おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

さようなら

2018-05-28 12:50:12 | 映画
深田晃司の「海を駆ける」が公開されている。見に行くつもりが時間が取れず、過去の作品を家で再見。

「さようなら」 2015年 日本


監督 深田晃司
出演 ブライアリー・ロング
   新井浩文 村田牧子 村上虹郎
   木引優子 ジェローム・キルシャー
   イレーヌ・ジャコブ

ストーリー
近未来の日本。
稼働する原子力発電施設が、同時多発テロによって一晩のうちに爆破され、放射能が大量に流失した。
日本の国土のおよそ8割が深刻な放射能汚染に晒されることになる。
その日からの混乱は凄まじかった。
1億人の人間が一斉に放射能の少しでも薄い地域へと遁走を始めた。
本土はもうどこも汚染されていたので、皆は沖縄か海外を目指したが、諸外国は放射能に汚染された日本人の受け入れには慎重な態度を示した。
テロから2ヶ月後、ついに政府は「棄国」宣言をし、各国と連携して計画的避難体制が敷かれることになった。
つまり、国民に優先順位をつけて、順番に避難を進めていくことになったのだ。
半年後。ターニャは眠っていた。
ターニャの傍には、彼女の友人であるジェミノイドFが座っている。
生前の両親が、病弱で学校にも満足に通えなかった幼いターニャのために買い与えたものだ。
国民番号から「ランダム」に選ばれた人間から順番に避難することになった。
しかし、在日外国人であるターニャの避難順位は下位に設定され、その抽選にあたることもない。
それに、病弱のターニャは、どうせ逃げられないのだ。
ターニャの家を訪ねてくる恋人の聡史や友人たちは皆、マスクをしている。
その友人たちもまたひとりひとりと、避難の順番が来て姿を消していく。
ターニャの恋人も、ある朝、彼女に別れを告げにくる。

寸評
日本全土が放射能にさらされ、全国民が国外退去を余儀なくされるという設定は、少し前なら荒唐無稽な絵空事と片付けられただろうが、福島原発事故を経験し、隣国に核開発とミサイル発射を続ける北朝鮮があり、世界では場所を選ばずテロが多発している現状を思うと、全くの架空物語と言えないものを感じる。
僕はターニャが出会っている現実に違和感を感じない不思議な感覚で見続けた。

ターニャとアンドロイドが暮らす家の外は、国民の避難が進んでいるので殺伐とした風景ばかりだ。
静岡もだめだとの会話があるので、全国で原発事故が起きているらしいことが想像されるが、原発の事故状況とか、テロを描くことなどは排除しているので、起きていることの悲惨な状況に比べて映画は非常に静かだ。
その中で、原発問題、移民問題、家族の意味、生と死についてなどを考えさせていく。
声高に訴えているわけではないのに、自然とそのようなことを考えてしまう余地がある静かな進行だ。
各国に日本の避難民を受け入れてもらうのだが、それは言い換えれば日本人が原発難民となるということだ。
現在の日本は先進国の中では極端に難民を受け入れていない国である。
理由の如何を問わず他国の難民は受け入れないで、自分たちが難民となった時は受け入れてほしいと思うであろうわがままが見え隠れする。
日本人から難民が発生するなどと言うことは想像できないが、しかしもしもそうなったらやはり受け入れてほしいと願うだろうと思う。
文化、治安、環境を考えると難民政策は難しい。

ターニャが父に買ってもらったというアンドロイドは人工知能を持った機械なので感情はない。
感情はターニャから学び取って自分のものにしている。
アンドロイドは足が故障していて、車いすの生活である。
病気のターニャと相互補助の様な関係で生活しているようだ。
人間は忘れることができるが、アンドロイドは一度得た記憶は失うことがない。
辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったことなど嫌な思い出を忘れ去ることが出来るのは、弱い人間が獲得した生きるための能力なのかもしれないが、人は同時に忘れてはならないことも時間の経過とともに忘れ去ってしまう厄介な生き物である。
災害も原発事故も、あるいは戦争の記憶もともすれば忘れ去られてしまう。
原発事故による避難者が増えて、自分の周りからは友人たちが消えていく。
しかし人が死を迎えるころになると、大なり小なり似たような状況になるのではないか。
長年の友人も先に亡くなっているかもしれないし、住む場所も違ってきて疎遠になっているかもしれない。
結局一人でこの世におさらばするのかもしれない。
ターニャは一人淋しく死んでいき、朽ち果てた体も風に吹かれて無くなってしまう。
残されたアンドロイドもみすぼらしい姿になっていき、車いすから投げ出され這っていくと目の前に100年ぐらいに一度咲くという竹の花を目にする。
ターニャの父が見て感動したと言う光景を目にしたのだが、そこにはもう日本人は一人もいなかった。
谷川俊太郎や若山牧水の詩も淋しいものだったが、映画そのものも最後まで淋しいものだった。