「そのエネルギーこそ」2月22日
『学校と私』欄で、女子ソフトボール日本代表上野由岐子氏が、高校時代の恩師の思い出を語っていらっしゃいます。上野氏は、『先生が怒るのは、自分勝手なことをしたとか、ルールを守らなかったとか、他人に迷惑をかけたとか、ちゃんと私たちにも分かる理由があった。だめなことはだめと、決して見逃さない。ただ感情をぶつけてるんじゃないんです』と、担任教員を分析しています。
この言葉の中に、上野氏の担任が優れた教員であることが分かる2つの要素が含まれています。まず、浸透力です。「怒る」理由を「怒られる」側である生徒たちが理解している、ということです。つまり、担任の価値観、基準といったものが、生徒と共に過ごす時間の中で、いちいち言わなくても自然と生徒たちに浸透していっているということです。これは言うに易く行うに難し、です。ダメな教員は、子供に理由を分からせないまま叱る、普通の教員はいちいち理由を説明して叱る、そしてよい教員はいちいち言わなくても子供たちは叱られた理由が分かっている、という違いがあるのです。
次に、例外を作らない努力です。上野氏の言葉の中の『決して見逃さない』がそれです。指導力不足といわれるような教員でなければ、自分が設けた価値観と基準に従って、「賞罰」を行っているはずです。私もそうでした。しかし、教員も人間であり、ロボットではありません。体調や気分にムラがあるものです。そのため、本来ならば叱らなければならないにもかかわらず、「小さなことだし、まあいいか」ということがあるものです。人間だから仕方がない、と言ってしまえばそれまでですが、子供側から見ると、「なんで先生は叱らないんだろう。○○さんを贔屓しているんじゃ?」という疑念を起こさせるのです。こうしたことが重なっていくと、子供は教員の叱責を素直に受け取れなくなってしまいます。その行き着く先は「学級崩壊」なのです。
そんなことは分かっているという教員は多いでしょう。でも、逆に教員なればこそ、叱ることに費やすエネルギーの大きさも理解できるはずです。叱るのは疲れるのです。だから、教員自身にエネルギーが不足しているときには、叱ることが億劫になってしまい、つい見逃すことになってしまうのです。ですから。上野氏の担任教員が「決して見逃さない」ということは、素晴らしいことなのです。
教員という職の難しさは、経験を積み、知識や技能が高まったとき、実はエネルギーが枯渇してくるという点にあるのです。