住職のひとりごと

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幅広く仏教について考える

クリストファー・アイブス教授の論文に学ぶ(改訂版)

2012年05月20日 06時51分29秒 | 仏教に関する様々なお話
(一度掲載した文章ですが、執筆された先生との連絡が滞っておりましたので一時配信を停止しておりました。今朝、アイブス先生から掲載の許可をいただきましたので、再掲載します。)


国際政治を仏教の教えから考える

(米国ストーンヒル大学・宗教学部長)
クリストファー・アイブス教授の論文に学ぶ

『瀬戸際の瞑想・
9/11後の世界における仏教と暴力』(二〇〇三年四月三日)

   仏教と暴力

 イラクとの戦争、コロンビアの準軍組織・死の部隊、一万一千人が二〇〇一年と一九七三年の同じ九月十一日に亡くなった大量殺人。このような度重なる暴力は今も私たちすべてに重くのしかかっている。

 暴力にまつわる複雑な問題から逃れるために人々は、仏教を含む宗教に救いを求める。しかしこと暴力に関しては、仏教の伝統に様々なメッセージが提供されている。経典、教理、儀式儀礼にさえアヒンサという他の生き物に害を与えない、非暴力の教えが主張されている。

『すべての者は暴力をおそれ、
 死をおそれる。
 己の身にひきくらべて、
 殺すべからず、
 殺さしむべからず。』(法句経129)

 在家者の守るべき五戒の第一には、生き物の命を奪うことを慎むように私たちに勧告し、僧院の戒律には四つの極重罪の一つとして命を奪うことが明記されている。大乗仏教の経典では、この禁戒を前進させて、たとえば、『十地経』は、どんな生き物をも憎むべきでなく、故意に生きている生き物を殺してはならないと宣言している。上座部の比丘(僧侶)が月に二回戒本を暗唱し自恣(じし)をする布薩(ふさつ)に見られるように、歴史的に仏教徒は制度的にも明確にこのことを規定し、この理想を実現するために儀式として伝承している。

 だが、こうして生き物を殺さないという普遍的な訓戒を外観できるのに、仏教は時にそれらに言葉を濁すこともある。いくつかの仏典では、歴史的なブッダがその過去世においてではあるが、大罪を犯させないため、法のために盗賊を殺したと記している。もちろん、それによって、殺人者たちや中傷する者たちが地獄に報いを受けるのを助けるためだったのではあるが。

 また、『大般涅槃経』には、ブッダばかりか弟子たちがこの第一の戒を無視して、法を守るために武器を手に取る設定を伝えている。また、サンガを守るために信者たちに暴力を用いることを勧める。哲学的論稿では、仏教者は暴力の正当化を明確に表現もしている。数百年後の仏教徒は、アヒンサの教理を再解釈し装飾を施した。仏教のあるセクトでは、戦争に従事したし、ある組織は公に支配者たちとその軍隊による戦闘を援助した。これらは現代の仏教徒たちが自ら指摘していることである。その暴力にまつわる問題について、彼らがどう対処するかはそれぞれの裁量に任せているようだ。


 しかし少なくとも仏教は、暴力を批判し、暴力について個人的に葛藤することや、暴力にどう対処するかということに対する豊富な方策があり、それを理論的に分析し、宗教的に実践したり政治的に対処する方法も持ち合わせている。

   因縁を探究する

 仏教徒が条件反射的に内観を養うよう努める限りにおいて、仏教徒たちは暴力の原因を探求せざるを得ないのだ。純粋な仏教徒の「9/11の同時多発テロ」に対する反応は、その原因を厳密に調べることである。たとえば、それは、その行為を善なることと強いて行わせた組織「悪の行為者たち」によって引き起こされたのであろうか。アメリカ至上主義を憎み、タンクトップを着た女性を敵視する狂信者、悪魔か何かの仕業だったのだろうか。私たちはブッシュ大統領が好むように、それらについての原因を詳細に分析するのを止めるべきなのだろうか。

 そこには、数百年に亘る西洋帝国主義やそれに付随するイスラム教徒への虐待や屈辱はいささかにも影響していなかったのか。アフガニスタンでソビエト軍と戦ったオサマ・ビンラディンとその配下たちを支援したアメリカの長引く影響はいかなるもので、またその後に反勢力となり敵対したのはどうしてなのか。またイスラム世界に厳然と圧力を与え、サウジアラビアの聖地のそば近くに展開するアメリカ軍の恣意的な行動は影響していないのか。

 また、イスラエルとパレスチナとの紛争においてのアメリカのスタンスは、また国際的な富の再分配を阻害するグローバリズムは、そこにどう関係しているのか。特に彼らを援助するとした長年のイスラムとの約束にもかかわらず。こうした事々の関わりをどのように分析すべきなのであろうか。

 そして、特に王権や資産家たちによって、ないし、彼ら自身にとっても原理主義は不評であり、退廃的で世俗に染まった西側の悪霊にも不満のある非民主的なアラブの体制によっても原理主義は後退しつつあるのではあるが、そのイスラム原理主義はこの度のテロとどのようにかかわりがあったのか。

 たぶん合衆国内の仏教徒たちは、このような直接的な、また間接的な原因など様々な要素について体系的に分析する必要に迫られたことだろう。しかし、アクバル・アハマドが抜け目なく指摘するように、テロが起きても、米国政府は、その因果関係を厳しく追及し実証することに余り関心がないように見える。ブッシュ政権は、支配的なメディア報道や市民レベルの会話程度にとどまり、それらを越えてもっと広範囲にその原因を追及し分析することから逃れた。そして、自由や民主主義、西側の価値観を憎む悪の行為者たちによるテロであったとの単純な論調を信じ込ませることにおおよそ成功してしまったのである。

   貪瞋痴を観察する

 仏教は、「9/11テロ」の幅広い歴史的、政治的、経済的な原因を分析する独自のツールを提供するものではないけれども、暴力の心理的な原因を探求する枠組みを提供している。仏教徒の基本的な分析によれば、苦しみの原因は貪(とん)(欲)痴(ち)(無知)瞋(しん)(怒り)の三毒ということになる。仏教は、私たち自身についても、立ちふさがる相手についても、その心の汚れを観察することを要求する。どういうことかというと、暴力の加害者も被害者も確かな原因と条件によって、その三毒という邪魔者が行動を引き起こすというのである。

 それらの三番目の汚れである「瞋(怒り)」、それはパーリ語の用語として時に怒りと訳されるのであるが、それは最も暴力と直接関係する。仏教徒のこの三毒についての論理は、アルカイダの外見にも現れ、その源泉にもある、怒りについて深く考えてみることを私たちに強いる。それはアメリカ人が無分別に復讐を選択するように、分析やトリックなど情報をゆがめて伝えることで自分たちの怒りを煽(あお)るような状況の中では、特にそうあるべきだ。

 それから、「貪(欲)」の毒がある。安い石油を追い求めるような、世界中に怒りを買うアメリカの欲はいかがだろう。神の啓示を匂わせるような物言いをしてはいるが、イスラム教徒たちを疲弊させ搾取する者たちの欲こそが問われねばならない。

 では私たちは、「痴(無知)」とどのように取り組むべきなのか。すっかりイデオロギー化して悪魔として西側を塗りたくるべきか。経済的な利益を追求するために見せかけで自由も民主主義も推進しているアメリカによって提供される理論付けや拒絶でよいのかどうか。醜いほど肥大化した外交政策や国際的なビジネスを否定することはいかがであろう。私たちは、メディアに影響されてその真相をつかむことから目をそらされて、全くの無知に置かれていることからどのようにしたら逃れることができるだろうか。

 『歴史の終わり』という書でフランシス・フクヤマが勝利主義者の美辞麗句を語り、サムュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で、地球規模の緊張を誇張して文明を語っていることの盲点を私たちはどのように指摘できるであろう。ハンチントンは世界について述べているのだけれども、私たちがそもそもはたして沢山の文明の一つに属しているということさえ限定できることではない。文明を形成する諸要素はそれぞれの役割を演じるけれども、それらについてのハンチントンの論稿は、経済や政治的グローバリゼーションの波及効果のように、大事なキーとなる諸要素を覆い隠してしまっているようだ。

   二元論を廃す

 そして、もう一つの仏教徒の分析ツールは、ビンラディンとブッシュというように提示される、善と悪という扇動的に単純化して二分するという二元主義にすべてを概念化する、そのような姿勢に対する禅の批評である。

 厳格にイデオロギー的な度合を認識し、それらの本質的な特徴を二つに分けるのに、仏教徒である必要はない。善と悪というように、我々と彼らとに分けてしまうことは、私たちを脅す者たちに客観性や人間性をますます失わせることになる。戦時にあるかのように、敵を悪魔として描写することは、退廃的であり不合理で、獣とまでは言わないが正気とは言えないし、道義的立場とも言えない。禅によって声高に非難される二元主義的な認識論に終止符を打ち、自身から離れて、ある対象としてだけ現実を経験すべきなのだ。

 相手を悪魔、悪、悪の行為者ないし人間以下の動物のように見なすことは、他を絶滅させてもいいように見てしまうことに繋がり、特に危険なことである。彼らへの攻撃は、たとえ世界が浄化されたように思えても、凄まじい報復を促す危険な状態を導くであろう。歴史は、人間性を失わせるような表現が、たとえそれが本格的啓示的な十字軍ではないにしても、ときに絶滅主義者のプログラムの引き金になりうるということを証明している。

 ビンラディン、ブッシュ、そして彼らの取り憑かれたような支持者たちには、人の行為の曖昧さ、露骨な二元主義者の人物評がいかに危険であるかを認める気持ちもないのかも知れない。が、微妙な様々な点を考慮に入れた分析をするならば、私たちは彼らの二元主義を拒絶することが必要であろう。

 ブッシュ政権が対テロ戦争について色づけしたレトリックを用いて、福音的原理主義的なキリスト教徒の、啓示的ではないにしても救世主的なビジョンに、私は抵抗する。このような神の啓示であるかのような偏った手法は、アメリカがアフガニスタンで大規模に軍隊を展開させ、不死身で絶大な力を持つというように全能であることを再び断言することや、そのために戦闘を支持し、アルカイダの戦士を最後まで追い詰めることを誓約したり、また、ブッシュ政権の現国家安全保障戦略のように、タリバンかイラク政権かと脅しをかけて、どんな政府をも支配することを企てることには役立つだろう。

   坐禅から得られるもの

 しかし、言うまでもなく、暴力一般について、特に9/11における暴力について、多くの仏教徒は、単に理論的に解明したり、単に知的に的を絞った問題などとは捉えないであろう。殆どの人々と同じように、私にとっても9/11はズッシリと重い感覚を体のうちに感じさせる。それは呼吸の中心にあり、そのときの映像として、それを打ち消しつつ座る坐禅の行中にさえ存在する。

 坐禅は、それらの事件やすべての暴力にまつわる自分の怖れ、怒り、悲しみを認識する最初の入れ物となる。つまり坐ると、九月十一日の攻撃が瞬間的に露骨な教訓として立ち現れる。それらは、私たちの体、愛するものたち、業績、所有物など、自己を守るエゴの壁を、たとえ岩のように硬いものでもたやすく壊れることを、私に教えてくれる。それらの攻撃は特に、合衆国に住む特権階級たちのような安全を誰もが共有していると思っていたことが錯覚であったことをも教えてくれた。

 そして、その集団的な意味では、9/11は、米国だけは例外だと思う淡い思い、つまり、富や軍事力、地政学的な位置によって自分たちは不死身で、あるいは世界の他の人々が置かれているような不安定な状態を回避しているかの思い込みや妄想を壊滅させた。

 九月十一日の出来事は、人類の殆どが生きるに際して感じる暴力と脆弱さを改めて認識させ、9/11のような表面的にはまれに見る出来事の暴力ばかりか、国家のテロでないにしても国家の暴力とも言える、経済的な搾取や政治的な抑圧の構造的な暴力に見るような、人目につかず一般に分からないような進行しつつある暴力についても、認知する機会となった。

 9/11は、また、世界中の人々が合衆国に対して怒りを感じているという事実を、アメリカ人に認識させる目覚ましともなったし、アメリカ人が野放図に貪瞋痴を追い求めることで、世界中に歪みをもたらしている現実をも垣間見させてくれた。

 しかし、9/11は、つい十八ヶ月前に起きた何かではない。それは、長い一日であって、終わってはいない。それは私たちすべての者にとって未だ進行していて、十分に安全が図られて回顧的にそれを見つめるようなゆとりを感じられる者は誰もいないであろう。

 感情的なレベルで、たぶん誰もがやりがちなのが、その事件を受けて、そのままそこにとどまっていることである。坐禅は、我々の死に対するショックや怖れ、最近の経済的な脆弱さへの心配、富やあるべき安全に対する執着、引いては復讐に対する執念といったものごとにも、坐禅しつつ気づくことの体系を教示している。

 仏教の実践は、自身の固定的な見識、他者を凝り固まった先入観を持ってみたりすること、硬直したイデオロギーさえも掘り崩してくれる。それは、攻撃と反撃、ないし、苦しみと犠牲者について語り相互にその思いを高じていく悪循環に陥ることなく、直面する暴力に対して、認識を広くとり、概念上も柔軟に、そして、流動的な反応を奨励する。

 またそれは、惜しみなくものを与え、慈しみ愛すること、そして智慧という三つの解毒作用を養い、私たちの三毒を打ち負かすことができる。気づきということを養うことで、私たちは、地球規模で起きている現象のプロセスをもっと深く見たり、他者の怒りや圧力に直面しても落ち着いて対処するというような、智慧や慈悲を以て反応する大切さを理解するであろう。

 坐禅や他の瞑想法は、またテロリストや傲慢なアメリカ人にも怒りを覚えることなく、開放的な心で誠実に耳を傾ける心を養うことができる。私たちは聞いたものすべてを受け入れるべきではない、新たな十字軍についてブッシュ大統領が短絡的にまくし立てることにも。大悪魔として米国政府についてイスラム教徒が熱烈に語ることにも。もちろん、注意深く聞くことは反応を排除することではない。新十字軍についてのブッシュのコメントに沿って、最終的な終結のために戦争することを好感する者たちの善悪二元論的に加勢するのではなく、精神的な落ち着きを養うことによってテロに対する戦争より、私たちには国際警察などの監視によって彼らの行動を規制することのほうが望ましいと理解することが肝要だろう。

   仏教徒の理想

 9/11に対するよりすぐれた慈悲深い対処の仕方は、テロに対する軍事力の役割の代わりに、国際的に警察力を共同して組織し、オサマ・ビンラディンやオウガスト・ピノチェト、・・・などのテロに関わり支援する者たちを逮捕し起訴して隔離するような国際犯罪裁判所など法的な役割をこそ語るべきだろう。

 そして、無知ということに関し仏教徒が指摘すると思われることは、利己的な単独主義を拒絶して、合衆国が他国に対し民主的な自決権を認め、テロ的な暴力を告発する一貫した姿勢を求めることであろう。仏教徒の大局的な見地から言うと、合衆国は、世界的な支配を維持しようとする覇権主義的な超大国としてではなく、最終的には、多極主義や他と共にあるからこそ導き出される相乗的な力、すべての人々の基本的な要望を集約した国家的な協力機構のチャンピオンとしてあることが望ましいと言えよう。

 このような地球規模の共同体にあって、イスラムを怖れるような者があるなら、彼らは、つまり伝統的なイスラム教徒は、本来、貧困者を救済し、社会正義を推進するという公約があることに共通性を見いだすべきであろう。そして、彼らは、無知と貪欲と怒りを智慧と寛大と慈悲に置き換える世界を実現するために、貧困、暴力、環境の悪化に対処して、正義と平和とエコロジーな健康を獲得するために、その運動の協賛者としてイスラム教徒たちと行動を共にできるはずである。

 もちろん、これは仏教徒的な相互多極主義の世界であり、長期的なビジョンとしては素晴らしく結構なものだが、短期的なシナリオとしては注意を要するかもしれない。たとえば、9/11のような暴力が継続する場合に私たちはどうあるべきなのか。

『恨みは恨みによって
 やむことはない。
 恨みを捨てることによって
 恨みはやむ。
 これ、不変の真理なり』(法句経 5)

 罪なき生命に差し迫った脅威があったとしたら、それでも、仏教徒の視点からは、少なくとも経典や論書にあるように、暴力は受け入れられないものなのだろうか。我々は、どうしたら、自分自身を守り、攻撃と反撃という暴力の悪循環を、また両陣営に長期的に被害地域が増大していくことを避けられるのだろう。世界中で攻撃的な態度を見せるアメリカに対抗して、アルカイダやその他の部隊に人を雇い入れようとする行為を回避することができるだろうか。

 仏教徒は、罪なき生命が命を損なうような差し迫った脅威に直面したとき、最小限の力で、恨みなく、貪瞋痴もない最小限に苦しみを食い止めることを前提としながらも、唯一の最後の手段として暴力を容認する理論、正戦論を明確に説き明かすことは可能であろうか。ないし、正戦論は、止めどない下り坂なのであろうか、選択するのは簡単だが、偽の情報や恐怖を煽る者たちの中で、信頼でき正確な情報を入手するのが難しいときには採用しがたい方法論なのだろうか。

 9/11の余波として、中東にさらなる紛争が差し迫るとき、理想的にはこうした事々をこそ、他の宗教指導者たちと対話し、熟考することが求められているのであろう。(横山全雄訳)

(この翻訳原稿は掲載許可をいただいております。なお、本文中の小見出しと太字は翻訳者が付しました)



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