goo blog サービス終了のお知らせ 

住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

亥年をむかえて

2007年01月02日 13時51分15秒 | 様々な出来事について
今年は丁亥(ひのとい)年。12年前の亥年、1995年の正月には、私はインドの黄色い袈裟を纏って東京の放生寺に居候していた。その前々年93年4月にインドのサールナートで沙弥出家して、6月にはカルカッタのフーグリー河船上にてベンガル仏教会の長老方に見守られウパサンパダー(上座仏教の具足戒式)を受けた。

サールナート法輪精舎に住まいして、お寺のボランティアを手伝いつつベナレス・サンスクリット大学でパーリ語のディプロマコースに学んだ。そして翌94年4月に黄衣のまま一時帰国してから暫く学生向けの下宿に住み、その半年後から放生寺に移っていた。本当はその頃にはインドに戻っていなければいけなかったのに、インドで異常にコレラが流行して渡印を延期していた。

その年94年は、4月に新生党公明党社会党の反自民党連合が政権を取ったのもつかの間僅か2ヶ月で崩壊し、6月末には自民党と社会党が連立を組み、初の革新系党首村山氏が首班指名を受けた。

その時、私は茨城県大洋村の浄心庵というところにいて、スリランカの長老とともにその様子をテレビで見ていた。異様な政治の人間模様。世の中がグラリと、何でもありの異常な世界に入り込んだ一瞬だったのではないか。権力欲のためには思想信条も投げ捨てるという姿勢を時の為政者が示し、まさに退廃の世に国民を投げ入れた。

そして明くる95年1月17日、阪神淡路大震災が起こり、テレビで見た自衛隊のヘリコプターが炎上する神戸の町を飛んでいる光景が強く印象に残った。自分でも何かしなければと思い救援物資を送った矢先に芦屋の知り合いから心のケアーのために避難所に来ないかとのお誘いがあった。二つ返事で了解し、震災後2週間目に東灘区の本山南中学の避難所に入った。

そのときには2週間ばかり滞在して心のケアーをはじめ様々なボランティアに励み、その後も3が月ほど1週間から10日間毎月本山南中学に通い、被災者のその後の生活復興を拝見した。その間に地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教一斉摘発へと続く。

またこの年は様々な金融機関の不祥事が続き、金融合併の先鞭を付ける年でもあった。4月には円が史上最高値1ドル79円75銭をつけた。この頃まではまだバブルの余韻があったが、次第に長期の不況感が漂い、人々にあきらめの色が濃くなっていく。どこへ行っても不況だからという言葉が聞かれるようになる。

いまもって一般庶民のこの雰囲気はそう変わらない。いいのは大企業と大銀行ばかりだ。また、昨年は、安倍政権となり、初の戦後生まれの首相が誕生した。国民の生活を無視し続けた小泉政治を継承すると言い、早々に教育基本法を変えた。これは国民主権から国のために国民ありとする日本国の根本を転換せんとするものであろう。

前の亥年1995年のように何か大きな事件が起こらねばよいがと祈っている。我が願いに天随うと言われたのは弘法大師だったか。しかし、逆に見ればこれは天も下界を見ているということでもあろう。だから人の願いに天が気づいてくださる。ついては、天に見限られないような私たち人間の行いをしなければいけないということでもある。

人の道に外れたようなことをしていて良いことはない、人の上に立つ人々はなおさらである。それぞれの立場に応じて明恵上人の説かれた「あるべきようは」を自らに問いつつ、日々過ごす必要があるのであろう。今年は、はたして何が起こるのであろうか。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)


にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京砂漠

2006年12月28日 19時13分22秒 | 様々な出来事について
12月21日から23日にかけて東京に出張し、新宿区西早稲田放生寺で行われた冬至祭に伺った。このお寺は、私にとって仏教との出会いをセッティングしてくれた忘れがたい場所に位置している。

そして、実際に高野山に出家するご案内と手ほどきをして下さり、またその後インドに度々行っていたときには日本滞在期間に居候をさせていただいていた。更にその後深川の冬木弁天堂に入る際にもお世話になった。今日私があるのはこのお寺の先代と今のご住職のお蔭であると言っても過言ではない。

ところで、放生寺の沿革や冬至祭については既に、この10月の「東京巡礼」で述べた。今回はこの度感じた東京の印象について述べてみよう。ずっと東京にいては気づかないかもしれないが、時々行くから気づくこともあるだろう。

地下鉄に乗ると外の景色を見るわけにもいかず、つい広告に目がいくので、地下鉄の中吊り広告などの料金は上を走る電車に比べ高いのだという。しかし広告主には申し訳ないが、私は広告よりは人に関心があり、電車内では、よく人物観察をする。

この度感じたのは、みんな身につけているものが、黒ばっかりだということ。この前に来たときにはこれほどではなかったと思うのだが。鞄も、スーツも、コートも。カジュアルな格好の人でも、黒のジャケットに黒のスラックス。女性でも、黒のセーターに黒のスカート。

もちろん黒ばかりの組み合わせということもないが、みんな黒が基調になっている。最近のファッションの流行なのかもしれないが、そこまでして黒を入れなくても良いようなものを。と感じてしまう。

見る人、見る人、みんな黒、くろ、クロ。気持ちが悪くなるほどだった。何でだろうと考えると、やはり、最近の人たちの悲惨な就業状況に思いが向かう。会社内での過酷な競争。こき使われるだけで報われることのない派遣。請負。

問題を起こしたくない、起こせない弱い立場。正社員であっても、一度何か問題を起こしたらそれで辞めさせられるかもしれない。そんなゆとりのなさを象徴しているかのような重苦しさを感じた。

個性を殺し、ただ会社の要求に応えるのみの歯車に徹しきったかのようなクロずくめの人々。もちろんそんな人ばかりではないはずではあるけれども、そんな風に思えてしまうほど、みんな強烈にクロにシフトされた人々の群れ。それに、表情も冴えない。

帰る日、用事があって銀座に出た。昔サラリーマン時代には、毎日のように闊歩した街だ。どの店もクリスマスの飾り付けに余念が無く、それなりに華やかさを感じさせてはいた。しかし、これがボーナス月の人手だろうかと思わせるほど、人通りは少なかった。ここがあの銀座かと、その色あせた感じは否めない。

まったく日本の国はどうなってしまったのか。中産階級が消費をリードし、誰もが中流と思えた時代のあの人々の笑顔は失われてしまったのであろうか。急速に衰退に向かっているかの印象に、寂しい思いを抱きつつ、新橋から羽田に向かった。

京急電車の中、私の前では、キャップをかぶった中年男性が、タイ人の女の子と楽しそうに話にうち興じていた。見ていると二人の顔立ちがよく似ていることに気づいた。顔の輪郭、目の感じ、唇が親子か兄妹のように思えた。おそらくそんな似たもの同士だからこそ、前世の因縁か、縁があって、年も生まれた国も違ってはいても、親しい関係になるのだろうかと思えた。

そして、こうして異国の人々との親密な交流が日本の国をいい方向へと変えていくのではないかとも思った。人口は減る。だからといって先日の新聞にあったように年金受取額が給与の半額を割るとして、今の水準が更に引き下げられてもそれに甘んじよと言わんばかりの数値の発表には意図的なものを感じるのだが。

しかしいずれにせよ、今の雇用形態、就業環境では、ますます結婚する人も、子供を作る人も、家を買える人も減少していくだろう。だから少子化は止められない。近い将来、他国からやってくる多くのこの国を支えてくれる人々との交流によって日本は変革されることになるのであろうか。しかしそれは、他の国と同じような階級社会をもたらすという弊害も抱き合わせて受け入れることになるのであろう。

様々な未来を私たちはいかようになろうとも受け入れて、それでも幸せに感じられるような生き方を模索するしかない。そんなことを考えつつ、帰りの機内で一人もの思いに耽っていたら、隣に坐った3歳の女の子が心配そうに私の顔をのぞき見ていた。

そうなのだ、こんな小さな子供たちが大きくなるころにも戦争だけはしない平和な世の中だけは維持してあげなければいけないのだと、気流に翻弄され激しく揺れる機体に身を預けつつ思った。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の流れ2 ジェームス・ブラントの思い

2006年12月25日 09時06分18秒 | 様々な出来事について
前編は昨年の12月15日に書いた。福山市庁の前庭に大きなクリスマスツリーが飾られたとの新聞記事に触発されて書いたものだ。私たちはクリスマスを何のためにするのだろう。クリスマスとは何かを知っているのであろうか。

私たちはその意味、意義さえも知らずにただ真似事をしているに過ぎない。誠におめでたい、軽薄さの中に生きている。外の人たちにはどう見られているであろうか。しかしこの国の多くの人たちはそんなことに気づかない。無頓着の中に生きている。だから、毎年この時期になると同じ事を思い、憂鬱な気分になる。私たちはこんな事で良いのだろうか。

ジェームス・ブラントという英国の歌手をご存知だろうか。彼は、コソボの平和維持軍の将校として3000人の部隊を率いた軍人だった。彼がデビューして何年経つのだろう。昨年欧米で大変な支持を受けて一躍有名歌手となり、今年になって日本ではドラマの挿入歌として流れブレイクした。

彼の歌う曲は、甘い恋人に語りかける恋歌の中に、この世のどうしようもない無力感、時代の耐え難い矛盾を聞く人に訴えかけているようだ。コソボで軍靴を履きながら眠る部下たちを眺めつつ曲を書き歌った。

私たちは何をやっているのか。何のために殺し合うのか。誰もが平和を望んでいながら死と隣り合わせに生きなければならない境遇をどうしたらいいというのか。だからこそ彼の曲は多くの人々の心を打つのだろう。

死の淵にある人たち、平和に暮らしていてもこの世の中の成り立ちに気づきつつある人々は、彼の書く歌詞に共鳴せざるを得ないのであろう。「Back to Bedlam」彼のデビューアルバムのタイトルである。「精神病院にもどれ」とでも訳すのであろうか。

このタイトルを見て多くの人々は何を思うであろう。タイトルへの思いについてインタビューで聞かれた彼がその真意を語ることは出来ない。そこで、私の思い入れと彼が見ていた世界の情景を思い浮かべながら、このアルバムタイトルに込めた彼の思いを私流に勝手に解釈してみよう。

 「私たちはみんな誰もが心を病んでいる。

  為政者たちよ、この世界をどうしようというのか。
 あなたたちのしていることを私は知っている。
 しなかったことも。これからしようとしていることも。
 私たちはしっかりとこの瞼に焼き付かせ語り継ごう。

 戦争のまっただ中で命と引き替えに生きる人々はみんな知っている。
 誰がいかれているのかを。
 あなたたちこそ精神病院に入るべきだ。

 そして誰もが分からなくなって精神が犯されている
 この世の中に生きる人々よ、一度自分を疑ってみよう。
 私もおかしいのではないかと。

 この地上に生きる人々よ。
 何の不安も感じないでいられる今の幸せを大切に。
 それでも、私は歌う。
 すべての人たちの覚醒と未来のために。」

欧米の多くの彼を支持し彼の曲を聴く人たちの思いは様々であろう。しかし、そもそも音楽とはこのようなものではなかったか。心の奥底からわき上がる思いの丈を、このどうしようもない思いを歌にして多くの人たちに訴えかける。世の中よ、人々よ、これでいいのかと。そしてだからこそ多くの人々が共鳴している。私たちの言いたいことを曲にのせて歌う彼を支持する人の声なき叫びを聞く思いがする。  

彼の曲に共感する日本人たちが真に彼の訴えたいものに気づき、それを我が身に置き換えてみる、私のやっていることはどのようなことかと。その一つ一つに気づくとき、何の考えもなくクリスマスをする気にはおそらくならないのではないか。クリスマスとは、人々を戦争に誘導するために利用される宗教の別の一側面に過ぎないのであるから。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生にリセットは出来ない

2006年12月19日 16時46分08秒 | 様々な出来事について
ああ、こんな人生、一からやり直したい。そんな思いに駆られたことがある人は多いのではないか。あの時、ああしておけば良かった、なんでしなかったのだろう、言わなかったのかと、そんなことをあれこれ後悔したりする人もいるだろう。

私自身もう少し学生時代に勉強しておけば良かったと思うことしきりである。しかしだからといって、もう一度そのころに戻ってやり直せるわけでもなく、今できることをする、それしか私たちに残された道はない。本当にそれが正統な考え方なのであろう。

しかし世の中には本当に追いつめられて、様々な理由から自分自身の生きる場が無くなり、自殺に追い込まれてしまう人もたくさんいる。誠に非情なことではあるけれども、ご存知の通り日本には毎年3万人もの人が自らの命を絶っている。

生きているより死んでしまった方が楽になる。死ぬことしか考えられない。周りの人にとっても自分が死を選ぶ方が良いのだと思ってしまう。そして、死んでしまえばその人生の問題が解決すると思ってしまうのではないか。

しかし本当に死ねば問題が解決するのであろうか。仏教ではすべてに因縁ありと言う。すべてのことは原因と様々な条件によって成り立っている。自殺をしてもその因縁は次の来世に持ち越されてしまう。死んで楽になると思うのは早計なのではないか。人生にリセットは出来ない。この世で何とか今の苦しみをどのようにしてでも解決していくことしか方法はないのではないかと思う。

私たちは、みんな違う環境に生まれ、様々な出会いによって、認識の仕方、物事の捉え方、好き嫌い、見方考え方が異なる。同じものを見ても、聞いても、嗅いでも、口に含んでも、触れても、その人の過去の経験いかんによってみんな違う受け取り方をする。

私たちはみんな、これまでのそうしたすべての経験、つまり因縁の集積によって成り立っていると言える。それは、今生のことだけではない。過去世も含め、輪廻転生を繰り返してきたすべての因縁について無関係であることはない。だからお釈迦様の様々な過去世の因縁話がジャータカとして伝承されてきている。

袖振れ合うも多生の縁と言う。そんな取るに足りないような縁であったとしても、それが他の縁を呼び、その人の人生にとってとても大事な縁を生じることもあるということであろう。隣あわせた人たちのちょっとした会話からヒントを得て、大もうけをする人もあるかもしれない。或いは自分よりもっと不幸な人の話を聞いて、気持ちが楽になるということもあろう。

みんな誰しも苦しみの中に生きている。何もないという人はいない。みんな多かれ少なかれコンプレックスをかかえている。しかしある人はそれを自分のウィークポイントとして認識し悩み、他の人との付き合いを限定したものにしてしまう。しかし、ある人はそれを自分のキャラクターだと気楽に思ってたくさんの人に自分をアピールしてしまう。

また、同じことを言われても、別に意に介すことなく受け流し冗談を言い返せる人と、そのことに反発して喧嘩をする人もあろうし、その時はニコニコしていながら胸に思いをため込む人もあるだろう。そういう違いがどうしても生じてくる。そうした捉え方の違いは私たちの過去のすべての行いや経験、つまり因縁によって生じている。

人生は何のためにあるのだろうか。昔読んだインドの本に、神様に灯明線香をお供えする人として生まれ、死ぬときもそのようであったなら、何のために人生を過ごしたのか分からないであろう、とあった。

それは、人はたとえ信仰心を持って生まれたとしても、そこから神にどれだけ近づけるかが大切なのだ、生まれたときと同じ場所にとどまっているのなら何のために生まれてきたのかという意味であろうと思った。それぞれの人生でどれだけ心を成長させられるかが問われているのだと。

私たちの人生には実に様々なことが起こる。その様々なことがあって、そこから何事かを学び、人として成長するために私たちには時に過酷なまでの様々な試練がやってくるのではないだろうか。いいことばかりはない、それが人生なのであろう。だから成長することが出来る。

それぞれの因縁によってみんな生きる意味、目的が違い、だからこそ誰もがそれぞれに自分を生きる価値がある。自分を変えるチャンスは今何をするかということ。正に今の自分次第なのだということになるのではないかと思う。

(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教は問いから始まる

2006年11月25日 12時09分56秒 | 様々な出来事について
昔、かれこれ25年も前のことになるだろうか。やっと私が仏教に出会い、様々な本を渉猟していた頃のことだ。当時東京の五反田にチベット文化研究所というチベットの政治文化についての情報を発信し様々な活動をする拠点があった。

所長はペマ・ギャルポ氏。今はどうか知らないが、2、3年前まで、よくテレビに辛口のコメンテイターとして出演されていた。また、たまたま私が拓殖大学でヒンディ語を勉強しているとき、客員教授をされていて、よく門前でお会いして話しかけて下さった。

そのチベット文化研究所で、チベット仏教のお坊さんが来られて瞑想の講習会があると聞いて、何も分からなかった私は恐る恐る参加したのであった。第1回は、五反田駅近くの貸しホールで行われた。その時、開口一番チベットのお坊さんが言われたのが、「仏教は問いから始まる」ということであった。

どのお経を見ても、すべて、お釈迦様が自ら話し始める経はない、みんな弟子たちや様々な人々からの問いかけにお釈迦様がお答えになる構成になっている。何か自分の中から問いを発することによって仏教は学ぶものであると言われた。

その時何も考えず、ただ瞑想を教えて下さるというので参加した私は、いや私だけではなくその時参加した誰もがあっけにとらわれた。このまま誰も質問しなければ講義そのものが始まらない。しばらくの沈黙の後、私とは何か?私とはどこにあるのだろう?と訥々とお話が始まった。

頭が自分だろうか?脳が自分だろうか?胸だろうか?手だろうか?足だろうか?そのつど間を持たせて、私たちに考えさせる。いやそうではない。どこにも私と言えるようなものはない。私と私たちが思っている存在はこの世のどこにもない。私という存在があると思いこんでいるに過ぎない。そこからすべての苦しみが生まれる。

では苦とは何だろうか?その原因は?苦のない状態は?そこへ至る道は?こんなかたちで仏教の根本の教えである四聖諦(ししょうたい)を話されたと記憶している。また、心を修める瞑想法として四念処(しねんじょ)を教えて下さった。

四念処とは、身受心法の4つについて心落ち着かせ観察すること。身は身体の動きについて、受は身体の感覚について、心は心について、法は外界の様子についてそれぞれ気付いている瞑想であった。そんな話を聞いた後、実際の坐り方を学び実習した。

その時私は、坐禅瞑想というとピンと背筋を伸ばし堅苦しいイメージを持っていたのだが、お坐りになったそのチベットのお坊さんはとても自然に、どこにも力が入っておらず、それでいて凜と静まりかえった落ち着きを感じさせていた。のちに禅宗のお寺に坐禅に行ってからも、なぜかその時のチベットのお坊さんのイメージで坐っていた。

そして、私がこうしてブログを書き続けているのも、そのはじめに言われた「仏教は問いから始まる」というひと言を頭の片隅にも留めていたからかもしれない。ただこうあるものと受け入れるだけではいけないということなのであろう。

何事も、なぜだ、どうしてだ、それは何なのだ、という問いから始まるということであろう。それがなければ、ただ知識として蓄えるだけのことで、本当の学びにならない。自分自身の教えにならない。しかしこれは、仏教に限ったことでもない。

やれと言われてやる仕事はつまらない。自ら自発的にする仕事は楽しい。勉強しなさいと言われてするよりも、その楽しさを知ってする勉強は身につく。仏教もただの知識ではつまらない。自らの悩み苦しみ、問題が解決し、心がきれいになったことがわかってはじめて学び実践する楽しみが湧いてくる。だからこそ、仏教は私自身の問いから始まらねばならないのであろう。

(↓よろしければ、二つクリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬師霊場合同法要と岡山スピコン

2006年10月29日 10時04分04秒 | 様々な出来事について
昨日、朝7時にお寺を出て、岡山市沢田にある恩徳寺さんに向かった。中国49薬師霊場会の合同法要に参加するためだった。毎年、各県毎に回り持ちで法要を行っている。恩徳寺さんは、岡山市街の東に位置する操山の麓にある。

8時半頃山門前に到着すると既にたくさんの車で道の片側はびっしりと、うまっていた。運良く出た車の後に駐車して、山門へ。山門で山口県北西端油谷半島にある32番向徳寺さんにお会いした。一昨年お参りし、その時海女さんのお寺として印象が残っていた。今でも海女さんたちはいい稼ぎをしては、お寺に寄進して下さると言われていた。檀家さんというものをたくさん持たずにも、海女さんたちの信仰で成り立っている珍しいお寺さんだ。

集会所にはいると、既に沢山のお寺さんがたがお見えになっており、挨拶して座に坐る。その部屋の、名僧方の書を貼ったふすまに目がいった。どれも立派な枯れた字だ。私の目の前には、「自心無一事」とあった。無心の境地を言い表したものであろうか。

法要は、33人の霊場寺院により、まず本堂で般若心経3巻と大般若の転読、そして薬師真言を108回唱え、回向文を読み、それから、外に出て境内での特設護摩壇にて、柴燈護摩供が修された。

合同法要に出席するといつも思うが、何か物足りない思いが残る。多宗派の坊さんが集うので、一緒に唱えるお経が般若心経しかないということだ。誠にお粗末きわまりない。そんな風に思えてしまう。

たとえば、各宗派別に、たとえば、真言宗系、天台宗系、禅宗系という大きな分け方をして、各々20分ずつ受け持って、法要をしてはどうかと密かに思っている。そして最後に一緒に心経でも唱えたらおもしろいのではないか。そう思っている。

各宗派の特色が出て聞いている参詣者も楽しいであろう。それこそ各宗派の持ち味、雰囲気、個性が興じられよう。なかなかそういう各宗派の法要を一同に聞けるお参りする機会はないのではないかと思うのだが。いかがであろうか。

合同法要が思ったより早く終わり、11時半には市内に入り、この日丁度行われている岡山スピコンに行ってきた。東京では既に、21回、私の地元福山でも今年3月に行われ、とても盛会であったという。スピコンとは、スピリチュアル・コンベンションの略で、精神世界のブースが会場所狭しとたくさん出店して、お手軽なメニューで様々な体験をしてもらおうというものだ。

岡山スピコンの会場は、吉本興業が作った三丁目劇場。ひと頃大変な人気だったと言うがほとぼり冷めて、廃業し会場だけが残ったという。お昼前というのに、多くの人が詰めかけていた。オーラ写真、前世催眠、クリスタル、占星術、波動、インド系の小物、さまざまなブースが出店していた。場違いに坊さんのご登場にみんな、おやおや、という顔をしていたが、次の瞬間にはみんな、にこやかな笑顔で迎えて下さった。

そう大きな会場ではないが、40ものブースがあっただろうか。知り合いの高田由美さんが主催する「催眠ルーム満足漢」は、行くと催眠中だという。そこで、もう一つ別に出店されている満足漢で学ばれたひろさんのブース「元気足心・ひろ」で国際若石(じゃくせき)研究会の足もみをしていただいた。黒い法服姿で足を揉んでもらっていると、目に付くのか、ご婦人衆が寄ってきて、どうですか気持ちいいですか?と質問してきた。良いですよ、と言うと、いくつか予約が入ったようだ。

揉んでもらっていたら、高田さんが来られた。笑顔満面。いつもキラキラと陽が差しているように輝いている方だ。午前中の催眠では5人中2人が前世退行して、ボロボロ泣いていた、とのことだった。団体での割安な催眠はスピコンだけ。普段は個人の受付にてセッションをなさっている。

またインド系の小物を販売しているブースには、國分寺の坐禅会にも顔を見せてくれる若い方たちが集っていた。これからインドに行くという愛知県から来た青年と暫しインド談義。楽しいひとときを過ごすことができた。

スピコンというと、ちょっと精神世界かぶれのオタクたちの集いと思いがちではあるけれども、意外とみんな真面目に、それぞれの持ち味を出して、工夫して出店している様子を窺い知ることができた。自らの心に向き合い、自然と調和して、人々がより良く生きる手助けとなるであろう。私たち仏教人も見習うところがたくさんある。来年の2月には、また福山で第2回のスピコンが行われる。是非また参加したいと思った。

(↓よかったら、二つクリックいただき、教えの伝達にご協力下さい) 

にほんブログ村 哲学ブログへ

日記@BlogRanking
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野山にお参りして2 

2006年10月16日 12時07分24秒 | 様々な出来事について
先週金曜日、恒例の懇話会があった。この度は、前回申し上げたことの訂正と、「法の六徳」と「五戒について」お話した。その後、毎回ご出席の男性から、高野山参拝の感想と以下のような質問があった。

「今回高野山に参らせてもらって、何年かぶりで参ったのだが、それなりに有り難かった。しかし、奥の院の弘法大師の御廟の前で、多くの参詣者が行き交う中でお経を上げたのだが、何かこんなものだろうかという感慨が残った。つまり真言宗の宗徒にとって一番有り難いはずの場所で、立って手を合わせるだけで、あそこへ跪いて額づいて手を合わせるという気持ちにならなかったのは、どうしてだろうか」と言われた。

イスラム教の人でも、また他の仏教国の人たちもきちんと五体を投げて礼拝するのが習慣となっている。キリスト教でも神の前に跪き胸の前で手を合わせる。昔「ニクソン」という映画を見たが、その中にニクソン大統領と国務長官キッシンジャーがともに跪き神に感謝を述べる印象的なシーンがあったのを思いだす。

私たち日本人は、お辞儀をする習慣があり、腰の低い国民性があるのに、神仏を前にして跪いて手を合わせたり、五体を投げて礼拝するということをしない。なぜなのだろう。神や仏というものに対する畏敬、崇拝の念が小さな頃からの生活習慣の中で育っていないということなのだろうか。

神とはどれだけありがたいものか。仏とは私たちが生きていく上でなくてはならないものだという意識が、私たちにあるだろうか。毎日仏壇や神棚に御供えをし、手を合わせていても、その神仏と先祖とを実際のところ混同して手を合わせてはいないだろうか。

神仏とご先祖とを同じように思っていて、改めて神とは何か、仏とは何か、と考えずにそれほど特別ありがたいものとも思っていないのではないか。私たちは、神や仏から、生きることに、また日常の生活に、そして人生に、規範となり、指針となり、教えとなるものを、はたして受け取っているであろうか。

もしもそのような受け取るものがなければ、真摯に身を投げて、手を合わせ礼拝しようという気持ちになれないのは当然のことなのかもしれない。ただ、あるせっぱ詰まった状況に追い込まれて、本当におすがりするしかない、もう追い込まれて、誰にも助けを求められない、神仏に救いを求めるしかない。

そういう気持ちになっときには、心から神仏にひれ伏し、願い祈る、すべてをお頼みするそういう気持ちになって、思わず神仏を前に跪き額づくということがあるかもしれない。逆に言えば、そういう状況に追い込まれてみないと、私たちは本当に神仏のありがたさを理解できないということなのではないかと思う。

昨日ある大手のエレベーター管理会社の幹部の方にお会いして話を伺った。50代のその方の話によれば、人の命に関わる仕事をしているからか、自分も含め同僚も、結構毎朝出社前であるとか、外出の折などにお寺や神社に立ち寄っては、手を合わせ、今日も1日無事でありますようにと祈るのだ、ということを聞いた。

この話を聞いてなぜかとてもうれしくなった。そうして、企業戦士も神仏へ手を合わせ、心から事故などトラブルが起こらないことを祈り安寧を得ている。そして、それがまた自らのストレス解消にも繋がっているのであろうと思う。そんなことをあれこれ話し合った。

近年、米国式経営の影響からか他社との競争やノルマ、社内の競争と人間関係、家庭の問題などで精神的に疲弊した中堅社員に心の病を抱える人が急増している。10月17日の朝日新聞には、上場企業の30代で6割近い人がメンタルヘルスに問題を抱えているとある。ストレスをいかに解消するか、その方法の一つとして神仏との自分なりの関わり方を模索してみては如何であろうかと思う。

にほんブログ村 哲学ブログへ

日記@BlogRanking

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京巡礼

2006年10月11日 11時04分59秒 | 様々な出来事について
9日朝一番の全日空で広島空港から羽田に飛んだ。その日正午から執り行われる新宿区西早稲田・放生寺の放生会(ほうじょうえ)に出仕するためだった。連休最後ということからか東京に向かう機内は空席が多く、快晴の中快適な一時間を読書に費やした。途中「富士山が左下にご覧になれます」とのアナウンスが流れたが、右側の席だったため見ることもなかった。

が、そのことを後でお寺で言うと「それは残念でしたね、席を移動しても見たら良かったのに、上から富士山を見れる機会などそうあるものではないし、富士山を見ると良いことがあるという人もありますよ」と言われた。まあ、それもそうかとも思ったが、別にそこまでして見たいという気持ちにはなれず、見たからどうとも思わない。一事が万事私はそんな感じだ。

ところで、ホウショウジという名のお寺はよく耳にするが、この字を書くお寺は他に知らない。放生寺は古くは放生会寺と言った。三代将軍徳川家光公から賜った寺号だ。開創の良昌上人が若い頃修行されたときに夢告から家光公の世継ぎ誕生を祈願して、後の家綱公がお生まれになり、その後中野の宝仙寺に居られた頃、放生寺の上に位置する辺りに八幡神を祀る話が起こり、その長官職に任命されて招かれ、それで高田八幡宮ができた。

当時は神仏習合の時代で、また江戸幕府が仏教を国教の位置に定めていたこともあって、神社を造営するとかいうと僧侶がその役割を担っていた。上に八幡社を建て、下に僧坊を造り、土地を崩していたときに穴が見つかり、そこから阿弥陀の小像が出てきた。阿弥陀仏は、八幡神の本持仏で、それが土地から出てきたということは八幡神を祀る適地であるとのことで、そのことが喧伝されて穴八幡との通称ができ、今ではそれが正式名称になっている。

そして良昌上人が夢告で徳川家の世継ぎ生誕祈祷をされたとのことが家光公の耳に達し、鷹狩りでお出ましの際に良昌上人を訪ねになり、お寺で修されている放生会の盛大なることを聞かれて寺号を光松山放生会寺と定め葵の御紋を寺紋とすることを許され、徳川家の祈願所とされた。

それで、江戸時代には、観音信仰が盛んになって江戸三十三観音の札所としても賑わい、「一陽来福」という金銀融通のお札が人気を集めて有名になった。このお札は、一陽来復という冬至の日に陰きわまって次の日から一陽一陽日が長くなることを意味する易経の言葉に観音経偈文にある「福聚海無量」の福の字を併せて一陽来福とし、観音菩薩の修法祈願により冬至の日に一般に頒布した。冬至の日の晩十二時に次の年の恵方に向けて居間の鴨居に貼り、金銀の融通と家族の幸福を願うという縁起の良いお札であった。

その後明治に入ると神仏分離令から、当時の放生寺住職の弟子が還俗して坊さんを諦めて神官になり、穴八幡を経営することになる。しかし経営に困って、お寺で頒布している一陽来福を一陽来復の名で細々売り出した。そして、先の戦争で広大な伽藍を焼失した放生寺は戦後見る影もなく、その間穴八幡で頒布した一陽来復が地下鉄が延びたことで有名になり多くの人々が穴八幡の一陽来復を求めることになる。冬至から翌年節分まで数万人もの人が詰めかける。

近年穴八幡は見違えるような瀟洒な建物を新築された。今回行ってみるとまず目に付いたのが、お寺に隣接した緑と朱の塀に囲まれた黒塗りの小社である。それこそがあの阿弥陀仏が出てきたという穴八幡の名の由来となる穴を祀るものだという。まだ建設途中ではあるが、きちんと神仏習合時の歴史が分かる説明書きを立ててもらいたいものだ。

放生寺でも今大きな客殿と庫裡を建設中である。墓地の新たな募集もあり放生会の法要は多くの参詣者で賑わった。生き物の命を大切に、動物だけでなく、人間の命も大切にしなければいけないだろう。その晩宿に戻ると北朝鮮核実験のニュースが飛び込んできた。

既に織り込み済みとの経済界の受け取り方が賢明なところではないか。戦争を起こそうとする人々があり、それによって潤う人々がいる。経済が戦争無しには回っていかないという人類普遍の原理もあろうが、何時の世でも苦しむのは私たち庶民だけである。

今の時代が、あの戦争に向かっていった昭和の初期に似ていると指摘する識者もおられる。新聞テレビの報道もやや偏った傾向が見られ出した。マスコミやジャーナリストたちの見識を問い、報道の質を見定める目を、私たち自身が持たなければいけない時代となった。

私がテレビを全く目にしなくなって何年経つだろう。新聞に目は通すが、そのすべてを受け入れる気持ちになれない。世論調査もまったく信用していない。恣意的に選別し、私たちをどこかへ誘導するものとしてマスコミがあると思った方が良い。

何があっても冷めた目で、どういう力関係、人間関係のもとに起こってきたものかを見定めることが必要だとある先生に教えられた。9.11のテロもやらせであったということがやっと、日本でも知らされ始めた。何事も大きく仕組まれ騙されているということを知らねばならないということだ。

翌日、私にとってのお寺の原点である浅草・浅草寺(せんそうじ)にお参りした。戦後GHQが「センソウジとは勇ましい。しかし、けしからん。そんなお寺は壊してしまえ」と言ったとか。言わなかったとか。しかし後に単なる音が同じだけと分かり取り壊されることもなく、今にその賑わいを伝えている。

相変わらずその壮大な本堂の大きさに圧倒される。中門は改装中だった。子供の頃境内に出た蛇革のベルト売りやバナナのたたき売りに目を輝かせ、また後に仲見世横で托鉢した日を思いだしつつ歩いた。江戸庶民の信仰を今に伝える浅草寺。何時までも平和にそのままの偉容を後世に伝えて欲しいと思った。

にほんブログ村 哲学ブログへ

日記@BlogRanking

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野山にお参りして

2006年10月05日 13時08分14秒 | 様々な出来事について
3日朝6時にお寺を出て、高野山に参拝した。國分寺参道入り口にバスが来て、4人の同行者と乗り込み、上御領、八尋を通って、38人。もう一台には22人の同行が乗り込んだ。総勢60人の団参。住職衆は6人。

山陽道、中国道、それに阪神高速から近畿地方を南下して橋本から高野山道路に入り、到着したのは、お昼を回っていた。途中バスの中で弘法大師1150年御遠忌記念のビデオを見た。高野山の山内行事を中心に専修学院生(高野山の僧侶養成専門道場)の修行風景を随所に紹介したものだった。

それを見ながら、かれこれ20年も前の自分の姿を重ね合わせて見ていると、次第に胸にこみ上げてくるものがあった。2月14日の晩から翌15日にかけて行う常楽会、9月から12月にかけて行ずる四度加行(しどけぎょう)中の両壇参拝、護摩の正行(しょうぎょう)、奥の院玉川での寒中水行など。

数カ所からゆらゆらと燃える護摩の火を眺め、また水行の感極まる心経の声を聞いていると胸が熱くなり、涙が流れた。当時の正に真剣に純粋に取り組んだ日々のことが思い出され、当時の思いが一つになって胸に飛び込んでくるような気がした。

かねて地元神辺結衆寺院の年間行事として毎年高野山にはこの時期参拝する訳ではあるが、住職衆も共に同行することが半ば義務となっていた。他の四国や薬師巡拝は檀家さんの参加のある寺院が出ればいいのではあるが、高野山は別格になっていた。そこにはどういう意味があるのかと思っていたのだが、この時やっとその意味が分かった。

自分たちの修行の地はやはり別格なのだと。若き日に、情熱を傾け、本気に取り組んだ、自分自身の信仰の証のような場にやはり一年一度は戻ってきて、当時の思い、志に心新たに向き合おうではないか。

下界に降りて、たとえお寺にあったとしてもその日常は世間の中で様々な喧噪に道心は埋没しがちであろう、一年一度もう一度身も心も清らかに清浄の中に立ち戻ることも必要だと。そういう意味合いがあったのではないか。おそらく、そういうことだろう。

私自身の場合は、その後インドに行ったり、四国を歩いたり、修行の思い出残る場所は多くある。しかしやはり、はじめてこの道に入って行というものに出会った場所として、高野山は特別の場所なのだろうと思う。そんなことに改めて気付かせていただいた。

世界遺産に登録されたり、高野山山内の様々な問題も耳にする。しかしそんなこととは一切関係なく、やはり古の規則を守り通し、今も厳然と修行の場としての姿勢を改めないだけでも高野山は格別なのだと思える。

参詣する人々、それぞれに思いは違う。しかしそれらの思いを受けとめられるだけの懐の広さがあるとすれば、それは弘法大師のご入定の地、伽藍の規模、建物の立派さもさることながら、やはり毎年100人を超える修行者が100日間も純真なる志をもって新たに修行する数少ない神聖なる道場であるからということなのではないだろうか。

翌日は、大阪に下り、四天王寺。宝塚の中山寺、清荒神清澄寺に参拝した。四天王寺は、聖徳太子が物部氏との戦に際し四天王像を刻み戦勝祈願して勝利し、その感謝をあらわして建てたお寺。

中山寺は女性の望みを聞いて下さるという観音霊場で、安産祈願に訪れる人が多い。明治天皇の祈願所だという。また清荒神は、火伏せの神。厄落としに火箸が沢山御供えされていた。ともに宗派本山として賑わっていた。

ところで、この度、60人の団参者のうち20代の方が10人近く参加された。おばあちゃんがお孫さん共々参加されたという家もあるし、おばあちゃんの供養に親子一家一同で詣られた方もあった。誠ににぎやかに有り難い参拝であった。

家族の連帯、意思の疎通が問題になっているこの時代に、こうして多くの若い世代が共に参加して下さったことに感謝したい。と同時に、福山市も決して例外ではなく、様々な精神的な問題を抱える人たちが増えつつある。

そうした人たちにもこういう機会に参加いただき、日常では得られない聖なる静寂の中に心癒される機会としていただけたらありがたいと思う。山陽道をひたすら西走し、神辺に到着。ところに応じて少しずつ下車していく同行者に名残惜しく思いつつ、お別れした。

にほんブログ村 哲学ブログへ

日記@BlogRanking



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名前のご縁の不思議 私的因縁物語3

2006年10月01日 15時45分26秒 | 様々な出来事について
それから私は、高校、夜間大学へと進み小さな会社に入社した。経済学部2年の時、高校時代の友人三人で早稲田大学文学部の門の前で待ち合わせ、久しぶりに語り合った。高田馬場のジャズ喫茶に連れて行かれ、良い気分で過ごしたあと、様々な思想哲学の話になった。が、残念ながらその時の私にはその手の話は苦手であった。しかしそれがために何か学ばねばという気持ちが芽生え、仏教書と出会うことになる。

原始仏教を中心に、インド思想、ヨーガ、占星術、密教などと様々な書籍を読みあさる日々が続いた。そうして仏教の世界に憧れ、自然と坊さんになりたいと思うようになっていた。父方の宗旨は日蓮宗、母方は曹洞宗だった。しかし、私は弘法大師の真言宗に、なぜか強く心惹かれた。それは、今ある日本の宗派の中で真言宗が最もインドくさい宗派であり、インド仏教の最終段階の教えであったからではないかと思う。

休暇を利用して一人で高野山にも参拝し宿坊に泊まった。頭の中でではあったが僧侶の世界が具体化してきた頃、職場の最長老の上司が亡くなった。葬儀に参列したとき、お越しになった僧侶方の姿、言葉に強い違和感を感じたことを記憶している。そして葬儀では和文の経文が唱えられた。

それは今思うととても発展的なことで試行錯誤の上のことであったであろうと思われるが、その時には何か不釣り合いなものに感じ、この世界には多くの改革すべき課題があるのではないかと、不遜にも思った。そうして僧侶の世界を窺い知ることで、自分にも何かお役に立てることがあるのかもしれないと思えた。

大学を卒業後もその気持ちに変わりはなかった。そして25、6才の頃、あれやこれや色々な理由を考えて自分が会社をリタイヤして坊さんになる事の意味づけをし自らを啓発して、周りにも説明した。しかしあれこれ考えたことどもは、みなそれは言い訳であって、ただ単にやはり仏教の世界に強く憧れたというに過ぎなかったのかもしれない。

退社して高野山に登り、弟子入りした高室院で数ヶ月を過ごし、それから僧侶養成の教育機関・専修学院で一年間学んだ後、高室院に私を紹介してくださった東京早稲田の放生寺で役僧として仕事をさせていただくことになった。

東京に戻ると、すぐに湯島のお寺に養子入りする見合の話が来ていた。結局進展することはなかったが、その後も青森、長野、奈良、逗子、小豆島など片手に余るお寺の話があったのだが、何れもご縁がなかった。

放生寺に住み込み、3か月ほどが過ぎた頃本堂の床掃除をしているとき、このお寺が私を仏教に出会わせてくれたきっかけとなる、あの友人二人と再会した早稲田大学文学部の門を見下ろす場所にあることに気付いた。

そしてその時、突如として仏教の縁起の教えが頭に閃いた。正に人生の様々な瞬間瞬間の選択肢に一つも違わずに今ここにある、目にしている人も町並みも車も今そこにあるのはそれぞれの行いの連続の中でここにあるべくしてある。

今目にしているものも聞く音もとても有り難い尊いものに思われた。すべてのものは瞬間瞬間の原因と結果によって、かくあるべくしてあると、因果の不思議をはっきりと、まざまざと見て取ったという感覚を得たのであった。

そしてその翌年、インドへ巡礼した。その後四国を歩いたり、禅寺で坐禅をしたり、東京で托鉢したりして生活した。そして2度目に巡礼したときにご縁ができ、インドのカルカッタにあるベンガル仏教会で南方上座仏教の僧侶として3年余り生活した。インドへ行かなくては仏教は分からない。そんな強迫観念をずっと持ち続けていたからであろうか。

それはひとえに、はじめて手にした仏教書『仏教の思想1〈智恵と慈悲〉ブッダ』(角川書店)の増谷文雄先生の、正にそこでブッダと対話をするかのような文体に魅了され、インドで息づくお釈迦様の仏教こそが本来の仏教であるという信念をもつにいたっていたからでもあった。インドの仏教僧院で上座部の僧として曲がりなりにも生活できたことは私にとって財産とも言える貴重な経験となった。

インドから戻って、日本僧に復帰した私は、日本滞在中居候させていただいていた放生寺を後にして、下町深川の冬木弁天堂という深川七福神の一つでもある小さなお堂の堂守となった。そこで3年3が月、江戸三大祭り、水かけ祭りで有名な富岡八幡の御輿総代方や辰巳芸者のお姉さん方との付き合いが始まるのだが、その話はまた別の機会にしよう。

ところで、私に人の生死について考える機会をつくってくれたのは、亡くなった同級生後藤君であった。そして、私が仏教そのものと出会うきっかけとなり、高野山への道筋をつけて下さった早稲田大学文学部門前にある放生寺ご住職は五島祐康師であった。

さらに、インドでベンガル仏教会でインド僧になるご縁を作って下さったのも、実は日本人インド僧後藤恵照師との出会いがあったればこそであった。三人のゴトウさんとのご縁によって僧侶としての階段を上ってきた。元の話に戻るようで恐縮ではあるが、名前の縁というのも実におもしろい、摩訶不思議なものだと私には思えるのである。

にほんブログ村 哲学ブログへ

日記@BlogRanking

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする