ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私は何?

2020-03-29 07:45:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一段上?」3月23日
 『厳しい世界だからこそ安心を』という見出しの記事が掲載されました。『海外と比べて社会保障が乏しい日本の芸能界で、俳優や声優らでつくる協同組合「日本俳優連合」(日俳連)が労働環境の改善を訴えている』ことに関する記事です。
 その中で、理事長の西田敏行氏は、『(日俳連)創設当時、「我々は芸術家の仲間であり、労働者ではない」といった一種の誇りが、昔の俳優仲間にはあったようです』と、語っていらっしゃいました。記事の本筋とはあまり関係のないことですが、この言葉にとても引っかかりました。「誇り」という表現が使われているのですから、芸術家は労働者より一段上の存在であるという意識をもっていたことになります。そこに引っかかったのです。
 私は、「○○か労働者か」という対比の仕方というと、教職は「聖職か労働者か」という対立を思い出してしまいます。大雑把に言うと、「聖職」を主張したのが保守派であり、「労働者」を主張したのが革新派であったということができます。ある時期に限って言えば、政府・自民党対野党・社会党・日教組という対立であったという言い方も可能です。つまり、当事者である教員は、自らを労働者と位置付けていたのです。
 彼らが自らを労働者としたことは、卑下したのでしょうか、謙遜してへりくだった物言いだったのでしょうか。そんなはずはありません。労働者という位置付けにある種の「誇り」をもっていたはずなのです。労働者階級が社会の中心を担うというような。
 一方、かつて自らを労働者とは違うと「誇り」をもって言い切っていた俳優たちは今、自らを労働者であると位置付けようとしています。労働者ではないという「誇り」は失ったのでしょうか。「誇り」よりも、労災適用という現実的な利益を選んだということなのでしょうか。そういえば、教員も、「聖職」に祭り上げられ尊敬される代わりに様々な我慢を強いられるよりも、労働者として得る現実的な利益の方を重視して、労働者を選択したとも考えられます。
 私はこのブログで、教員は聖職者でも労働者でもなく、専門職だという立場で語ってきました。聖職者と労働者のどちらが上か、どちらが得かという思惑ではなく、専門家としての誇りをもつことが必要だと考えてきたからです。西田氏は、俳優は演ずる専門職と主張し、教員を含めた他の専門職同様の待遇を求める、とは考えていないのでしょうか。
 自らの職をどのように位置づけるのか、そのことを考えることは決して無意味ではありません。教職も然りです。

 

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