ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

構造または組織と個人

2016-12-20 07:43:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「組織と個人」12月14日
 『住民に被害なく「感謝すべきだ」 在沖米軍トップ』という見出しの記事が掲載されました。オスプレイの不時着事故についての米軍幹部の言動を報じる記事です。記事によると、在沖米軍トップのニコルソン氏が、抗議に訪れた副知事に対し、『パイロットは住宅や住民に被害を与えなかった。感謝されるべきだ』と抗議に不満を示したということです。腹立たしい限りです。副知事も憤っていたようです。当然でしょう。
 しかし一方で、今回の事件からは、組織と個人という問題についても考えさせられました。この場合、「組織」というのは、日米安全保障条約体制下にある両政府と在沖米軍ということになります。「個人」はオスプレイに搭乗していた兵士です。
 今回の事件の背景には、日米安保の課題が沖縄に過重に集中していることにあります。そのことに対する沖縄県人の怒りは当然ですし、日本人全体が憤るのも納得できます。これは、日米両政府が責任を負うべき問題です。
 しかし、オスプレイを操縦していた米軍兵士にしてみれば、与えられた命令に対し組織人として従い、不慮の事故に際しては、一般人に被害を及ぼさないように(もちろん、自身の安全への配慮もあったでしょうが)住宅地を避け海上まで飛行して不時着したという判断と技術は、どこにも責められる点はなく、ニコルソン氏が言うように、「よくやった」という評価もあながち間違いとは言えません。
 私はニコルソン氏の発言を肯定しているのではありません。トップは組織の責任を負うべき存在ですから、そうした意味で余りにも無神経な発言であると考えています。ただ、「よくやった」的な発言を、米軍内部で操縦士に言ったとすれば、それは部下の士気を維持し、公正な評価がなされる組織であるという信頼感、安心感を与える行為としてあり得るのではないかとも考えるのです。
 いじめや事故など、学校現場にも様々なアクシデントがあります。教委や校長は、組織の長として、対外的に責任を負っています。対外的にきちんと謝罪するのは、当然の行為です。しかし一方で、教員個人は常識的に考えられる範囲で最善を尽くしていたにもかかわらず、いじめや事故が起きてしまうことはあり得ます。
 私の新採以来の知人が、水泳の授業で死亡事故を起こしてしまったことがありました。指導計画は妥当なものでしたし、週案の形で校長の許可も得ていました。それにもかかわらず、不幸な偶然が重なり、事故が起きてしまいました。知人は、同学年の同僚教員とともに、人工呼吸、校長への連絡、救急車への出動要請、他の児童に対する管理・誘導と、迅速に対応しましたが、男児は助かりませんでした。
 校長は管理責任を問われ懲戒処分を受け、知人は自主的に退職しました。それでよかったと思います。しかし、校長は、退職していく知人を責めるのではなく、「子供を死なせたという事実は大変重い。ただ、君はよく対応してくれたと思う。正直に言えば、私でも君のように冷静に対応できたか分からない。その点は私だけでなく、先生方も分かっている」と声をかけることで、それを知った残された教員たちの士気を保つことができたという側面は事実としてあります。誤解のないように言っておきますが、亡くなられた子供の無念さや遺族の悲しみを軽視しているのではありません。
 大きな組織の構造的な問題と、組織内の個人という問題、難しいです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本当のねらいは雇用対策 | トップ | 「罪」を意識して »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事