ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

あるときは厳しさも

2023-01-07 08:52:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「解釈は」1月4日
 『名門再輝 中央2位 食らいついた』という見出しの記事が掲載されました。『名門が新しい時代を紡いでいる(略)最多14回の総合優勝を誇る中央大が、箱根路での輝きを取り戻した』と、箱根駅伝で総合2位を獲得した中央大学について報じる記事です。
 昨年度まで8年間シード権さえ取れない低迷状態が続いた中央大を立て直したのが藤原監督です。その藤原氏について、記事の中に次のような記述がありました。『16年4月にOBの藤原監督が再建を託されて就任(略)最初は「鬼のように怒っていた」と生活から厳しく指導して立て直しを図った藤原監督。学生たちの自律と成長を見てとれるようになると、寄り添う指導へと変わった』。
 今、管理型の指導、厳しい指導、細かいことにまで口出しする指導などは、時代遅れの間違った指導とされています。望ましい指導とは、良さを褒め認めて伸ばす指導、被指導者に裁量権を与え自律性を尊重した指導、指導者からの指示よりも被指導者相互のコミュニケーションを重視した指導などとされます。
 それは、スポーツの指導に限らず、企業における社員育成や学校における生活指導などにおいても共通する考え方です。そうだとすると藤原監督の「鬼のように怒っていた」というあり方はどう評価されるべきなのでしょうか。時代錯誤のとんでもない指導ということになるのでしょうか。そして、そんな間違った指導をしていたが、やがてその間違いに気付き、寄り添う指導に変えていったから成功した、と考えるべきなのでしょうか。
 そうではなく、指導の前提となる条件が整うまで、、この場合でいうと、緩み切った生活態度を改めさせ、自分で生活を律し、指導者の言葉に耳を傾け、自省的に行動できるようになるまでは、厳しく型にはめるような指導が必要だということなのでしょうか。
 私は後者だと考えています。そしてすべての「指導者」と呼ばれる人にとって難しいのは、被指導者が今どのような指導が必要な状況にあるのかを見抜く力と状況に応じて指導方針を変えることができる柔軟さを身に付けることなのだと思います。
 指導者には、もちろん教員も含まれます。

 

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