ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

あなたの大切な人

2018-08-11 07:56:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大事な人」8月3日
 『第14回水害サミット』に関する特集記事が掲載されました。大きな見出しは『自助育む防災教育を』でしたが、防災教育の具体像については余り明確に語られていませんでした。そんな中で、東京大学大学院特任教授片田敏孝氏の話が印象に残りました。
 片田氏は、『釜石の子どもたちは、君たちがちゃんと命を守ることができる子であれば、お父さんやお母さんも命を守れると教えた時に、懸命に逃げた。その人にとって大事な人のことを想起させる。逃げることがいかに合理的で正しい判断なのかを説得するのではなく、納得させなければならない』と語っていらっしゃいました。
 防災教育に限らず、生活指導全般に於いて重要な指摘だと感じました。私は以前からこのブログで、子供の問題行動の予防策として、「大切な人」をキーワードに挙げてきました。万引きをする、喫煙をする、ケンカをして人を傷つける、援助交際をする、様々な問題行動があります。
 なぜ万引きをしてはいけないか、その理由を説いて聞かせることは難しいことではありません。社会を構成する約束事である所有権の話をするのもありですし、自分の経歴に傷が付き将来に不利という説得もあるかもしれません。お店の人の立場になって困るだろうと話すやり方もあるでしょうし、万引きくらいという軽い気持ちで始めても段々と悪質な犯罪に巻き込まれて抜け出せなくなるという脅しも使われるかもしれません。
 しかし、そうしたお説教はあまり効果がありません。私は、「君がそんなことをしたと分かったら、お父さんやお母さんはどう感じるだろうか。悲しまないかな。自分の育て方が悪かったと自分を責めて涙を流しているんじゃないかな」と大切な人を想起させるのが効果的だと考えています。
 ただし、条件があります。それは子供が本心から「この人は私にとって大切な人だ」と思える存在の人がいるということです。子供にとって、両親が「大切な人」であるという保証はありません。もし、両親が「大切な人」ではなく、「憎い人」「邪魔な人」「抑圧者」である場合には、かえって「困らせてやろう」ということになりかねません。
 私は特に倫理観の強い人間ではありません。私が犯罪を犯さずに生きてこられたのは、子供時代は両親や姉、成人してからは妻などに迷惑をかけたくないという思いが自分を律してきたからでした。もし自分がこんなことをしたら~、父が会社をクビになってしまうかもしれない、母が地域で白い目で見られるかもしれない、姉が結婚できなくなるかもしれない、そんな思いがブレーキになっていた面は否定できません。私はそのことを感謝しています。家族が大切な人であってくれたことに。
 私が考える問題行動対策は、家庭の協力が必要です。子供にとって大切な人になってください、という意味で。これ以上の防止策はないと考えています。

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市長が越えるハードルは

2018-08-10 08:06:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公平を保つ方法」8月3日
 『学テ成績で教員評価 大阪市手当増減を検討』という見出しの記事が掲載されました。大阪市長吉村洋文氏が、『学テの数値目標を設定し、達成状況に応じて教員の手当を増減させる人事評価制度の導入を検討する』と発表したことを報じる記事です。いかにも維新の会らしい発想ですね。そうした意味で驚きはありません。私はもちろん反対の立場です。
 しかし、市長という立場の人が一度やると言った以上、実施されるでしょう。その際の条件を考えてみたいと思います。人事評価制度が教員の指導力向上に資するためには、評価が公平・公正に行われていると教員に思わせることが絶対条件になります。その点で疑念をもたれるようでは、逆効果になってしまいます。
 そのための第一条件が、競争条件の公平さです。例えば、銀行が各支店の業績を評価するとき、立地場所が、住宅街なのか、商業地なのかによって目標とする預金獲得額も貸出額も異なるはずです。もし、そうした条件を無視して同じ目標を設定したとしたら、大きな不満が噴出することでしょう。
 次に結果と責任の明確化です。銀行の例で言えば、預金獲得額が目標を下回った場合、その責任が行員の中の誰にあるのか、誰もが納得する形で明示されていることが必要になります。連帯責任のような形で、自分の努力が無視され、他人のミスや怠惰の責任を押し付けられるようなシステムでは、やる気を掻き立てることなど不可能です。
 そして、評価対象者の選定の公正さです。制度が銀行の全行員を対象としているか、あるいは評価対象者となることのメリットがあるか、評価対象者になるのは希望制か、である必要があります。自分は厳しい評価に曝されているのに、別の行員は目標設定がなくのんびりと仕事をしているというのでは、やってられないよ、という気持ちになってしまいます。それが自分から申し出たことならば文句の言いようがありませんが、何のメリットもなく勝手に対象者にされ低評価を受けるというのではたまったものではありません。
 以上のようなことを教員に当てはめると、まず、学校や学級の置かれた状況をさまざまな条件を勘案して均等化できるのかという問題が浮かび上がります。高学歴・高収入の保護者が集まる地域の学校と生活保護世帯が多数を占める学校とでは、子供の学力に大きな差があるのは常識ですが、どのように目標設定をするのでしょうか。しかも、いじめ自殺事件が発生とか、級友の死亡事故発生、学校管理下での重大事故発生など、子供が動揺し、学力に影響を与える偶発事をどう評価するか、など考えればきりがありません。可能なのでしょうか。
 次に、誰の責任かという点ですが、5年生の学テの場合、4年生の担任の責任を問うのか、現担任か、あるいは入学以降全ての担任の責任を問うのか、もし複数の担任の責任を問うのであれば、その責任の割合はどうなるのか、これも納得のいく答えは難しいでしょう。3年生のときに学級崩壊を起こし、4年生の担任が必死に立て直したものの、授業の充実までには至らなかったケースで、4年生の担任の責任を問うということになれば、不満は収まらないでしょう。
 最後に、もし3年生と5年生の担任(あるいは2年生と4年生)だけが、責任を問われるのだとしたら、その学年を希望する教員は激減するでしょう。もちろん、校内人事権は校長にあり、本人の意向など無視して決定することは可能ですが、そうした軋轢が毎年繰り返されるとなれば、校内の協業の意識は育たなくなってしまい、学校の教育力は大きく低下することになります。
 吉村市長の手腕に注目です。

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ファクトを語れ

2018-08-09 08:12:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知りたいのは」8月3日
 『中2自殺「いじめ原因」』という見出しの記事が掲載されました。青森市でおきた中2生徒がいじめを訴えて自殺下地権についての報告書が提出されたことに関する記事です。最初の報告書案で、いじめではなく思春期鬱が自殺の主たる原因とされていたことに遺族が不満を表明し、審議会が解散させられた経緯があります。しかし、ここではその中身や経緯についてはふれません。気になったのは『「寄り添う」事例共有を』という見出しで書かれた記事の解説です。
 その中に、『文部科学省のいじめ調査のガイドラインは「被害児童生徒・保護者に寄り添いながら対応し(略)」よう定めているが、「寄り添う」の基準は明確ではない』という記述がありました。また、同市の審議会の元会長の『寄り添うというのは分かるようで分からない』という言葉も紹介されていました。さらに、新会長は『遺族の知りたいという気持ちに添う意味での第三者性と公正性が大事』と語っていらっしゃいました。
 私はこのブログで、いじめ調査について、いじめが自殺の原因か否かという点に焦点が当てられることに疑問を呈してきました。新会長が言っているとおり、遺族が知りたいことを明らかにすることが最重要視されるべきなのです。では遺族が知りたいのは何かと言えば、自殺するまでに学校内で、いつ、誰によって、どのような状況下で、どのような言動があり、それに対して、いつ、誰が、どのような支援の手を差し伸べ、どのような指導をし、組織としてどのように情報が共有され、教委に報告され、校長は教員に対応を指示していたかという「事実」であるはずです。
 もちろん、調査を続ける中で矛盾する証言が存在し、事実を確定できないこともたくさんあるはずです。その場合はそのまま矛盾する証言を併記すればよいだけです。報告書に信頼性をもたせるためには、調査の結果だけではなく、調査の方法についても報告を受けた者がその適否が判断できるように、面接による聞き取りか、アンケートか、目安箱のような匿名の情報提供なのか、面接は誰が行ったのか、なども明記すべきです。
 膨大な量になるでしょう。でも、無理に集約せず、そのままを報告すればよいのです。そして、自殺の原因の特定は不要です。あくまでも事実を明らかにし、後の評価は報告を受けた者に委ねればよいのです。遺族が、特定の教員の処罰を求めるかもしれませんし、教委や校長を訴えるかもしれません。加害者側に損害賠償や新聞広告での謝罪を要求するケースも考えられます。
 それらへの対応は、実際にそうした事態に直面したときに、それぞれの立場で、誠実且つ正当に行えばよいのです。報告者はその際の証拠となります。報告書の内容をねじ曲げて嘘の記述をしても、裁判となれば、必ず不正は明らかになり、訴えられた側はより大きなダメージを受けることになります。しかし、正確な報告書を作成し、それに基づいて判決が下されるならば、ダメージは限定されたものになるはずです。「寄り添う」とは関係ありませんが、それこそが組織としてのダメージコントロールなのです。
 審議会等が、原因の特定をしようとするから、対立が生まれるのです。事実を明らかにし、事実を元に説明し、謝罪し、関係者に必要な処分をし、改善策を提示する、そこまででよいのです。それが知りたい気持ちに「寄り添う」ことなのです。そこから先は、教委の仕事ではありません。自治体の仕事でもありません。司法の、場合によっては警察の仕事だと割り切ることが大切です。

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忘れられても

2018-08-08 08:34:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうだ!」8月2日
 特集ワイドの見出しは『「友だち幻想」10年を経て再注目』でした。「友だち幻想」とは、元宮城教育大教授菅野仁氏の著書です。私は読んだことがなかったのですが、その内容は、『苦手な相手とは無理に仲良くなろうと頑張らなくてもよい』『気の合わない人とでも一緒にいる作法を身につけることが必要』というようなものだそうです。
 これは私がこのブログで再三触れてきた主張とぴったりと重なります。私は、級友はバスの乗客という例えで説明をしてきました。学級は子供自身の意思に関係なく、大人の都合でつくられた集団です。気の合う人ばかりではないのは当然です。だからといって、ケンカや言い合いばかりしていては、学級内は不愉快な状況となり、自分にとっても良いことは何もありません。バスに乗り合わせた乗客も、自分で選んだ仲間ではありません。だからといって、「薄汚いはげ親父」「騒がしいガキ」と気にくわない奴をにらみつけていたのでは、短い時間でも不快です。
 加齢臭のする「はげ親父」を好きになることはできないでしょう。そこで、小社会の中で平穏に過ごそうとするならば、無理に好意をもとうとすることなく、ただマナーやルールを守り、隣に座るときには小さく会釈をしたり、ふらついて足を踏みそうになったら「ごめんなさい」と言ったり、席を譲られたら「ありがとうございます」と微笑みかける、といった「作法」を身につけることが必要だと説いたのです。そしてそれは、学級という小社会においても同じだと。
 このことは、拙著「断章取義」の中でも繰り返し述べているので、興味のある方はお読みください。今回、私が注目したのは、菅野氏が書かれているもう一つの言葉です。『先生は生徒の記憶に残らなくてもいい』というメッセージです。
 この場合の記憶とは、「良い記憶」を指していると思われます。殴られたとか不当に怒られたとか、贔屓されたというような記憶を残す教員であってはいけないことは当然であり、わざわざ書くようなことではないからです。「いい先生だった」「先生と出会ったから今の自分がある」「先生が味方でいてくれたからいじめに耐えられた」というような類の「記憶」を指しているのです。
 教員の中には、こうした「良い記憶」に残ることが、教員としての評価であると考えている人が少なくありません。「自分の講義を聴いて、たった一人でも歴史の道へ進もうと考える生徒がいてくれたら教師冥利に尽きる」というようなことを真顔で言う人を何人も知っています。大勢に薄い印象しか残せない教員であるより、一人(もしくは少数)に強い影響を及ぼすことに価値を見出す教員観です。
 昔ながらの徒弟制度であるならばそれもよいでしょう。しかし、公立校の教員は、広く薄くを目指すべきだと考えます。強烈なエピソードが、その子供を変えるということは確かにあります。しかしそれは結果に過ぎません。最初から、意図的計画的に、強い印象を与えようとして教育活動を行うことは危険ですし、洗脳と紙一重の行為です。
 小学校の教員であれば、ほぼ全員の子供が、少数の四則計算ができ、教科書をつっかえずに読むことができ、15分間くらいは椅子に座って静かに話を聞くことができ、45分間に  400字程度の文章を書くことができるように能力や習慣を身に着けさせることに全力を注ぐべきなのです。ある程度教員をしてきた人ならば、これらのことが決して容易ではないことを身をもって理解しているはずです。そして、1年生の時には5分間も静かに話を聞くことができなかった自分が、15分間落ち着いて話を聞けることができるようになったことを「良い記憶」として大人になっても持ち続けている人はいないものです。
 しかし、本人が気がつかなくても、上述したような読み書き算盤的な基礎は、その子供の将来を大きく拓く基盤となっているのであり、それこそが義務教育、小学校教員の使命であり、評価されるべきことなのです。私はできませんでしたが。
 地道に指導に当たり、もし教員が意図しないところで、「良い記憶」を与えていたとしたら、それを望外の喜びとすればよいのです。

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レッドラインまで

2018-08-07 08:07:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見捨てられる前に」8月2日
 京都精華大専任講師白井聡氏が、『道徳的言語より事実と論理を』という表題でコラムを書かれていました。我が国の国会について、『今国会を通じて戦後日本の議会制民主主義は死んだと断言しても差し支えない』と断言する白井氏は、M紙の佐藤政治部長の文章にも苦言を呈しています。
 『「国会議員と官僚の一人一人が自らの良心に照らし、統治機構の危機的な状況を立て直す必要がある」と結ばれているが、違和感を禁じ得ない。彼らの「良心」? 存在しないものに期待を寄せることなどできない。正論が通じる相手ではないことをメディアは自覚すべきだ』という過激なものです。つまり、白井氏は、国会議員と官僚を見放したのです。良心のない化け物として。
 私も、今国会における与党議員と内閣を構成する政治家、官僚の言動についてはあきれていますが、白井氏ほど突き放した見方はできません。それはともかく、ここまでの低評価を受けるようになってしまっては、信頼回復など望むべくもありません。
 教委はどうでしょうか。学校はどうでしょうか。教員はどうでしょうか。多くの国民から、保護者や子供から、「彼らの良心などに期待を寄せることなどできない」と言われるレッドラインまで、あとどれくらいあるでしょうか。同じ日の紙面には、教え子の小3女児を校内で暴行した教員の記事が掲載されていました。一人の教員のこうした行為が、国民の教員や学校に対する意識をまた一歩レッドラインに近づけていくのです。
 学校教育は、学校と保護者、教員と子供、教育行政と国民など、いくつもの信頼関係によって成り立っています。善悪はともかく、他の行政分野と異なり、制度や規則、法的な権利義務関係などに拠る部分が少なく、明示化されていないあやふやな「信頼」や「善意」などを原理とし、「指導」や「お願い」、「傾聴」や「話し合い」によって営まれているのが、学校教育なのです。それだけに、「信頼」がなくなり、学校や教員と保護者や子供が仮想敵のような関係になり、事実を突きつけ訴訟で決着をつけるような一般的になれば、教育は機能しなくなるのです。
 全ての教員が、自分の力量不足、自覚のなさ、問題行動などが、「信頼」という大木を少しずつ腐らせ、やがて倒壊させるということを肝に銘じ、職務に当たってほしいと思います。

 

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全てに通用する万能策

2018-08-06 07:56:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そんなことはあり得ない」8月1日
 『学力テスト 小中、応用力なお課題 指導法確立されず』という見出しの記事が掲載されました。文科省が公表した学力テストの結果について報じる記事です。結果とその分析について、現場の教員や教育行政法の専門家などのコメントが掲載されていました。ここではその詳細については触れませんが、私は記事の見出しそのものに大きな問題を感じました。
 それは、「指導法確立されず」という部分です。この見出しは、学力テストの結果について緻密な分析を行い、その分析に基づいて研究を重ねれば、応用力を高める指導法が明らかになるはずだ、という前提に立って書かれています。その前提は間違っているということがどうして分からないのでしょうか。
 世の中にはさまざまなハウツー本が存在します。良いパパになる方法、出来る管理職になる方法、自分を魅力的に見せる秘訣、等々です。専門外なのでその内容に正否について論じることは出来ませんが、そこに書かれたハウツーをそのまま当てはめてみたらうまくいった、ということは皆無に近いはずです。当然です。
 「出来る管理職」を例に考えてみましょう。上司と部下といっても、それぞれに個性と能力があり、職種も異なり、職場の雰囲気も異なります。抱えている課題も違いますし、与えられている目標も違うでしょう。1冊の本の中に書かれたハウツーで効果があるケースはごく僅かであると考えるのが常識的な態度というものでしょう。新しく課長になったからといって、ハウツー本通りに部下と折衝するような「バカ」は、そもそも課長にはなれないでしょう。
 私も教委に勤務しているとき、都庁全体の課長クラスから10人ほどが選抜されて部下の管理と育成の在り方を研究する研究会に参加したことがありますが、同じ都庁内でも、大田市場のなどの現業職員中心の職場、出張所などの出先機関、議会事務局、教委などの委員会など、全く職場の雰囲気が異なることを実感しました。私の部下は指導主事と呼ばれる専門家集団で、ほぼ全員が10年後には校長になることが約束されている職場です。会議がありますと言えば、全員が開始5分前には資料を手に会議室に集まっているのが当たり前でした。一方、大田市場の課長さんは、話をしようとしても、決まった時間に全員を集めることは至難の業だと言っていて驚かされたものです。
 つまり、全てに通用する部下管理の方法など確立されていないのです。おそらく多くの企業が長年知恵を絞ってきたにもかかわらず、です。もしあるというのであれば、部下の視点からも物事を見直してみるとか、明確な形で目標を示すとか、評価を公平公正に行う、など、調査や分析を行うまでもなく常識となっている一般論、抽象論だけが、さまざまな表現で書かれているだけなのです。
 授業における指導法も同じです。応用力を高める指導法とはこれだ!と明確な方法が確立できるというのは、授業というものを知らない部外者の幻想に過ぎません。子供の興味関心を生かしてとか、スモールステップで達成感を与えることで学習意欲を継続させてとか、子供同士の交流を盛んにし多様な見方に触れさせてとか、授業を複線化し個性的な学びを実現してとかいうような一般論、抽象論が出てくるだけで、それは既にあるのです。
 応用力を高める指導法とは、上記のような一般論を踏まえた上で、一人一人の教員が自分なりに授業分析を重ねて、一歩一歩望ましい指導法に近づいていくという形でしかアプローチできないのです。そして、仮にある学級のある教科の授業でこれだ!という指導法を確立することが出来たとしても、次の年に別の学級で同じことをしても、同じ効果は上がらないのです。必ず何らかの修正、微修正で済むこともあれば大幅な修正を迫られることもあるというのが現実なのです。
 こうした現実を踏まえて、一つ一つの教室で応用力を高める授業を実現するためには教員がそれぞれの状況に合わせて創意工夫するしかありません。それを可能にするためにはどのような施策が必要なのか、そうした考え方こそ文科省に求められているのです。

 

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塾も学校も

2018-08-05 08:10:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「受験勉強」7月31日
 河合塾理事長河合弘登氏へのインタビュー記事が掲載されました。『受験勉強 将来に生きる』という表題がつけられた記事の中で河合氏は、『たとえ失敗しても受験勉強に励んだことは将来に生きるんです。若い時の勉強によって学ぶことに基礎が磨かれるんです』と語っていらっしゃいました。同感です。
 私は、このブログで授業の在り方について繰り返し触れてきました。考えさせる授業が大事、学習者である子供の問題意識を生かした問題解決型の学習過程を工夫すべき、教え込むのではなく学び取らせる授業こそ教員の使命などといったトーンで書いてきたことから、私のことを受験勉強批判派だと思っていらっしゃる方がいるかもしれませんが、そうではありません。
 私の学校論、教員論、授業論の根底には、学ぶことに対する強い思いがあります。学校の本質は生活指導や躾にあるのではなく知の習得にある、教員は豊かな知を身に着けさせることが一番大切、授業は身に着けさせる知を明確にした意図的計画的営み、というのが私の学校教育を語る際の根っこの部分にあるのです。ですから、たとえ「旧態依然」の知識注入型であっても、勉強が人生を生き抜く糧になる、必死に学んだ経験は人を成長させるという考えをもっているのです。教員にとって広義の指導技術が大切であるという主張は変わりませんが、それは枝葉の部分であり、根幹は勉強(授業)が大事という点にあるのです。
 しかも最近、受験勉強に対する「偏見」を見直す出来事がありました。教え子のKさんからのメールにこんな記述があったのです。
 【実は、私は中学校時代は学校ではなく塾が大好きでした。前回の授業のテスト結果順に席が決められ、0点を取るとげんこつされるような塾だったのに何でだったのかなぁと大人になってから疑問に思っていた上に、塾なんて「ただの詰め込み」だとか「正解に◯をつけるだけのテクニックを教えてる場」だとか批判的な評価が一部の人たちの間で根強く残っていることを大人になってから知りましたが、塾のほうが中学校の授業より授業が楽しかったからなのだと先生の著書を拝読している途中に気づきました。私の通っていた塾は、カリキュラムのスケジュールも板書も先生の教え方も徹底しており一貫性がありました。復習も徹底しており授業内容をまとめて提出しなければならなかったので、人に説明できるまで理解できてはいない部分があれば、休み時間に担当の先生に質問にすると一問残らず説明してくださったんですね。「受験対策に偏った内容の勉強」に限定されますが、集中できる環境だったから好きだったのだと思います】
  5年、6年と担任したKさんは、知的好奇心に富み、豊かな感性の持ち主でした。成績はトップクラス、ご両親はKさんの将来に多様な選択肢が残るよう、Kさんに塾を薦めたのだと思います。Kさんは進学指向の塾で、自分と同じような「出来る子」と共に、集中して学び、新たな知を手に入れ、自分が急速度で成長していることを実感出来たことで、充実感や達成感を感じ、もしかしたら第三者からは「厳しい」と思われるような環境が、楽しかったのだと思います。
 Kさんは、起業して自分の夢を貫くと同時に、国籍や業界を問わずにさまざまな人と人間関係をつくり、それでいて(それだからこそ、かも)同じように起業して夢を実現させたパートナーと可愛い息子さんとの家庭生活も充実させています。このメールを読んだとき、Kさんのエネルギーとパワーの源はこの楽しかった塾、集中して学んだ受験勉強にあったのだなと納得しました。
 どのような場であれ、どのような目的であれ、一生懸命に学ぶという経験は、貴重なものです。教員は、そのような学びを実現するため、授業の専門家として自らを磨くしかないのです。それは、学校も塾も予備校も変わりません。

 

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教えて

2018-08-04 07:31:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教えてほしい」7月30日
 論説委員福本容子氏が、『レモネード経済学』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、米国の子供が夏休みに取り組む起業体験について触れていらっしゃいます。『その代表がレモネード売りだ。自宅の前庭などに露天をこしらえ、1杯50円くらいで通行人などに売る。味、温度、天気、アピールの仕方、そして価格が売り上げにどう影響するかなど肌で学ぶ』とのことです。
 福本氏は、このレモネード売り体験が、『全米で大論争になった。行政の許可なく営利活動したとして、廃業や罰金の対象になる事例が増えている』と危機にさらされていることを指摘したうえで、『子どもたちはレモネードで稼いだお金をどうするか、も学ぶ。使う、ためる、寄付する、などなど。早い段階からお金や経済のこと、さらに理不尽な規制の現実まで学んでいる』と、そのことも含めて、レモネード売り体験を強く支持なさっています。
 そして、実体験を通して市場原理を学ぶ米国の子供と我が国の子供を比べ、我が国の夏休みにおける子供の過ごし方を物足りなく感じていらっしゃるようです。夏休みの過ごし方については、このブログでも毎年のように取り上げてきました。ですから今回は、起業体験について取り上げてみたいと思います。
 私は、子供に起業体験をさせたことはありません。ただ、6年生を担任しているときに、従来の展覧会を廃止し、文化祭という形で、起業体験擬きをさせたことがあります。地域の方々を対象に、教室内で実演と簡単な飲食を提供するというものです。内容は、そばの実を挽いてそば粉づくり、そば打ち、盛りそば(汁は市販のめんつゆで)が一つ。市販の小麦粉を使ったうどん打ちと盛りうどんが一つ。米粉を使って煎餅の生地を作り前で煎餅を焼いて醤油で味付けが一つでした。
 そば粉などは、子供に手紙を書かせ、製粉業者から格安で取り寄せさせ、そば打ち等の道具は、保護者に借り、そば粉を挽く石臼は郷土資料館で借りました。当日は、最初のうち、そばがぼそぼそになり、「食べられないよ」と突き返されたりもしましたが、煎餅とうどんは好評でした。誇張ではなく、全ての子供がとても楽しそうでしたし、突き返されたときには、普段大人しい「優等生」が、「子供なんだから少しは大目に見てくれてもいいじゃない」と唇をとんがらせ、「悪童」が、「食べるものなんだからまずいものを出したら文句言われても仕方ないよ」と諭すなど、それぞれが以外な面を見せてもいました。
 終了後、子供たちも、私たち教員も、大成功だと感じましたが、実際には、もし「お客さん」がお腹をこわしたら、保健所から苦情がきたら、「子供にこんなことをさせて」と保護者から言われたら、などなど、さまざまな不安に駆られながらの取り組みでした。
 金儲けはダメだという校長からも指導もあり、もうけはありませんでしたが、呼び込みのチラシづくり、のれんなどの環境整備、接客の際の笑顔や言葉遣い、待たせないための手順など、多くの新鮮な体験ができたと考えています。でも、あくまでも「もどき」に過ぎません。
 私自身、教委の幹部として、学校から米国のレモネード売りのような企画が出されてきた場合、それを認めるかと問われれば、大いに迷ってしまいそうです。また、校長として、担任から「保護者がレモネード売り体験をさせたいと言っているが…」と相談されたとしたら、簡単にOKは出せないと思います。
 我が国の現状では、やはり問題が起きたときのことを考えざるを得ないのが本音でしょう。それを乗り越える知恵を教えてほしいものです。福本氏は、今回でこのコラム連載を終えられるそうですが、どこかでこの続きをお書きいただきたいものです。

 

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切り捨ての勧め?

2018-08-03 08:08:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自ら~」7月30日
 人生相談欄で、作家高橋源一郎氏が、54歳女性の『厳しさ知らぬ甥の将来心配』という相談に答えていました。経済的に豊かで20代になっても大学にも行かず働きもせず自宅で趣味三昧の甥の将来を心配する女性に対し、高橋氏の回答は大変ユニークです。
 『それでもいいんじゃないでしょうか。当人がそれで幸せなら。そのことで誰にも迷惑をかけていないのなら。そして、それを続けていけるのなら』『わたしが何かアドヴァイスを考えて、それをあなたが伝えたら、甥ごさんは、その通り実践するかもしれない。「人の言いなり」で「自立」する。変でしょう、それ』『あなたの心配の中に「わたしたち普通の人間のように、いろんな心配事がなく、生きていけるはずがない。そんなのおかしい」という妬ましい感情は入っていませんか』。
 分かるような気はします。しかし、高橋氏のような立場に立てば、学校の教員という仕事は成り立たないように思えるのです。金持ちの子供で、働かなくても90歳まで、家で遊んで暮らせる状況の子供に対しては、勉強しろといったり、自分を成長させるために努力しろということは必要ないということになれば、授業中に漫画を読み、雨が降ったら学校を休んでゲームをしているという子供に注意も指導もしないというのでは、授業も生活指導もできません。
 「長い間には、世の中はどう変わるか分からないよ。ご両親だっていつまでも君を守ってくださるかどうか分からない。自分で生活できるように今から~」などと言えば、「先生は安月給で、PTAの顔色を見てクビにならないようにびくびくして生きているから、僕が羨ましいんでしょ」と言われて、自分が下層階級の人間だからこの子を妬んでいるんだと反省を強いられるのでは、教員のなり手はいないでしょう。
 教員に限らず、人に言われてやるのでは意味がないということになれば、親子の間でも、社会における大人と子供の間でも、「教育」と言う営みが成立しません。よく理解できないけれど、言われたとおりにやってみて初めて自分自身が気付くというのは、「教育」における普遍的な方法の一つだからです。
 それとも高橋氏が言いたいことは、相談者の甥のような「人材」は、国家社会にとって無用だから、そんな対象に教育する無駄を省き、貧しいが意欲と能力がある有為な人材の育成に「教育」を集中投下せよ、という主張なのでしょうか。だとしたら、超国家主義的で、高橋氏の日頃の主張とは正反対のような気がするのですが。

 

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疲れと焦り

2018-08-02 08:07:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その瞬間」7月29日
 『施設職員苦悩深く 被告の心情「分かる」自分が怖い』という見出しの記事が掲載されました。相模原市の「津久井やまゆり園」で起きた元職員による大量殺傷事件から2年経ったことを受けた特集記事です。その中で同じような施設で働く男性職員が語っています。『疲れがピークに達した夜勤明け。何回も着替えを拒む男性が服をかんで離さなかった。思わずカッとなって服を引っ張ると、男性の歯が抜けて床に転がった。我に返り、医療機関を受診させて謝罪した。後悔と同時に、この仕事の怖さを感じた』と。
 この男性職員は、『人の役に立ちたい』という思いで障害者支援施設で働くようになった人です。『気持ちが通じ合った時は本当にうれしい』とも語っていらっしゃいます。つまり、志をもって福祉を学び、職に就いた人なのです。それでも、「暴行」をしてしまったのです。
 教員の「体罰」も、同じような状況下で発生するケースが少なくありません。疲れや焦り、などの心理的身体的条件があり、そこに子供が「理不尽」な行動をとり指示に従わないという事態が重なったときに、体罰が起きてしまうのです。もちろん、こうした不幸な状況と事態が重なっても、体罰をしない教員の方が多いことはいうまでもありません。しかし、そうした教員も、そのときのことを振り返ってみれば、爆発と踏みとどまる境界はごく僅か、間一髪で危機をすり抜けたという実感をもっているはずです。
 体罰は許されない行為です。教えることの専門家として、教員は自分を厳しく戒める必要があります。それはこのブログで繰り返し述べてきたことでもあります。しかし一方で、体罰が発生しやすい環境をなくすという努力も重要です。それこそ、文科省、教委など教育行政に携わるものの責任でもあります。
 まず、疲れや焦りを出来るだけ除去する制度設計や職務見直しが急務です。教員は何のために存在するのかを明確にし、教員が担わなくてよい職務、学校以外の機関、家庭や社会が負うべき教育内容を洗い出し、あるべき学校の姿を示すことが全ての始まりです。私は、部活や給食、清掃活動などの見直しを提唱してきました。学校事務や学校施設の管理を事務職員に集約するによって、校長や副校長が教員の育成に注力できる環境作りも長い目で見れば効果があるはずです。
 教員が精神的肉体的に余裕をもって子供と接することが出来るようになれば、子供の「理不尽」な言動は激減します。なぜなら、子供の「理不尽」な言動とは、教員の受け取り方の問題であり、余裕をもって接しているとき、授業中のおしゃべりも、清掃中の悪ふざけも、休み時間のけんかも、「理不尽」ではなく「子供なりに理由のある言動」として、受け止めることが出来るからです。「なんでこんなことをしたんだ!」ではなく、「何か気に入らないことがあるのかい?」と思えるとき、体罰は起きないのです。

 

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