように皆さんにお話ししたらよいのかと、枕経の後からずっと思っていました。

Sさんの十一年を、ただ何も言えず何も分からずに過ごされたとは思いたくはなかったのです。その時間はとても意味のある、残された者たちに大きな一つのメッセージを残されたと思いたいし、そう思えるのです。その十一年間を、たとえば、何でも自由にでき、何でも言える私たちが果たしてSさん以上にどれだけ意味のある時間を過ごせたでしょうか。そう思うと恥ずかしいばかりです。

自分の思い通りに何でも出来る私たちは、ずっと寝たきりのSさん以上にそんなに大切に時間を過ごしてこれたでしょうか。何も言えなかったSさん以上に私たちは意味のある言葉をどれだけ言えたのか。そんな風に考えると私たちの時間の過ごし方はこれで良いのだろうかと反省させられることばかりなのです。

自由な時間に何でも出来るのに、大事なことが出来ずに無為に時間を浪費してはいなかったか。本当に言うべきことを言わずに、つい口から出る言葉は不平であったり、不足ではなかったか。何も出来ない、何も言えない人の思い以上に私たちは何か大切なことを思い考え、心が成長できたのか。・・・・心許ないことばかりです。

Sさんは、突然の事故で、勿論ご自分の不注意ということもあったかもしれないけれども、自分の思いを越えたところで事故に遭われ、じっと十一年を過ごされました。その間何を考え、何を思っておられたのでしょうか。こんな事故で死んでいられません、なんとしても生きてみますという強い思いがあったのではないですか。もっともっと、子供たちのこと、孫たちのことを見ていたいんですという思いもあったかもしれません。

最後の最後まで、もてる生命力を振り絞って生きてこられた。細々かもしれないけれども、生きようとするその精神力の偉大さを私たちに示して下さったのだと私は思っています。そしてとても平穏な心も養われたことと存じます。そんなことを通夜の晩に皆さんにお話し致しました。

國分寺でも座禅会を開いていますが、坐禅をすると足を組んで背筋を伸ばしたら動かずにじっとして三十分ばかり、座るだけの時間がやってきます。その姿勢のまま身体を動かさずに息をするだけの時間はとてつもなく長く感じるものです。たったの三十分がとても長く感じます。そうすると心の中には、それまで思ってもいなかったようなことが次々に去来します。

匂いや音に反応して心はあちこちに飛んで行きます。そうしてじっとしながら心が平静になり静まる時を迎えるのですが、それはそう簡単なことではありません。Sさんのじっとしたままの十一年、それはとてつもなく長いものであったことでしょうし、そして、どれだけ心が静まり落ち着いた心を養われたことであろうかとも想像致します。

いつも明るくお母さんのことを語られていた次男さんご夫妻、声を掛けても何の反応もない、時々意識があるのかなという状態の中でずっと看護なされてきた労苦を思うと、本当にお疲れさまでした、ご苦労様でしたという言葉しか出てこないのです。ご夫妻からこの十一年、看護することについて、つらいとも嫌だとも苦だとも一言も聞いたことはありませんでした。

檀那寺の住職として、この度は、本当に気の毒なことでした、どうぞ懇ろにご供養なさって下さい、と言うことは見やすいことです。ですがそれよりも、やはりその方の人生、その最期をどう見つめられるか、意味を見いだせるかということが大事なのであって、さらに言えば、自分がその方の最期から何を学ばせていただいたかということを素直に語ることが何よりも必要なことなのだと改めて考えさせられました。Sさん、本当にお疲れさまでした、ありがとうございました。私も大事に生きていきたいと思います。



追記

最近の研究から植物状態の患者の五人に一人は意識があり対話に答えていると分かりました。

英ケンブリッジ大学のエイドリアン・オーウェン教授の研究について


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コメント (5)
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