ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

N国・立花党首と救命ボートの倫理

2019-10-02 15:26:18 | 日記
またしても「N国」立花党首のお騒がせ発言である。YouTuber でもある立花氏は、動画投稿サイト YouTUbe での対談で、世界の人口増加への対応について、次のように語ったという。
「ばかな国ほど子どもを産む。ばかな民族というか。そういう人たちを甘やかすと、どんどん子どもを産む。ものすごく大ざっぱに言えば、あほみたいに子どもを産む民族は、とりあえず虐殺しよう、みたいな。やる気はないけど」

この発言をシリアスに受け止め、「言語道断だ!」と大真面目に批判した共産党の志位委員長は、立花党首の挑発戦略にまんまと乗せられた格好である。
「これは民族や他国民の虐殺をあおる許しがたい発言だ。公党の代表の資格もないし、国会議員の資格もない。」そう志位委員長は批判したそうだが(NHK NEWS WEB 9月30日配信)、この種の批判こそ、立花党首が待ち望んでいた典型的な批判ではないか。待ってました!とばかりに、立花党首はほくそ笑んだことだろう。

この発言を聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、ギャレット・ハーディンの「救命ボートの倫理」である。

「救命ボートの倫理」とは、どんな倫理学説なのか。

ハーディンは、「世界の3分の1の人々は豊かで、世界の3分の2の人々は死ぬほど貧しい」とする仮定から議論をはじめている。それとともに、ハーディンは「救命ボート」の比喩を用い、 裕福な国々は「比較的裕福な人々で満員になっている救命ボート」であり、 他方、貧しい国々の人々は「はるかに混み合った救命ボート」に乗っている、と想定し、この仮想の状況を、議論の出発点として設定するのである。

ハーディンの議論に応えて、ひとつ我々も考えてみようではないか。いま貧しい人々が、混み合ったボートから次々と海にこぼれ落ちている。 彼らは裕福な救命ボートに乗せてもらうか、あるいはボートのごちそう(goodies)にありつこうとして、裕福な救命ボートの周りを泳いでいる。裕福な救命ボートの乗員である我々は、さて、この状況にどう臨めばよいのか。

この場合、忘れてはならないのは、我々が乗る救命ボートは「収容能力に限りがある」ということである。最大で60人乗れるところに 、現在は50人が乗っているとしよう。それならあと10人は乗せられるようにみえるが、そうではない。あと10人乗せると、このボートはバランスを壊しやすくなり、安全な航行ができなくなる。だから海に100名の人間がおぼれかかっていて、「ボートに乗せてくれ」と叫んでいるとしても、我々はその100人はおろか、その内の10人すら助けるわけにはいかないのだ。海でおぼれかかっている100人を、つまり、全員を、見殺しにする、ーーこれが我々のとるべき態度だとハーディンは言う。

ここで救命ボートの比喩を離れて考えれば、多くの人が貧困にあえぐ貧しい国がある場合、我々豊な国の住民は、貧しい国の人々に資源を与えたり、貧しい国から移民を受け入れたりすることが「人道に適う」ことのように思える。共産党の志位委員長も、「N国」の立花党首を批判するときは、たぶんそう考えたに違いない。

しかし実は、それは救命ボートに収容能力以上の乗員を乗せることと同じであり、豊かな国にとってはそれは自殺的な行為だとハーディンは言うのである。

ハーディンは冷然と「援助するな、全員見殺しにせよ」と言う。立花党首は、もっとラディカルに「虐殺せよ」と言う。この二つの言説には大きな相違があるようにみえるが、そうだろうか。大差はない、と、そう私は思うのだが、共産党の志位さんはどうお思いだろうか。
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