お釈迦様だから出来たことなのかもしれませんが、お釈迦様には、初めからそのすべてのことがおそらく分かっておられたのでしょう。つまり、アングリマーラは悟れるということが。そして、そうして悪行をはたらかねばお釈迦様に出会い、教えを受け、悟りを得ることもなかったのだということが。
勿論犠牲になった人たち生き物たちが亡くなって当然であるというわけではありません。しかしそれも因縁として仏教では説明しなければならないことです。今生での因縁ばかりか前世での、いやもっと何回も前からの過去世の因縁のなせる果報なのであると。
そう考えなければ説明のしようがないのです。その時のあなたが悪いわけではない。何回も前の過去世の悪業がこの時に報いて結果した、しかしそれによって生まれ変わったところは、おそらく悪業が消えた、より良いところに生まれ変われるのではないかと、このように考えるのでありましょう。
すべては因縁で成り立っています。すべてのことに因縁ありとも言います。ローマは1日にしてならずとも言いますね。すべて原因と様々な条件によって結果があり、その結果がまた原因となる。
お釈迦様は神通力で、その人の過去そして未来が見えてしまわれると言われています。アングリマーラに会う前から既にそのことが、だから分かっていた。それで、わざわざアングリマーラの居るところへ歩いていき、改心させて、僧院に連れて帰り、修行させたのでしょう。
その人の因縁を過去も未来も見えてしまわれたら、おそらくその人に対しての怒りやら怖れやら欲やらといったものはすべて無くなってしまい、優しい慈しみの心で接しられるようになるのではないかと思います。だからいつもお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのでしょう。もちろんそれは、私たち凡人には、そう簡単なことではありません。
ですが、何か怒りの心で接してこられたり、言いがかりをつけられたりしても、どんな悪口を言われても、つっけんどんに何か言われても、馬鹿にされても、のけ者にされても、意地悪されても、そう言ったりしたりするその人の因縁を見るように心がけるだけで、そうそう腹を立てることも出来なくなって、そうですかね、と冷静に笑っていられるようになるものです。そして優しくなれる。
たとえば、夫婦げんかというのも夫婦だから、腹が立つこともありますが、同じことを他人から言われたら大変なことになるのに、別にたいしたことなく受け流したりも致します。それは、ああまたかと、その相手のことをよく分かっているから、そうですかと、そういう気持ちになるわけです。
だから、他人であったとしても、その人の過去のすべての色々なことがそう言わせているのだと思えば、何かそう言うのが理解できるといいますか、しかたないか、かわいそうにという気持ちにもなってくるわけです。
それから、何事もこの因縁ということから物事を見ていきますと、とてもしっかり生きられます。何か意味のあることだと思えます。いい加減な気持ちで何事も出来なくなる。一つのちょっとした仕事でも大切なものであると思える。
なぜなら、過去の様々な一切のことの積み重ねで今があるからです。今していることも、思うことも、考えることも、これまでの過去のすべての集積したもののほとばしりとしてあるという気持ちにもなってきます。
こうして今話を聞いていただいているのも大変な因縁の積み重ねがなしているとも言うことが出来ます。様々な皆さんの事情もあったでしょうが、こうして皆さんが一堂に出会っているというのは本当は大変なことです。みんなそれぞれにたくさんの過去の因縁の積み重ねのもとに生きていて、それがここに一つに出会っているということになるからです。
だから、ありがたい、一期一会とも言います。「私たち人間とは何か」と問われれば、因縁なんですね。「これが私」と言えるようなものは何もない、因縁が私であるとそのように考えます。だから簡単に変われない。
そして、冒頭に話をした国というものも因縁で説明できます。過去の様々なものごととの関係によって、そして今ある様々な条件の下で成り立っています。ですから、簡単ではない。私たち国民が方向を変えることも出来ない。
因縁とは、縁起の法とも言いますが、仏教は縁起の法であるとも言います。仏教とは因縁を説くこととも言えます。ですから、大切なのです。この因縁ということを常に意識して、誰に対しても優しく、過去がみんな結実した今を大切に、また様々なことをこの因縁ということから考えて、やさしい心で生きて欲しいと思います。
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勿論犠牲になった人たち生き物たちが亡くなって当然であるというわけではありません。しかしそれも因縁として仏教では説明しなければならないことです。今生での因縁ばかりか前世での、いやもっと何回も前からの過去世の因縁のなせる果報なのであると。
そう考えなければ説明のしようがないのです。その時のあなたが悪いわけではない。何回も前の過去世の悪業がこの時に報いて結果した、しかしそれによって生まれ変わったところは、おそらく悪業が消えた、より良いところに生まれ変われるのではないかと、このように考えるのでありましょう。
すべては因縁で成り立っています。すべてのことに因縁ありとも言います。ローマは1日にしてならずとも言いますね。すべて原因と様々な条件によって結果があり、その結果がまた原因となる。
お釈迦様は神通力で、その人の過去そして未来が見えてしまわれると言われています。アングリマーラに会う前から既にそのことが、だから分かっていた。それで、わざわざアングリマーラの居るところへ歩いていき、改心させて、僧院に連れて帰り、修行させたのでしょう。
その人の因縁を過去も未来も見えてしまわれたら、おそらくその人に対しての怒りやら怖れやら欲やらといったものはすべて無くなってしまい、優しい慈しみの心で接しられるようになるのではないかと思います。だからいつもお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのでしょう。もちろんそれは、私たち凡人には、そう簡単なことではありません。
ですが、何か怒りの心で接してこられたり、言いがかりをつけられたりしても、どんな悪口を言われても、つっけんどんに何か言われても、馬鹿にされても、のけ者にされても、意地悪されても、そう言ったりしたりするその人の因縁を見るように心がけるだけで、そうそう腹を立てることも出来なくなって、そうですかね、と冷静に笑っていられるようになるものです。そして優しくなれる。
たとえば、夫婦げんかというのも夫婦だから、腹が立つこともありますが、同じことを他人から言われたら大変なことになるのに、別にたいしたことなく受け流したりも致します。それは、ああまたかと、その相手のことをよく分かっているから、そうですかと、そういう気持ちになるわけです。
だから、他人であったとしても、その人の過去のすべての色々なことがそう言わせているのだと思えば、何かそう言うのが理解できるといいますか、しかたないか、かわいそうにという気持ちにもなってくるわけです。
それから、何事もこの因縁ということから物事を見ていきますと、とてもしっかり生きられます。何か意味のあることだと思えます。いい加減な気持ちで何事も出来なくなる。一つのちょっとした仕事でも大切なものであると思える。
なぜなら、過去の様々な一切のことの積み重ねで今があるからです。今していることも、思うことも、考えることも、これまでの過去のすべての集積したもののほとばしりとしてあるという気持ちにもなってきます。
こうして今話を聞いていただいているのも大変な因縁の積み重ねがなしているとも言うことが出来ます。様々な皆さんの事情もあったでしょうが、こうして皆さんが一堂に出会っているというのは本当は大変なことです。みんなそれぞれにたくさんの過去の因縁の積み重ねのもとに生きていて、それがここに一つに出会っているということになるからです。
だから、ありがたい、一期一会とも言います。「私たち人間とは何か」と問われれば、因縁なんですね。「これが私」と言えるようなものは何もない、因縁が私であるとそのように考えます。だから簡単に変われない。
そして、冒頭に話をした国というものも因縁で説明できます。過去の様々なものごととの関係によって、そして今ある様々な条件の下で成り立っています。ですから、簡単ではない。私たち国民が方向を変えることも出来ない。
因縁とは、縁起の法とも言いますが、仏教は縁起の法であるとも言います。仏教とは因縁を説くこととも言えます。ですから、大切なのです。この因縁ということを常に意識して、誰に対しても優しく、過去がみんな結実した今を大切に、また様々なことをこの因縁ということから考えて、やさしい心で生きて欲しいと思います。
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