「言い難い」12月24日
『絶えぬ暴力 許すな』という見出しの記事が掲載されました。スポーツ現場における児童生徒への暴力行為について取材を続けてきたジャーナリスト島沢優子氏に取材した記事です。
その中にとても印象に残った記述がありました。『キャリアを積んだ指導者の人生を守るためにも、パワハラ根絶と新しい指導スタイルの構築に力を注ぐべき』という島沢氏の言葉です。
全くその通りなのです。私は教委勤務時に、運動系部活や体育の授業における体罰の事後処理に携わってきました。記事の中で、島沢氏が指摘するように『指導者は暴力を振るっている、許されないことをしている自覚がない。奮起させるため、本人のためによかれと思ってやっている』と感じることが多々ありました。
そのとき、一番有効な指導は、「体罰は、あなた(指導者・教員)の人生をが壊す」を理解させることだと感じていました。懲戒処分を受けると、教員である限りその履歴はついて回り、昇給や昇任、異動などの際に負の影響を与え続けること。暴力教員という評判は一人歩きし、異動先の学校でも同僚、子供、保護者から色眼鏡で見られること。また体罰をするのではと警戒され、生きがいである部活の指導に付けないこと。子供から処分を受けた教員という目で見られ、「悔しかったら殴ってみろ。今度はクビだぞ」などとあしらわれること。一生懸命指導に当たり成果を上げても「でも、○○さんは暴力的だから」などと正当な評価を受けられないこと。「○○さん、暴力を振るって処分されたんですって。家でも奥さん殴ったりするのかしら」というような噂で私生活にも影響を受けること。
これらは実際にあることです。体罰自体では、懲戒処分の中で最も軽い戒告処分であったにもかかわらず、その後その「後遺症」に悩まされ続ける教員はいるのです。まじめな勤務態度で子供や保護者からも信頼されている教員が、過去の懲戒処分歴により管理職試験を断念させられたというようなケースもあるのです。誰しも、自分が可愛いものです。それは当然の感覚であり、非難されることではありません。ですから、自分自身の人生とのため、幸せのため体罰は止めるべき、という指導が高価をもつのは自然なことです。
しかし、こうした指導はしにくかったというのが実感です。それは、加害者である教員への視点に偏り、被害者である子供を軽視していると誤解されかねないからです。言うまでもなく、体罰は、学校が子供に対して行う人権侵害の最たるものであり、絶対に許されてはならないものです。それが原点であり、全てです。この主張には抗しきれない正義があります。
ですから、教員への指導に当たっては、この正義を繰り返し説くことこそ大切であり、王道であるという雰囲気があり、体罰は損ですよ、というような指導はしにくいのです。もし、私のような立場の教委の幹部が、教員に対し「体罰は損」論で指導をしていると明らかになったとしたら、メディアは批判的に報じるでしょうし、市民からの苦情が殺到するでしょう。だから、難しいのです。効果的なのだけれど。