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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

橋下流国歌斉唱

2011-05-21 08:05:06 | Weblog
「条例の意味」5月16日
 『首長政党「大阪維新の会」の大阪府議団が19日開会の5月定例府議会で、府立学校の入学式や卒業式などで君が代を斉唱する際に教職員の起立を義務付ける条例案の制定を目指していることが14日分かった』という記事が掲載されました。私は、儀式における国歌斉唱に賛成の立場です。しかし、この大阪府の条例制定については疑問を感じます。
 東京都などでも、儀式的行事における国歌斉唱、国旗掲揚を実施し、反対する教員との間で訴訟が続いています。しかし、東京都が行っていることと大阪府議会が目指していることは違うのです。
 東京都の取り組みは、教育委員会が主体となっています。いわば「政治」とは切り離されたところで行われているのです。一方、大阪府のケースは、政治家である知事が主導する維新の会という政治家集団が推進しています。結果としては、どちらも国歌斉唱が進むでしょうが、大阪方式の場合は、教育行政に「政治」が強く関わるという前例が残ってしまいます。よく言われるように、行政は前例主義です。こうした前例ができれば、教育行政への「政治」の関与が強まり、それは他の自治体にも影響するはずです。
 議員は主権者である府民の代表であり、府立学校は府民の税金で運営される公的事業ですから、議員がこうした条例の制定を目指すことについて、民主主義の観点から問題はありません。しかし、我が国が採用してきた教育委員会制度の趣旨、学校教育への政治の不当な干渉を排するという趣旨からすると、安易に見逃すことはできない問題を含んでいると思います。
 私は都教委が、国旗国歌の指導を強化したときに、都教委の管理職でした。都教委は、職員団体から強い反発が予想される措置の導入にあたって、様々なケースをシミュレーションし、通知だけ出して学校現場に丸投げすることなく、すべての都立校の卒業式に管理職を派遣し、不測の事態に備えました。私も、3校の卒業式に来賓として出席し、校長や副校長の支えとなりました。こうした取り組みを通して、都教委の「執行能力」が高まっていったように思います。
 教委が汗をかかず、困難な問題は政治の力を借りて解決するということが一般的になっていくと、教委自体の「執行能力」が低下していってしまいます。それがねらいで、教育を首長の管轄にすることが最終的な目的だというのでしょうか。他の自治体の反応が知りたいものです。

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意外な事実

2011-05-20 07:51:10 | Weblog
「都心と郊外」5月15日
 文筆家の大竹昭子氏が、『蜜蜂にうれしい都心の緑』という標題でコラムを書かれていました。大竹氏はその中で、東京都心にあった養蜂場について、『多摩動物公園のそばの養蜂場の十倍の量が採れる』という意外な事実を紹介しています。その理由として、都心には『赤坂御用地があり、そのさらに南には青山墓地があるし、西に行けば新宿御苑、明治神宮、代々木公園が、東に飛べば皇居もある。街路樹の存在も大きく~(中略)~まさに彼らにとっては理想の地なのです~』と書き、一方多摩地区では、『自然に囲まれているように見えても、ナラ、クヌギ、クマザサなど密の採れない植物が多く、加えて蛇やスズメバチなどの天敵や農薬散布があって、おちおちしていられない』としています。
 そして、『自然環境の豊かな場所というのは、あくまでも人間の言い分であって、蜂たちにとって生きやすい環境とは限らないのだ』と結んでいます。私はこの話から、子供が育つ環境としての「豊かな学校」ということを連想してしまいました。大人が頭の中で考える理想的な学校が、子供にとっては好ましいものではないということがあるように思うのです。
 いじめがあれば、休み時間には全教員が監視に立ち、いじめが起きないようにすべきだという議論がなされたことがあります。地域に不審者が出れば、登下校に教員が付き添うべきだという意見が出されます。いずれも子供を思っての善意の意見です。しかし、大人の監視が行き届いた中では、子供の世界は輝きを失ってしまいます。
 喧嘩をしたり、小さな悪事を働いたり、親や教員の悪口を言ったり、ちょっとエッチな話しをしてみたりという経験が、子供には必要なのです。また、子供同士の人間関係の中で、ボスに媚を売ったり周囲の空気を読んだりしながら自分の意見を通すすべを学ぶことも貴重な経験ですし、集団の中の孤独に耐える力を身に付けるのも、実際に殴ったり蹴ったりする体験を通して、痛みを実感することも子供時代に経験しておくべきことです。いずれも、教員の介入があってはできないことです。殴り合っている子供を放置しておくことは、教員には許されないのですから。
 学校が、過剰に安全で清潔な場所になってしまっては、こうした経験を積むことができなくなってしまうのです。大人の善意が、一見理想の学校のようで実は大人にとっての「理想の学校」でしかないいびつな場所を作ってしまいかねないのです。

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治療者

2011-05-19 08:01:22 | Weblog
「治療者」5月15日
 精神科医斎藤環氏が、震災後の被災者の心の問題について述べられていました。その中で、斎藤氏は、菅首相の浜岡原発停止決断について、『この決定の政治的な是非はともかく、メンタルヘルスの視点からは大いに評価できる。少なくとも原発利権を巡る疑心暗鬼などについては、解消の端緒くらいにはなり得たのではないか』と書いています。
 大変面白い指摘だと思いました。そして、似たようなことが学校教育についても言えるのではないかと考えました。
 たとえば、かつていじめが注目を集めていたとき、「いじめ加害者は転校させるべきだ」という主張がなされました。私は反対の立場で、このブログでも何回か取り上げてきました。しかし、もしこうした主張が実際に制度化されたとしたらどうでしょうか。当時はあまり考えませんでしたが、「僕は気が弱いからいじめられるかもしれない」「新しいクラスには3年生のときにいじめをしたA君がいる。心配だ」というような悩みを抱えている子供にとっては、制度があること自体が心の支えになる可能性があると考えることができます。
 もちろん、私が今まで述べてきたとおり、実際に制度化されれば別の問題が生じることが予想されるのですから。私は相変わらず反対の立場ですが、一見、個々の子供には直接関係がないと思われる制度改正や規則の創設が、子供のメンタルヘルスケアに役立つかも知れないという視点は、忘れてはならないような気がします。
 そうした視点で考えてみると、一つの学校内で子供が担任教員を選ぶことができる制度とかいつでも何回でも転校できる制度なども、工夫次第では一定の「効果」があることになりそうです。今までの主張をこの視点から再検討してみたいと思っています。

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前言撤回

2011-05-18 08:08:27 | Weblog
「前言撤回」5月14日
 テレビ報道記者の金平茂紀氏が、『前略。原発翼賛文化人殿』というタイトルでコラムを書かれていました。その中で、金平氏は、『「原発翼賛文化人」のリストが一部週刊誌やネット上で出回ったりしている。それらの人々の中には福島原発の事故を目の当たりにして今、当惑し慌てている人もいるかもしれない。<ほんのアルバイトのつもりで引き受けただけなのに、もともと原子力については大した知識もないし…>などとつぶやきながら』と書いています。
 そして、『自らの過去の発言や行動を意図的に隠したり、なかったことにしたり、あるいは、自分はもともとは逆の立場だったなどと糊塗を企てたりしている姿を見ると、僕は何だか情けなさと怒りを感じざるを得ないのだ』と続けています。
 こうした「翼賛文化人」は、様々な分野で目にすることができます。教育評論家という人たちの中でも同じことが言えます。終始一貫原発推進が行われてきたエネルギー政策とは異なり、教育政策は戦後65年間、何回も揺れ動いてきました。「這い回る経験主義」「系統主義」「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」と、乱暴な言い方をすれば、知識注入主義と体験重視主義の間を行ったり来たりしてきたのです。
 政策転換が行われたときには、それまでの政策を推進、礼賛してきた評論家や学者、政治家、官僚は、何らかの意見表明をし態度を明らかにする義務があるはずです。自分の信念に変わりはないのか、従来の「誤り」を認めるのか、ということです。しかし、そうした人はごく稀です。最近の「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」への転換においては、元文部官僚の寺脇研氏が、ゆとり教育の実質的な推進者として、自分の考えは変わらないという立場を鮮明にしているくらいのものです。他の多くの「識者」たちは、「ゆとり教育の理念は間違っていなかったが、文部科学省の周知の仕方が不十分だった」「現場の教員が理念を理解しないまま、過剰な対応をしてしまった」などと、責任転嫁をしているのが現状なのです。
 原発は一度事故が発生すれば取り返しのつかない被害をもたらします。ですから、間違いは許されません。一方、教育政策は、国や時代によって様々な理念で行われ、これからも変わっていくことでしょう。ですから、政策転換が行われたからといって、必ずしもそれまでの政策提唱者が間違っていたということにはなりません。「脱ゆとり教育」もまた変わることでしょう。ただ、そのときの「流行」に合わせて主張をコロコロと変えるというのでは、議論は深まりません。「識者」には、教育界の反主流派、非主流派になることを怖れず、自説を述べる勇気が求められていると思います。もちろん、頑迷に自説の固執することを勧めているのではありません。念のため。

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大学生だけではない

2011-05-17 07:47:06 | Weblog
「学生だけではない」5月13日
 大阪大学大学院教授の石黒浩氏が、インタビューに答えていました。そこで石黒氏は、最近の学生について、『結果をすぐに求める傾向が強い』『目に見える結果はほしい~(中略)~うまくいかないとすぐ自分への言い訳を探す』と語っていらっしゃいます。
 そうなのでしょう。私自身、学生たちとは世代が違いますが、同じような傾向があります。おそらく、現代日本人の多くがそうなのではないでしょうか。個人の性向というよりも、社会全体がそうした傾向にあり、それに適応するために、自分がしていることについて早期に目に見える形での成果を求めるように「調教」されてしまっているのだと思うのです。
 実は、子供を育てる学校自体が、「すぐに」「目に見える形で」という風潮に犯されているのです。たとえば、教員の業績評価において、教員は毎年自分が担当する各職務について、到達目標を自己申告することになっています。クラブ活動では~、国語の指導では~、学年主任としては~、というように分けて、しかも、「区大会3位以内入賞」「正答率8割以上」「子供による授業評価平均85点以上」というように「目に見える形」で、書き込まなければならないのです。
 校長も学校経営案に数値目標を入れさせられます。「保護者による学校評価平均90点以上」「学校公開参加者述べ1000人以上」「○○高校合格者25人以上」というような形です。
 そして、そうした目標を達成できなければ、その理由を分析しなければなりません。私は駄目教員です、とは言えませんから、何とかそれらしい言い訳を考えることになるのです。それどころか、目標設定時に「言い訳」をしやすい設定をする傾向すらあります。
 もちろん、こうした制度に利点がないわけではありません。しかし一方で、自分の目標に追われ、一人一人の子供や職員の姿を見ずに、数字ばかり追いかけるという弊害も生まれてきています。石黒氏は、最近の学生は考えようとしないとも指摘していますが、考える余裕さえも奪ってしまうのが、短期成果主義のもつ負の一面なのです。
 追いまくられる教員が、追いまくられる子供をつくるというのでは笑い話にもなりません。立ち止まって考える余裕をなくした教員が、考えない子供を育てるという悲劇は、どこかで見直さなければなりません。
 翌日の紙面に、京都市立伏見工業高校ラグビー部総監督山口良治氏を取り上げた特集が掲載されていました。震災に遭った子供に何かしてあげたいと考える山口氏。「僕たちは山口一門」と言って東北地方の高校を回ってラグビーを教えるプランを温めている、山口氏の教え子で元日本代表の大八木氏。こうした「感化」や「陶冶」という働きこそ教育の根本をなすものであるとすれば、短期成果主義が、学校という場に相応しいのか疑問をもたざるを得ません。
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プロ同士

2011-05-16 07:55:27 | Weblog
「プロ同士」5月13日
 早稲田大学教授の深川由紀子氏が、『「政治のプロ」を発掘せよ』という標題でコラムを書かれていました。深川氏は、一昨年の政権交代について『「残業」して行政官と情報量を張り合ったり、人気評論家の提言に活路を求めるような「政治主導」政策ではプロの知見は動員できない』と述べ、『どの世界でもプロの評価はプロ同士で決まる』と書かれています。
 そうなのです。「プロの評価」、より正確に言えば、「プロの知見、能力の評価」は、同じ分野のプロにしかできないことなのです。「プロの業績」の評価は、素人でもある程度できる場合があるように思います。手術を受けた患者が全治すれば、医師の施術は成功だと言ってよいのでしょう。しかし、その場合だって、施術は最適の治療法であったのか否かの判断は、素人には容易ではありません。また、回復した主な原因が医師の技術なのか患者の体力なのかの判断も難しいものです。まして、結果が判明する前に能力や知見を評価することは素人には不可能です。
 学校教育に関わる分野でいえば、「プロ」即ち教員の資質や能力については、教員経験者でなければ適切に評価することは難しいはずです。しかし、実際には、市民や保護者、児童生徒が教員評価、授業評価、学校評価を行うという方向で改革が進められています。大変危うい状況だと思います。
 誤解のないように言っておきますが、私は、市民や保護者、児童生徒による教員評価、授業評価、学校評価を全否定しているのではありません。あくまでも教員や学校が自らの取り組みを振り返る際の一つの視点として利用するということが適当であると言っているのです。
 また、教職にある者は、自己の資質を向上させるためにも実践者であると同時によき評価者、分析者としても自らを磨くことを怠ってはありません。他の教員の授業を見て「プロ同士」として適切な評価ができない教員は、教員として失格なのですから。

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超法規的措置

2011-05-15 07:56:38 | Weblog
「超法規的対応」5月13日
 『浜岡原発の4号機は、13日に運転を停止する』という記事が掲載されました。言うまでもなく、菅首相の運転停止要請を受けての措置です。危険な原発の停止は、大賛成です。もっと早くに決断できなかったのかと思いますが、とりあえずはよかったと思っています。
 しかし、首相が「要請」という形で実質的な命令・強制を行ったということについては、大きな危惧を抱いています。我が国は法治国家です。法に定める権限内で、法に定める手続きを踏んで権力の行使が行われなければなりません。個人が制限のない権力を握ると、そこには必ず大きな弊害が生じるという、歴史に学んだ知恵を具現化したのが法治主義なのです。首相といえども、黄門様の印籠のようなオールマイティな権力を与えてはならないのです。それは、結果の良し悪しとは関係ありません。権力の不適切な行使が、その問題の解決にいくら優れた結果をもたらしたとしても、そうしたことが常態化してしまうと、後日より大きな不幸が訪れるのです。
 行政は、法以外にも施行令や施行規則、条例や規則など、様々なレベルで定められた細かい手続きや手順に則って運営されています。施行令や施行規則、条例や規則などの基づいて、命令や強制が発せられているのです。それは、ある意味では面倒臭く、時間がかかるという欠点に結びつきます。しかし、そうした欠点を補って余りある利点があります。公平性、公正性の確保ということです。
 そうした行政の中でも、教育行政だけが「異質」なのです。教育行政では、命令は皆無に近いというのが現実です。命令の代わりにあるのが、「指導」です。教委は校長に「指導」をするのであり、命令をすることはほとんどありません。私自身も、指導室長として、命令を下したことはほとんどありません。首長部局の管理職からは、「どうして命令しないの」と何回も訊かれたものでした。
 こうした実態には、「教育に命令はそぐわない」という考え方が根底にあります。学習指導要領で目標を示し、時間数などの枠組みを決めながらも、毎日の授業をどうするかということについては、子供の実態を知り、地域の特性を把握した校長の裁量に委ねた方がよい、という考え方です。
 また、教育内容について過剰な干渉を排するという意味もあります。こうしたことを言うと、過敏反応だと言われるかもしれませんが、現実に多くの事例があります。私も、環境課長から「議会で答弁しちゃったから、学校でビオトープをやらせてよ。予算を付けるから」と言われたことがあります。私が、「環境教育は各校に取り組みように指導しています。全校で取り組んでいます。しかし、どのような取り組みをするかは、校長の判断に任せています。既に長年○○川の水質検査に取り組んでいる学校もありますし、空き缶回収リサイクルに取り組んでいる学校もあります。そうした経緯や体制を無視して、ビオトープをやれとは言えません」と答えると、環境課長は「室長の鶴の一声で、というわけにはいかないんだ」と驚いていたものです。
 今回、菅首相の「要請」が実質的な命令として強制力をもって発せられました。過熱した世論を利用したこうした手法が「是」とされるようになれば、学校教育に関する諸問題の解決にあたっても、首長や教育委員長が超法規的に「要請」という名の命令を発することが求められるようになりかねません。それが、強いリーダー、指導力のあるトップとして評価されるようになり、結果として個人の恣意的な命令が連発され、行政に必要な統一性や連続性が損なわれる結果となり、混乱を生ずる原因ともなりかねません。
 昨今の風潮として、「政治主導」の掛け声の下、教委を廃し、首長が地方教育行政を管轄すべきだという声が大きくなっています。その背景に、首長の「要請」という名の「鶴の一声」による独裁を望む雰囲気があるように思われます。それだけに、菅首相の手法が及ぼす影響が気になるのです。杞憂でしょうか。

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裏工作

2011-05-14 08:01:56 | Weblog
「裏工作」5月11日
 「異論 反論」欄で、元外務官僚の佐藤優氏が、ウィキリークスによる情報公開について書かれていました。その中で、佐藤氏は、『WLが公開した情報の中には、外務官僚や防衛官僚が米国政府に、日本の政治家の機微に触れる情報を密かに提供し、米国政府から日本政府に圧力をかける工作を行ったことを示すものがいくつもある』と書き、そうしたことがあってはならないと指摘しています。
 当然あるだろうというのが私の感想です。スケールは違いますが、私も指導室長時代に同じような経験をしました。校長が地域の実力者や議員に、雑談の中で非公式に教委への注文や要求を述べ、それを耳にした実力者や議員が、「室長、何とかならないのか」と圧力をかけて来るという図式です。こうした手法に習熟していることをもって、「力のある校長」と捉える向きもあるのです。もっとも、佐藤氏の話と若干異なるのは、校長が積極的に情報を提供するのではなく、議員が「ご用聞き」のように、校長室を訪ね「校長先生、何か困っていることはありませんか。お役に立たせてください」というケースが少なくないことです。
 また、校長の言動について、職員団体に属する教員が○○党の議員に情報提供をし、教委を通じて校長を牽制し、自分たちの要求を実現させようとするケースもありました。さらに、実際に議員に情報提供しないまでも、そのことをちらつかせ、校長や教委に圧力をかけようとする教員もいました。
 いずれも行政の正規のルートに則らずに、利益を得ようという行為です。そうした手段をもたない人に対して自分たちだけ利益を貪ろうという卑劣な行為です。こうした法治にも民主制にも反する行為が日常化していくと、教育行政そのものに対する一般に人の不信感を増長させることになってしまいます。
 保護者や市民、教員は、「裏工作力」を振りかざす人を利用してはいけません。それは、学校の崩壊に手を貸す行為なのです。
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大風呂敷

2011-05-13 08:05:33 | Weblog
「脱原発」5月10日
 足立区で区長選が行われます。その有力候補者の政策を報じる記事の見出しは、『福祉充実と脱原発訴え』でした。別に反対しているわけではありません。ただ、どうして東京都の区長選挙で訴えることが「脱原発」なのかということが疑問なのです。
 区長という職がもつ権限の中で、「脱原発」に直接結びつくものはありません。区の施設で節電を進めたり、小規模電源として太陽光発電の活用を進めたりすることはできるでしょうが、それは直接脱原発を進めることには結びつかないはずです。
 人は、この世の中の様々なことについて、自分なりの考えや思い、感じ方をするものです。私だって、原発の問題についても、生肉食の問題についても、菅政権についても、意見をもっていますし、家族や知人との間で話題にすることもあります。しかし、そうしたことをこのブログで取り上げようとは思いません。自分の専門外だからです。同じように、「脱原発」を訴えている候補者が、区長の権限外のことに言及することに違和感を感じるのです。
 私は、人権問題や歴史認識問題、公害問題などの社会問題に問題意識をもっている、そのことをもって教員として自分は意識が高いと思い込み、他の教員を見下し、そのくせ授業力の高める努力は十分でないという教員をたくさん見てきました。目の前の子供たちのことを語るのではなく、自分の頭の中に住む「抽象的な子供」について語り、保護者を洗脳する教員たちです。自分の授業力が低いことの言い訳に「意識の高さ」をもちだす教員たちと言った方がよいかもしれません。教育公務員ではなく、活動家と呼んだ方がよい人たちです。
 教員は授業の専門家として、授業の在り方については自信をもって語ることができるべきですし、自分が受け持っている子供について理解し語れるように努力すべきです。自分の専門分野を極めることに集中し、そこで勝負すべきです。古い教員像かもしれませんが、よい教員は「大きな問題」を語るのではなく、一人一人の子供、明日の授業について語るものだと思います。
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指導の裏技

2011-05-12 07:53:19 | Weblog
「裏技」5月10日
 川柳欄に、東京都の崩彦氏の『左手で書いて賞取る書道展』という川柳が掲載されていました。崩彦氏がどのような状況を詠まれたのかは分かりませんが、私は、ある教員を思い出してしまいました。
 その教員は、図工の専科でした。彼は、様々なアイデアの持ち主で、割り箸を鉛筆削りで尖らせ、それを筆代わりにして絵を描かせたり、指に絵の具を付けさせて画用紙になすりつけさせたりしました。そうするとその「タッチ」が普通の絵筆で描いたものとはまったく異なり、「個性的な絵」が出来上がるのです。この教員は小学生全国絵画コンクールに毎年入選させる「指導力のある教員」として名を馳せ、ある図画工作研究団体の大物として長年君臨し続けたのです。
 彼は、40年前の私の恩師でした。彼の指導のお陰で私は小学校6年生のとき全国コンクールで特選を取らしてもらいました。正に「恩人」です。しかし、後年、指導主事となり教員の指導力の問題に深く関わるようになってから、我が恩師のことを振り返ってみると、彼を「指導力のある教員」と呼んでよいものか、という疑問が沸き上がってきます。
 現在の私は、絵に苦手意識をもっています。描くことも見ることも好きではありません。生涯学習の観点からみると、彼は私の教育に成功しなかったことになります。実は当時も私は、技能も興味関心も十分ではない子供だったのです。我が恩師は、賞を取らせる能力は高かったのかもしれませんが、図画工作の教員としてはけっして優れた教員ではなかったように思えます。
 書道も、左手で書けば、「独特な味」が生じるのかもしれません。しかし、それはやはり邪道でしょう。教員の能力を、コンクール入賞などといった素人の目にもみやすいもので評価しようとすると、教育界に「邪道」や「裏技」が蔓延することになりかねません。保護者による教員評価にはこんな危うさも潜んでいるのです。

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