ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

郷愁はたちが悪い

2024-06-22 08:26:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「郷愁」6月15日
 ナレーター近藤サト氏が、『テレビの制作現場が成熟 AD哀史、今は昔 女性も増え』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、ご自身が現役アナだったころを振り返り、『ADと言えば、煩雑な番組作りの全ての雑用を担う大変な役回りでしたが、一人前になるための修業時代なのだという雰囲気があり、タテ社会の底辺で歯をくいしばって耐えるイメージ』と、ADについて書かれています。
 具体的に、『弁当もADには食べる時間すらなかった(略)だから、目の届かないトイレの個室で食べる、仮眠する』『(女性には)さらに悪いことにセクハラも加わりました』『お風呂に入る時間もなくて汗臭かった』などの状況も紹介なさっているのです。
 そして現代では、『誰かの犠牲の上に成り立つのは間違っている』ということで改善が図られたと述べた上で、『でも床に累々と横たわる行き倒れADの寝姿に、「君たちの苦労は決して無駄にしない!」と奮い立ち、現場に向かう高揚感は今も忘れ難いものです』とコラムを結んでいらっしゃるのです。
 思わず、「たちが悪い」と呟いてしまいました。近藤氏は、人権の視点から労働環境の改善が必要なことは十分すぎるほど理解されている方です。おそらく、もし今ご自身が関わられている現場で、かつてのようなAD受難を目撃すれば、問題を指摘し改善を求めるために発言なさる方だと思います。そんな近藤氏であっても、理性の部分が「誰かの犠牲で~」と考える半面、感性の部分がかつての高揚感に郷愁を感じてしまうのです。
 人間って「たちが悪い」ものだと思ってしまうのです。実は私も同じなのです。このブログでも、人権の視点から過去に体験した様々な悪弊を紹介し糾弾してきました。例えば、先輩がカラスは白いと言えば白いんだ、という指導主事の世界。飲み会で教育長が帰るときには、店の前までタクシーを呼んでおく、もし遅れれば先輩から叱責されました。タクシーを探して夜の街を走り回ったこと、それが妙に懐かしかったりするのです。
 議会の日、一番下っ端で答弁書を書かせてももらえないのに、深夜まで待機し、退庁の指示がくると、慰労会の場所をセッティング、でも、午後11時から7人が入れる店はそうはないのです。早めに予約しておけばと思うかもしれませんが、その日の流れで8時に終わることもあれば、日付が変わり慰労会はなしということもあるのですから、店の案内もできないのか、と叱責されても納得がいきませんでした。でも、自分がベテランになり、統括指導趣旨、指導室長となった頃には、「昔はね~」と当時を懐かしく語ってしまう自分がいたのです。
 人には理性と感情があります。人権問題については、年月の推移とともに。社会の捉え方、常識が変わってくるものが少なくありません。子供、女性、LGBTQ、障害者、外国人など、昔の常識は今の非常識となっています。それを頭では理解しているつもりで偉そうに講師として語ったりしているにもかかわらず、どこかに昔の感覚を懐かしく思う、もっと強烈に言えば、肯定してしまう感性をもつ自分がいる、そのことが怖いのです。その二面性こそが、人権状況の改善を阻む壁なのではないか、と。ベテランと言われる教員の皆さん、昔の愚行、蛮行を懐かしんでいる自分に驚くことはありませんか。不良をぶん殴ったことを自慢するような。

 

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