「アーティスト、それとも」1月11日
映像プロデューサー吉川圭三氏が、『商業化はびこる日米の映像』という表題でコラムを書かれていました。その中で吉川氏は、『かつてプロデューサーたちは「楽しめてかつ心に何かが残る映画」を目指していたというが、最近では会議で出席者たちが「数字」をはじき出して話し合っている。それでは心に染み入るものは作れない』と書かれています。
これは日米に共通する現象のようで、日本でも『視聴率を重視する傾向が強くなった(略)人気アイドルが出ているだけの安易で企画意図不明のドラマが増えました』とも述べていらっしゃいます。
まあ、よく聞く話です。ただ、次の記述には少し考えさせられました。『米国では製作者がビジネスマン化し、日本ではサラリーマン化した、といったところ』という記述です。ビジネスマン化とサラリーマン化、どう違うのかということが気になったのです。
私の勝手な解釈ですが、ビジネスマン化というのは、どれだけの人が作品を見て(収益は?何が心に残るかはどうでもいい)、どれだけのスポンサーがついて(どれほどの経費が確保できて)、どのくらいの製作費でできるか(必要経費はどのくらい)と考えるイメージです。
一方で、サラリーマン化というのは、他局や他社と同じようなことをしていれば失敗しても上層部から責任を問われることはないという事なかれ主義的態度というイメージです。前述の「安易で企画意図不明」にぴったり当てはまります。
そしてこうした2つのタイプというのは、実は我が国の学校教育においても当てはまるのではないかと思いました。つまり、選ばれる学校を目指し、学力テストでの好成績、「名門校」への進学率、不登校やいじめの発生件数、部活での好成績、メディアに取り上げられる特色ある活動、などで具体的な数値を上げることに注力するビジネスマン化した学校と、学習指導要領に代表される各種の規定や方針は踏み外さず、基本的には隣接校と足並みをそろえて教育活動をし、新しい要望や注文には「教委の方針が~」「近隣校でも実施しているところは少なく~」と、無難第一主義で日々を過ごすサラリーマン化した学校ということです。
言い方を変えれば、前者は改革者であり、後者は現状維持派といえます。そして当然ですが、前者の方が高く評価されます。改革派校長などと言われるのはこうした学校経営を進める方々です。
しかし、長年の教育実践者としての経験に基づき、自ら練り上げた理念に基づいて改革を進めるのならばよいのですが、改革派歓迎ムードに乗っかって、数値化=透明化=開かれた学校経営というような単純な図式で、教員や子供の尻を叩くような在り方は疑問です。近年、競争原理の導入で学校を活性化しようと考えて旗を振る首長主導の改革には、この気配が濃厚に感じられます。もっと違う第三の道があるように思えてなりません。
ビジネスマン化でも、サラリーマン化でもないとなれば、アーティスト型かアスリート型か、それとも研究者型かなどと考えてみましたが、どれもぴったりきません。子供のためならば自分の生活を犠牲にしてもというような聖職型もいけません。私の持論に従えば、教育専門家集団型となるのですが。