「議論の前提」12月15日
読者投稿欄『女の気持ち』では、ここ数日、『「働き方」特集』を続けています。電通の女性社員の過労死問題に端を発した、長時間労働やブラックバイトなどについて、読者の意見を募る試みです。
そこに、匿名希望主婦(68歳)氏の投書が掲載されました。主婦氏は、『こんなことを言うと、今の時代、村八分ならぬ国八分になりそう』と匿名の理由を述べながら、『女性の働き場が増え、能力が男性と同じ基準で評価され、「1億総活躍」というのはとてもいいことだと思う。だが、女性が活躍する裏で子供が寂しい思いをしていないだろうか』と問いかけています。
そして、『母親の勤務の都合で夜遅くまで保育園で居残りさせられる子、学校が終わっても家に帰らず、学童保育に行く子~(略)~彼女の頭の中は明日の仕事のことや今日の反省でいっぱいに違いない。明日はどの服を着ようか、とも。それは無理のないことだ。そうやって日本の女性は頑張っている。でも、母と子の時間はいつなんだろう~(略)~母親とのゆったりとした時間の中でこそ、子供の人格も作られていくのではないか。国がやるべきなのは、保育園をたくさん建てることより、母親が子育ての時間をたっぷり持てる勤務体系、給与体系をつくることではないだろうか』と思いを吐露されています。
主婦氏の考えを非難するのは簡単です。子育てに父親が登場してこないこともそうですし、いわゆる「標準家庭」をイメージし、母親のみの単親家庭が視野に入っていないようにも思えます。保育園や学童保育といった集団生活で学び身に着けることの価値を低く見ているようでもありますし、いわゆる「3歳神話」の影響も感じられます。
しかし、正直に言うと、主婦氏の『 』内の主張の中で、母を父母とすれば、それは私の感覚ととても近いのです。でも、私は主婦氏のような主張はしていません。その理由は、国八分を恐れる気持ちもありますがそれだけではなく、どの立場で議論に臨むかという点が重要であると考えているからです。
直接的に子供の幸せだけに焦点を当てれば、私の感覚が正しいと思います。しかし、女性の働き方の問題は、母親である女性自身の幸せ、つまり自己達成感、充実感、生きがい、生きる喜び、人として基本的な社会的承認欲求の充足などの視点から考えたとき、違う結論に至るのです。
今年、私の姪と甥の連れ合いが、続けざまに出産しました。今は2人とも、自宅で新生児にべったりの生活を送っています。しかし、来年には、母親と職業人としての自分の内部の葛藤を経験することになりそうです。姪は一流私大を卒業し不動産業界でキャリアを積み重ねてきました。甥の連れ合いは看護師として大学病院で救急医療スタッフとして活躍してきました。米国留学もしています。2人とも、有能な職業人ですし、働かなくても家計は成り立つようです。それでもなお、10年余のキャリアを捨てるのは、自分の一部を捨てるような感覚がし、そんなことはできないと考えています。その気持ちが痛いほどわかるのです。
学校教育と家庭教育という違いはありますが、子供の健全な成長を願い支援するという意味では同じです。そして学校教育についても様々な改革が提議されますが、それらの中には、子供のためという視点からだけではなく、教員を含めた「大人の都合」という本音が、子供のためという建前の下に隠されているケースが少なくありません。真に実効性のある改革を進めるためには、建前に終始するのではなく、「今自分が言っていることは、子供のためではなく、本当は大人側が楽をしたいためではないか」「子供に為ではなく、社会や国のためなのではないか」と自問自答し続けることが必要です。大げさかもしれませんが、そうした自問自答を繰り返し、罪の意識をもって議論することが、謙虚さを保ち続けることにつながるのだと思います。
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