住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

仏教は問いから始まる

2006年11月25日 12時09分56秒 | 様々な出来事について
昔、かれこれ25年も前のことになるだろうか。やっと私が仏教に出会い、様々な本を渉猟していた頃のことだ。当時東京の五反田にチベット文化研究所というチベットの政治文化についての情報を発信し様々な活動をする拠点があった。

所長はペマ・ギャルポ氏。今はどうか知らないが、2、3年前まで、よくテレビに辛口のコメンテイターとして出演されていた。また、たまたま私が拓殖大学でヒンディ語を勉強しているとき、客員教授をされていて、よく門前でお会いして話しかけて下さった。

そのチベット文化研究所で、チベット仏教のお坊さんが来られて瞑想の講習会があると聞いて、何も分からなかった私は恐る恐る参加したのであった。第1回は、五反田駅近くの貸しホールで行われた。その時、開口一番チベットのお坊さんが言われたのが、「仏教は問いから始まる」ということであった。

どのお経を見ても、すべて、お釈迦様が自ら話し始める経はない、みんな弟子たちや様々な人々からの問いかけにお釈迦様がお答えになる構成になっている。何か自分の中から問いを発することによって仏教は学ぶものであると言われた。

その時何も考えず、ただ瞑想を教えて下さるというので参加した私は、いや私だけではなくその時参加した誰もがあっけにとらわれた。このまま誰も質問しなければ講義そのものが始まらない。しばらくの沈黙の後、私とは何か?私とはどこにあるのだろう?と訥々とお話が始まった。

頭が自分だろうか?脳が自分だろうか?胸だろうか?手だろうか?足だろうか?そのつど間を持たせて、私たちに考えさせる。いやそうではない。どこにも私と言えるようなものはない。私と私たちが思っている存在はこの世のどこにもない。私という存在があると思いこんでいるに過ぎない。そこからすべての苦しみが生まれる。

では苦とは何だろうか?その原因は?苦のない状態は?そこへ至る道は?こんなかたちで仏教の根本の教えである四聖諦(ししょうたい)を話されたと記憶している。また、心を修める瞑想法として四念処(しねんじょ)を教えて下さった。

四念処とは、身受心法の4つについて心落ち着かせ観察すること。身は身体の動きについて、受は身体の感覚について、心は心について、法は外界の様子についてそれぞれ気付いている瞑想であった。そんな話を聞いた後、実際の坐り方を学び実習した。

その時私は、坐禅瞑想というとピンと背筋を伸ばし堅苦しいイメージを持っていたのだが、お坐りになったそのチベットのお坊さんはとても自然に、どこにも力が入っておらず、それでいて凜と静まりかえった落ち着きを感じさせていた。のちに禅宗のお寺に坐禅に行ってからも、なぜかその時のチベットのお坊さんのイメージで坐っていた。

そして、私がこうしてブログを書き続けているのも、そのはじめに言われた「仏教は問いから始まる」というひと言を頭の片隅にも留めていたからかもしれない。ただこうあるものと受け入れるだけではいけないということなのであろう。

何事も、なぜだ、どうしてだ、それは何なのだ、という問いから始まるということであろう。それがなければ、ただ知識として蓄えるだけのことで、本当の学びにならない。自分自身の教えにならない。しかしこれは、仏教に限ったことでもない。

やれと言われてやる仕事はつまらない。自ら自発的にする仕事は楽しい。勉強しなさいと言われてするよりも、その楽しさを知ってする勉強は身につく。仏教もただの知識ではつまらない。自らの悩み苦しみ、問題が解決し、心がきれいになったことがわかってはじめて学び実践する楽しみが湧いてくる。だからこそ、仏教は私自身の問いから始まらねばならないのであろう。

(↓よろしければ、二つクリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 塔婆とは何か-仏塔にまつわ... | トップ | インド思い出話1-ヨーガの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

様々な出来事について」カテゴリの最新記事