「恐れているのは」2月1日
『18歳選挙権で文科省QA集』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、QA集の内容は、『「政治活動を校内では禁止する」という校則を定めることは可能か』『校外で行う政治活動や選挙運動は「届け出制とすることはできるか」』『投票日当日に学校行事がある場合、投票を理由に公欠を認められるか』というような問いが示され、それについて回答が述べられています。
気になったのは、識者のコメントです。立教大名誉教授五十嵐暁郎氏は、『政治教育に「中立公正」を求めすぎていることが、「文部科学省におうかがいをたてなければならない」という学校現場簿意識となり、「Q&A集」の作成につながっている』と述べていらっしゃいます。このコメントの中にある「中立公正」を求めているのは誰なのでしょうか。学校?、教員?、教委?、それとも文部官僚?、政治家?、保護者?、国民?、私にはよく分かりませんでした。もしかしたら、それら全てなのかもしれません。
では、もし彼ら全てだとした場合、それぞれがイメージしている「中立公正」は同じなのでしょうか。常識的に考えて、かなりの隔たりがあるのは間違いありません。五十嵐氏は、『どのように政治を学ぶのか、文科省が決めるのではなく、社会全体で考える必要がある』としていますが、社会全体で考えるとはどのような仕組みや手順を考えているのでしょうか。また、社会全体で考えると、一つの意見に集約されていくとお考えなのでしょうか。
我が国の統治システムを考えれば、国会で議論され、その議論を反映した形で文部官僚が「案」をつくり、政府が了承するということになるでしょう。審議会や諮問委員会のようなものが作られるかもしれませんが、大筋は変わりありません。そして、作られた指針や基準については、必ず批判が寄せられます。どのような指針であろうと、確実に批判されます。ただ、内容によって批判する人と批判の方向性が変わるだけで。
五十嵐氏は、そして五十嵐氏にだけコメントを求めているM紙も、学校や教員が批判されることを恐れ、「上が言っていることなので」と責任転嫁しようとしているという見方をし、その無定見さを暗に批判しているようです。しかし、それは間違いだと思います。
学校や教員がどのようなポリシーで、どのような指針を立てて指導に当たったところで批判されるのです。教員個人で、学校単独で、社会やメディアの批判に立ち向かえというのは、現実を無視した酷な話です。メディアに取り上げられれば、1日に100件を超す苦情や抗議の電話やメールが寄せられます。その対応で学校は麻痺してしまいます。職員は疲弊し、学校全体の教育力や組織としての対応力は低下していきます。それがまた新たなトラブル発生につながるという悪循環が予想されるのです。
こうした事態を防ぐことが教育行政の役割であり責任なのです。文部科学省も教委も敢然として指針や基準を明示し、批判は全て自分たちが受け止め、学校や教員負担をかけないという姿勢が求められるのです。もちろん、究極の責任は政治家にあることは言うまでもありません。