ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自己中心の暴行擁護

2018-08-29 08:34:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「第三者のことを考えると」8月22日
 『体操宮川選手がコーチ継続希望』という見出しの記事が掲載されました。先日、コーチを務めていた速見佑斗氏が、『暴力行為で日本体操協会から無期限の登録抹消などの処分を受けた』ことに関する記事です。記事によると『体操女子の2016年リオデジャネイロ五輪代表の宮川紗江選手』が、『速見コーチの名誉を守りたいとして処分への疑義や、引き続き同コーチの指導を望む意向を示した』ということです。
 つまり「体罰コーチ」を処分せず、引き続きコーチとして指導を受けさせてほしい、ということです。『速見コーチは頭を叩くなどしたが、宮川選手は被害を訴えていない』ということですから、暴力行為があったことは事実のようです。また、宮川選手は『(速見コーチに)パワハラされたと感じていません』とも述べているようですので、第三者から見れば、暴力行為とパワハラととらえることができる暴言があったが、「被害者」であるとみなされる宮川選手は被害を感じていないし、信頼関係も壊れていないということなのでしょう。
 今後どのような展開を見せるかは分かりませんが、こうした事例、つまり「被害者」が被害を訴えるどころか、「加害者」を擁護するというケースは、学校における体罰事案でも少なくないのです。こうした際の、被害者の主張は、「指示や指導に従えなかった私が悪かった」「先生(コーチ)は私のことを考えて厳しく指導してくれただけ」「先生(コーチ)がいなければ私はここまでやってこれなかった」「先生(コーチ)がいなければこれ以上伸びることはできない」「先生(コーチ)と私は信頼し合っている」などです。
 ここで気付かされるのは、いずれも自分と指導者である先生やコーチとの関係にしか目が向いていないことです。学校であれ、日本代表の練習の場であれ、そこには自分と指導者以外の第三者が存在します。それは、同じ立場の指導者であるかもしれませんし、生徒や選手であるかもしれません。
 そうした第三者は暴力行為をどのように見、どのように感じていたのか、その行為が学校や自分が所属する○○界全体にどのような影響を及ぼすのか、といった視点が欠けているのです。暴力行為が何の問題にもならないということになれば、指導者の中には、あの程度の暴力は構わないのだと考えるものが出てくるかもしれません。そうなれば、今後暴力行為が相次ぐことになりかねません。生徒や選手の中には、あんな暴力に遭っても見過ごされ助けてもらえないのだと考え、恐怖を覚え、学校やそのスポーツから離れようとして夢を断念する者がでるかもしれないのです。加害者をかばうことで、暴力が温存されてしまう、という危機意識がないのです。きつい言い方のようですが、そうした行動は、自分さえ良い成績を挙げることができればいい、後輩や仲間が暴行の不利益を被っても関係ないという自己中心主義的な考えなのです。
 さらに、叩かれたけど私は被害と受け止めていない、という論理で暴行が許されるということになれば、学校を含めた多くの組織内で暴行や体罰後に、被害者に圧力を掛けるという事例が頻発することになります。生徒を叩いたことで処分を受けそうになった教員や監督責任を問われそうになっている校長らが、被害者に対して「確かに殴ったという事実は目撃者がいるからなかったことにはできない。でも、君さえ、先生に叩かれたけど私は何も気にしていない、と言ってくれれば、問題は生じないんだ」と迫るということが横行するはずです。時には裏で何らかの「交換条件」を示して取引するようなケースも出てくるでしょう。私は教委で教員の処分に関わる職を担当していたとき、実際に教員が生徒に「こう言ってくれ」と働きかけた事案を扱ったことがあります。決して取り越し苦労ではないはずです。
 どんなに好きな教員であっても、その教員を恨んでいなくても、その教員の指導が自分に合っていても、その教員によって自分が伸びることができても、体罰は罰せられなければならないのです。

 

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