ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

優しさ?卑屈?思いやり?

2016-02-04 07:41:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「優しさ、思いやり、卑屈」1月28日
 『裸像隠し「屈辱的行為」』という見出しの記事が掲載されました。イラン大統領のローマ訪問時に、『イタリア側がイスラム教の慣習に配慮し、博物館の裸像を覆い隠した措置』について、『「他文化への服従」「屈辱的な行為」などの批判を受け、政府は内部調査に着手』したことを報じる記事です。
 大変興味深くこの記事を読みました。それは、良い教材になる、という直感が働いたからでした。我が国の学校教育では、相手の立場を思いやる優しさや配慮というのは、ほぼどんなときも無条件に「良いこと」とされています。もちろん、バランスを保つために、正当な意見や考えは遠慮せずに主張する、という行為も大切だとされてはいますが、実際には、圧倒的に思いやり配慮>自己主張という図式が定着しています。
 そんな実態を鑑みるとき、この裸像覆い事件は、多様な意見、本音を引き出す教材として価値があると思うのです。社会科の国際理解を学ぶ授業の中で、真の国際理解とは、相互の文化の尊重とはということを考えさせるのもよいでしょう。高等学校であれば、国力や経済力が外交姿勢に及ぼす影響を考えるという発展もあるかもしれません。道徳の授業で、思いやりと卑屈の違いについて話し合わせるのも一つのやり方です。
 授業は子供に考えさせるものですが、この事件について取り上げることは、教員自身が、異文化理解とは、文化や伝統の価値とは、思いやりと卑屈な態度の違いとは、といった問題について考える契機ともなります。教員自身が考え迷い悩むことなしに、授業で取り上げた教材は、どうしても教材研究が通り一遍の薄っぺらなものになりがちですが、教員が容易に立場を決められずに、何回も自問自答を繰り返してから授業で取り上げた教材は、必ず良い教材になるのです。そうした経験をすることは、教員をして、教材研究の面白さに気づかせ、教員の授業力を一段上に引き上げる作用をするのです。
 最後に「例題」を一つ。教員の派遣団が我が国から豪州に視察に行く際、団員である教員は、少しでも英語で話そうとして事前に学習して臨みますが、豪州から派遣されてくる教員は、英語で押し通そうとします。こうした現状を踏まえ、「我々が貴国を訪問するときは貴国の言語でコミュニケーションを取ろうと努力しているのだから、あなた方も訪日時には日本語を学んでくるべきだ」というのが正しいのか、「おもてなしの気持ちで、お客様が気持ちよく過ごせるように我々がもっと英語を学ぶべきだ」と考えるのが正しいのか、どちらでしょうか。私が教委勤務時代に感じた疑問です。

 

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