戦争中、多摩地域一帯には軍需工場や軍関係施設があったようで、空襲もあったらしい。私も小学生時代、学校の近所で見つかった不発弾処理の為、近所のお寺に避難をした思い出がある。
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昨日のブログに、ハナビリウムを先週の金曜日に見に行った話を書いたが、チケットを購入後、東映時間まで3時間程時間が空いてしまったので、ずっと見に行く機会の無かった「旧日立航空機株式会社変電所」を見に行く事にした。
昭和13年に東大和(当時は大和村だったはず・・)に東京瓦斯電気工業が進出し、航空機の部品等をつくっていたらしい。(その後日立と合併して日立航空機になったので、現在残っているその建物は「旧日立航空機株式会社変電所」と呼ばれているのだ。)
戦争末期、軍需工場があった多摩地区も空襲を受け、この変電所のあった工場も空襲を受けたのだという。壁一面に機銃掃射の後が残るその建物は、工場が空襲で破壊されても奇跡的に倒壊を免れて、平成5年まで変電所として使用され続け、その後工場の敷地が都立公園になった際に、当時の姿のまま保存されることになったとの事だった。
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私は子どもの頃、この「旧日立航空機株式会社変電所」の近所に住んでいた。当時は大きな工場がまだ稼働している最中だったので、もちろん中は見られない。ただ父親は仕事の関係で中に入った事があったようで、この建物の話を私に教えてくれた事があった。なんでも珍しい物を見たかった私は「見せて欲しい」とねだったが、当然そんな子どものお願いは却下である。
今憶えているのは、当時住んでいた辺りの事を、大人たちが@ガス電と呼んでいた事だ。私も自分が住んでいる場所の住所を当時は「がすでん」と思っていた。後になって「ガス電」が住所でないと知ったのだが、どうしてガス電と呼ぶのかを確認することもなく今日まで過ぎてしまった。
建物の前にある案内板の中に「東京瓦斯電気工業」という会社名を見つけ、それであのあたりの事をずっと@ガス電と呼んでいたのだと分かった。確かに、今もバス停の名前にガス電通りという停留所が残っている。「東京瓦斯電気工業」の工場があったから、戦後何年経ってその地域を@ガス電と呼んでいたのだろう。
炎天下、壁に生々しく残った穴を見つめながら、子どもの頃の事を思い出したり、戦後もずっと使われ続けていたこの建物の事を思ったりする・・・・