ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

その奥にまで

2018-08-25 08:14:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どう直視するか」8月18日
 ノンフィクション作家保阪正康氏が、『戦死者の実像直視を』という表題でコラムを書かれていました。その中で保阪氏は、『一口に戦死といっても、いろいろなタイプがある。戦闘死、飢餓死、事故死、戦病死などがあり~』と書き、具体的な状況についても触れています。『骨と皮だった死体が蛆虫でふくれあがる』『わずかに道路にある泥水もすすった。泥水に顔を突っ込んで死んでいる兵隊もいた』『トカゲ、ミミズ、バッタ、とにかく口に入るものはなんでも食べた。バッタの取り合いでけんかも起こる』などです。
 その上で、『兵士たちが戦場でどのような戦いを余儀なくされたか、そしてどのように戦死していったか、を事実として見つめる(略)この事実を見ずして戦争を論じるのは、兵士たちをいかに侮辱していることかと私は思う』と記されています。その通りだと思います。しかし、その事実を見ることで終わらせてはいけないとも思います。
 私はこのブログで、あるべき反戦・平和教育の姿として、情緒に流されるのではなく、科学的・分析的に戦争に至る道を考え、そこから戦争に至る芽を摘むためにどうすればよいかを考える教育を提唱してきました。その考え方を、戦争への道だけでなく、戦争指揮、戦争終了のさせ方についても広げるべきだと考えているのです。
 戦争は悪であることに間違いはないとしても、戦争が起こってしまうことはあり得ます。戦争が始まってしまっているにもかかわらず、戦争反対と叫んでいるだけでは、何も変えることはできません。過去の戦争に学ぶのは、戦争防止だけでなく、戦争指揮や終戦工作の在り方についても同様であるべきなのです。決定権者を曖昧にした無責任な指導体制、指導者の面子にとらわれ被害の多い作戦を継続したり、楽観的見通しで不十分な情報収集のまま作戦を立案したり、戦況について歪曲して伝えたり、ボートや飛行機を利用した特攻などの非人間的な戦法など、皮肉なことに太平洋戦争は間違いを学ぶ「宝庫」なのですから。
 また、終戦については、古来「戦争は始めるのは簡単だが終えるのは難しい」と言われているにもかかわらず、終戦の青写真がないまま戦争を始めた結果無条件降伏という結果に終わったのが先の大戦でした。こうした、戦争の仕方・終わらせ方についての無策が、多くの兵士の無惨な死の原因であることをきちんと分析して提示する反戦・平和教育でなければいけないのです。
 直視するのは、個々の兵士の死どまりではなく、その奥にある指導者たちの間違った判断や決定まででなければならないのです。

 

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