「いじめの構造」7月21日
参院選の投開票を受け、紙面は選挙一色でした。そんな中『余禄』欄では、『参院選で物価高対策以上に「外国人規制」が争点化した』現象を取り上げていました。そして、『難民に冷たい閉鎖性は残存し「外国人優遇」とは程遠い。不満のはけ口を外国人に求め、排外主義に陥っては出口を見失う』と、理性的な外国人規制論議を求めていました。
その通りだと思います。そして、これは学校におけるいじめ問題とも共通する構造だとも感じました。学級や部活で起こるいじめ、加害者たちに話を聞くと、被害者の問題点を挙げてきます。「決まりを守らない」「自分勝手な行動をする」「チームワークを乱す」「以前は私がいじめられていた」等々、被害者にも非難されるべき点があり、いじめたことは悪いけれどその分罪は減殺されるべきという論理です。
こうした主張の裏側には、「先生がきちんと指導しないから悪い。私たちが代わりに注意した」という教員批判が潜んでいることが少なくありません。教員が、被害者の問題行動を放置している、甘やかしている、依怙贔屓している、というわけです。
似ていますね。政府が(教員が)、外国人を(いじめ被害者を)、優遇している(甘やかしている)という論理立てが、です。そしてこうした場合、被害者側に何らかの責められるべき落ち度があるというよりも、学級や部活自体の運営がうまくいっていない、雰囲気が悪いというケースがほとんどなのです。教員の学級経営や部活運営に問題があるのです。重なりますね。自民党敗北の真の原因が、我が国を覆う閉塞感であるのと。
こうした構造のいじめ問題に対処するとき、いじめ問題そのものへの対応はもちろん大切ですが、背景にある学級や部活の問題についても、精査し反省し改善を図る努力が欠かせません。そうでないと、一つのいじめを抑え込んでも、また次のいじめが芽を出してくるのです。
学級や部活の「雰囲気」醸成は、感情の問題であるだけに、難しいのです。
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