「問題の立て方」8月19日
『中学校に警察 是か非か』という見出しの記事が掲載されました。記事は、『4~6月、埼玉県内の男子中学生6人が、教諭への暴行や傷害の容疑で同県警に相次いで逮捕されていたことが分かった。いずれも「胸ぐらをつかんだ」「胸を殴った」などで学校側が通報し、警察官が現行犯で逮捕した。被害の程度軽いケースでも学校への警察介入を進めるべきなのか』という書き出しで始まっています。
私は、是か非かという以前に、問題設定のあり方について興味をもちました。まず、中学校という限定の仕方についてです。高校以上であれば、「警察介入」は当然であるという前提なのでしょうか。小学校では、「警察介入」は当然だという意識なのでしょうか。私が教委に勤務していたときには、小学校の高学年の子供にけがをさせられた教員がいました。私は被害届を出すように指導しましたが、小学生は小さくて非力だから殴られても教員は我慢できるはずという発想なのだとしたら、あまりにも現場を知らないと言わざるを得ないと思います。
また、「警察介入」という表現はどうなのでしょうか。介入という言葉には否定的なニュアンスが込められています。いじめや不登校の問題にはカウンセラーが関わることが必要という言い方をし、カウンセラーが介入すべきという言い方はあまりしません。「介入」という表現を使うことによって、警察が関わることに対して否定的方向に誘導しようという意図を感じてしまうのは私だけでしょうか。例えば、連携という表現であれば、大分印象が異なると思うのですが。
さらに、「被害の程度が軽いケース」という条件提示についても疑問があります。私は教員が暴行を受けた場合、診断書をとるように指導してきました。診断書というのは、とてつもなく軽いけがでも作成されるものです。立場は逆ですが、教員の体罰事例では、担任の男性教員が整列しない子供の手をつかんで引っ張ったという事例で、子供の母親は全治3日という診断書をつきつけてきました。校長の目視では、子供の二の腕に教員の指の跡が3つついていたという程度で、翌日には跡形もなくなっていたそうです。
もし、記事で『胸を殴るなどした』とある事例で教員が直ちに医師の診断を受ければ、全治○日の打撲傷という診断書がつくられて可能性は極めて高いと思います。そうであれば、それは軽いケースではなくなるのでしょうか。
私は「警察との連携」を強く支持する立場です。もちろん違う考えの方がいることは理解していますが、少なくとも偏った問の立て方でミスリードするのはやめてほしいと思っています。
最後に、教育評論家尾木直樹氏のコメントにある、『生徒の評価権という絶対的権限を持つ教諭が~』について一言言っておきたいと思います。教員の評価権は、評価を気にする子供に対してのみ影響力をもちます。教員の暴力をふるう生徒は、教員の評価を気にして憚ることがない生徒がほとんどであるという事実に目をつむってしまっては、議論を誤ります。
「教育の言葉」8月19日
音楽評論家の沼野雄司氏が、『音楽は「時」「鳥」「風」』というタイトルのコラムを書かれていました。その中で沼野氏は、『現代日本のクラシック作品にどのようなタイトルが付けられているか、簡単な統計を取ってみたことがある』と書き、統計の結果として『もっとも多く用いられていた単語は「時・時間」だった。面白いのはその後の順位で、2位から「鳥」「風」「歌」「夢」「光」「風景」と続く』のだそうです。
また、法学や経済学に関する用語はほとんど見かけないそうです。沼野氏は、『「管弦楽のための行政訴訟」とか「ピアノのためのデフレスパイラル」なんていうタイトルは想像し難い』と書いていますが、こうした表現を思いついた沼野氏の発想力に脱帽したい思いがするくらい、相応しくありません。
私は音楽についてはまったくといってよいほど知識がないのですが、沼野氏の統計結果については、何となくそうだろうなという気はします。それぞれの分野に親和性の強い言葉があるということです。ところで、学校で行われる校内研究や教委が指定する推進校などの研究テーマ、あるいは教員研究生や研究員などの個人が行う研究テーマなどに使われている言葉についても、ある傾向がみられるのではないでしょうか。
たまたま手元にあった平成元~6年の研究冊子を見てみると、「自ら」「主体的」「豊か」「意欲」「関心」「個性」「基礎」「学びあう」「考える」「表現する」「見つめる」「見方・考え方」「身近」などの用語がつかわれているケースが多いようです。また、こうした用語には流行り廃りがあるというのも、今まで述べてきたとおりです。
学校等での研究テーマの特徴を一言で言えば、情緒的ということになります。別の言い方をすれば、定量的ではないということです。例えば、私が専門としてきた社会科研究においてよく使われている「身近」という用語についていえば、これを定量的に定義するということはあまり行われていませんでした。心理的身近、物理的身近という概念はあるのですが、あまり意識されていません。東京の下町に住む韓流ファンの女子中学生にとって都内の檜原村とソウルはどちらが身近なのかといえば、おそらく後者でしょう。しかし、それを証明することはほとんど行われていません。
どちらが心理的に身近かということを測る尺度として、ある集団の子供が1週間に接する文字情報や映像情報・音声情報などの中で、両者に関する情報が何件あったかというような分析が必要なのですが、そうしたことはせずに教員が感覚で判断してしまうのです。
「豊か」な表現とか、「豊か」な学びというとき、豊かさは数値化されません。「豊かな表現」が実現しているか否かを、文字数、修飾語の数、語彙数でカウントするというような研究を行えば、そんな単純なものではないという批判が殺到することでしょう。私もそうした批判をすると思いますが、本来は数値化された指標なしに子供の成長を客観的かつ説得力をもって提示することはできないはずなのです。
「管弦楽のための行政訴訟」や「ピアノのためのデフレスパイラル」ほどのインパクトはなくても、「授業において教員の指示・命令の発言数と子供が書く作文の文字数及び語彙数の対称性の証明」とか「教材ビデオ{Jリーグにおけるシュートシーン}の視聴時間とゲームにおけるシュート成功率の推移」というような、古いタイプの教員が違和感を感じるような研究が行われるようになると、学校教育が変わると思うのですが。
「因果関係か、相関関係か」8月19日
『推進校 学テ好結果 総合学習で成績向上』という見出しの記事が掲載されました。1面トップです。記事によると、『積極的に総合学習で探究活動に取り組む学校ほど全国学力テストの結果が良く、学習意欲も高かった』というのです。しかし、記事を何回読み直しても、どのようにしてこうした結論が導き出されたのかが分かりませんでした。
確かに、アンケートで「探究的な学習に取り組んでいる」と回答した子供とそうでない子供の学テの結果を比較したデータは示されています。そこでは、「取り組んでいる」に当てはまると回答した子供の方が、当てはまらないと回答した子供よりテストの結果が良いことが示されてはいます。でも、だから何だというのでしょう。私には、この結果は誰でも予想できた相関関係を証明したものとしか思えないのです。
つまり、元々勉強がよくできる子供がいる、そうした子供が多い学校では探究活動を取り入れた学習を構想しやすい、だからその学校や教員は「総合的な学習の時間」において探究活動を取り入れた計画を立て実施する、保護者に対しても我が校では探究活動を積極的に取り入れていると広報する、子供たちも「自分たちは探究活動をしている」と自覚する、探究活動はうまくいけば学ぶ楽しさや充実感をえることができるので子供の自己肯定感は強くなる、成功体験を積み重ねることによって自信が付き意欲も高まる、意欲的に学ぶ習慣がつくので学力が向上する、という図式が存在するのです。
一方、元々勉強ができない子供がいる、そうした子供が多い学校では探究活動は成立しにくい、だから仕方なく教員主導型の授業が多くなってしまう、子供たちは探究活動をしているという自覚はない、教員主導型の学習では達成感を味わうことは少なく学習への意欲も高まらない、従って学力も低迷してしまう、という図式が考えられます。
または、探究活動が成立しにくい状況にもかかわらず教員や学校が教委等に迫られ探究活動を強引に導入してしまう、探究活動に必要な能力・脂質を備えていない子供たちは学習が空回りしてしまい探求が途中で挫折してしまう、挫折を繰り返した子供は自己肯定感が低下し学習への意欲も低下してしまう、その結果基礎的な知識さえ身に着けられないままの状態に陥るということもあり得ます。
もちろん、すべて仮説ですが、私自身社会科の授業を中心に問題解決学習(探究活動と親戚のような関係にある)を追い求めてきた経験から、また教委に指導主事として勤務し「総合的な学習の時間」の定着のための指導をしてきた経験から、学校の実情に即した仮説であると考えます。分析を担当した方には、探究活動の実施と学テ結果は、因果関係なのか相関関係なのか、を明らかにしてほしいと思います。そのためには、ある時点で学テの結果がほぼ同じであった学校を数百校抽出し、その後の探究活動の実施度の推移と学テ結果の推移を比較するという作業が必要です。さほど困難ではないと思うのですが。
「着目する点」8月18日
『地域の未来 総合学習で理解』という見出しの記事が掲載されました。江東区立八名川小学校の持続発展学習(ESD)の実践について報じる記事です。その中に、ぜひ着目してほしい記述がありました。
『何人かの児童の発表を聞いた後、講師が授業を先に進めようとしたところで、傍らで見守っていた手島校長が「待った」をかけた。ここがこの授業の最大のポイントだったからだ~(中略)~簡単に教え込んでしまっては、子供が理解し、納得する時間を奪ってしまう』という部分です。
「総合的な学習の時間」は、従来の教科とは異なる新しい発想の下に行われる自主的自発的な学習です。このことを表面的に浅くしか理解していない人は、従来型の授業における教員の指導力は役に立たないかのような議論をしがちですが、そうではないのです。
どのような形の授業であれ、事前の教材研究で子供がつまずいたり、こだわりを感じたりしやすい点を予想し、授業中の子供の表情や視線、つぶやきなどから子供の内面を把握して、再質問、補足説明、新しい資料の提示、新たな体験の提供など適切な支援を行うことが出来る能力が教員に求められているのです。
今回紹介されている授業では、企業に勤務する「知の専門家」が講師を務めています。その専門知識は、手島校長を大きく上回っていることでしょう。しかし、それだけではより良い学びは生まれないのです。子供と授業を知り尽くした手島氏という熟練の「授業の専門家」が存在してこそ、真の学びが生まれたのです。
今回の記事のような新しい試みを報じる場合、どうしてもその新しさに目が向いてしまいがちですが、伝統的な指導力の上に新しい試みが成り立っているという視点で報じ、また記事を読むという姿勢を忘れてほしくありません。
「見解の相違」8月18日
読者投稿欄に、埼玉県の鷺柳一氏の『与良政談に溜飲下がる』という表題の投書が掲載されました。その中で鷺氏は、『長崎原爆の日。被爆者団体の一人が「集団的自衛権については納得していませんから」と、安倍首相に声をかけると、首相は「見解の相違ですね」と言ったという。首相の冷たく素っ気ない対応には部外者ながらも私も憤りをおぼえた』と書かれていました。
私も、集団的自衛権を巡る安倍首相の姿勢には反発を感じています。ただ、「見解の相違」という言い方については、複雑な思いがあります。私が教委に勤務中、外部との対応で最も使用したのが、この「見解の相違」という言葉だったからです。
市民や保護者からの苦情への対応、職員団体等との話し合いの場などでは、留意すべきポイントが3つあります。まず十分に話をさせその話に耳を傾けること、次に相手の話の内容を要約して繰り返し自分の受け取り方が間違っていないことを確認すること、最後に相手の主張に対する自分の見解を誤解のないように伝えること、です。
その際に絶対に使ってはいけないのが、「分かります」「そうですよね」というようなあいまいな返答をすることです。あなたの言いたいことは分かりました、という意味で使っても、相手は自分の主張に同意したと受け取ることが多く、その後の話し合いが紛糾するからです。そこで登場するのが、あなたの話の趣旨は理解したが私の見解は違います、ということをはっきり伝えることが必要になるのです。その言葉が、「残念ですが、この問題に関しては、あなたとは見解が異なります」、すなわち「見解の相違」という表現だったのです。
使い慣れた言葉に愛着があるというわけではないのですが、安倍首相の対応で問題なのは「見解の相違」と言ったことではなく、十分に話を聞かないこと、相手の主張の内容を理解しようとしないこと、だと思います。
教員がモンスターペアレンツと対応するときにも、十分に話を聞いたうえで、おかしな迎合をせずに「見解の相違」があることをきちんと伝える毅然とした態度が大切だと考えます。
「継承すること」8月15日
終戦記念日の恒例ともいえる、先の大戦を振り返っての社説が掲載されました。『記憶の継承の担い手に』と題された社説は、『二度とあのような戦争は経験したくない、というのが、ほとんどの国民の願いだろう。平和を論ずるにあたっては、戦争の醜さと残酷さを、常に原点に置きたい』という言葉で結ばれていました。
我が国の学校教育における「平和教育」は、正にその通りに行われてきました。そしてそれは不十分であったというのが私の考えです。戦争って醜いね、残酷なものだねと思ってさえいれば戦争を避けることが出来るというのは、おそらく間違いです。それでは、平和を実現することはできません。そんな教育を「平和教育」と呼んでいいものか疑問です。
我が国では、戦争の悲惨さは、二度と戦争をしないという意識に結びつくことが当然だと考えられています。しかし、それは世界の常識ではありません。敗戦国が戦争の悲惨さを知れば、「よし、次は負けないぞ。必ず復讐してやるぞ」と考える民族や国家はすくなくないのです。我が国が国力不足のため、今は米国に逆らえないが、いつか広島と長崎の復習をするため「臥薪嘗胆」の精神で密かに復讐の爪を研いでいると思い込んでいる国もあるのです。そうした国がある以上、我が国だけが平和を「願って」いても、平和は続かないのです。
本当に継承していかなければならない記憶とは、戦争に至った経緯、その経過の中で選択を誤ったと思われる分岐点、そこでのあるべき選択、戦争を始めるにあたっての判断の瑕疵、戦争継続の判断をもたらした問題点、戦争指揮上の方針の揺らぎ、戦争終結を遅らせた原因などであり、これからもこうした点について新たな資料や情報の発掘に努め、分析し続け、その成果を「平和教育」に反映させていくこと、が必要なのです。
平和を願うだけの平和教育には弱点があります。それは、「平和は大切だと思うよ。でも、もし○○国が攻めて来たらどうするんだ。日本人が殺され土地を奪われてもいいのか」という問いかけに対して無力な点です。この問いに対して「いいんだ!」と言い切れる人は少ないはずですし、「だから周辺諸国と仲良くすればいい」というような答えでは、現状を認識していない空理空論と切り捨てられてしまうのです。
今のわが国の置かれた状況に照らし、相手国にどのような外交方針で臨み、軍事力をどの程度増強(あるいは削減)し、経済面での圧力をどのように生かし、どのような形で文化交流を推進し、さらに国際世論への働きかけをどのように行うか、そうした様々な視点から予算を計上し関連法令を整備するか、そうした思考法を身に着ける教育、小中ではその萌芽となるような学習を創り上げていくことこそ、「平和教育」を構想することだと思います。
「一定の意味はある」8月14日
『LINE府議、BPOに申し立て』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『LINEで女子中学生らに威圧的なメッセージを送っていた大阪維新の会の山本景大阪府議が13日までに、「キモイ」などと報道されたことに対しBPOに人権侵害だと申し立てたことをブログで明らかにした』のだそうです。
この申し立てについて、様々な声が寄せられているようです。各種メディアの報道を見ると、山本氏に対して批判的な見解を示す方が多いようですが、私は山本氏の申し立てには一定の意味があると考えています。
山本氏は、議員などの公職にあるものはどのような誹謗中傷にも我慢しなければいけないという考えはおかしい、と主張しています。今回の山本氏の行為そのものについての評価は別にして考えれば、山本氏が主張していること自体は正しいはずです。前科10版の窃盗犯が「他人のものを盗んではいけない」と言ったとき、多くの人は反発するでしょうが、「他人の物を盗んではいけない」というテーゼ自体は正しいというのと同じです。
我が国では、公式にはすべての人の人権が守られなければならないとされているにもかかわらず、不当な非難に対しても我慢しなければならないとされる職や立場というものがあります。山本氏が言うように政治家もそうですし、芸能人などの著名な人もそうです。そして、教員もそうした職とされています。
例えば、ある教員が、休みの日に朝からビールを飲んで泥酔し、子供が事故に遭ったという連絡を受けても出かけることが出来なかったとしたら、その教員は非難されるでしょう。「休みの日だったから文句を言われる筋合いはない」と抗弁すれば、さらに激しい批判にさらされることになります。しかし、法的に言えば、この教員の行動は批判されるものではありません。精々、校長が注意するくらいのものです。
私は、教員が他の校務員よりも倫理性を求められる職であることを否定するつもりはありません。ただ、行き過ぎた批判が許容され、我慢することが当然視される風潮は好ましくないと思います。言葉は悪いのですが、つながれた犬を棒でたたくような、反撃できないことを見越して無抵抗の相手をいたぶって楽しむかのような、個人攻撃をしてくる保護者や市民が実際にいるのです。そうした風潮に風穴を開ける意味で、誰かが「反撃」にでることが必要だと考えていました。だからこそ、山本氏の反撃にも一定の意味があると述べたのです。
最後に、山本氏の行為について私見を述べれば、女子中学生とLINEをしていただけで、教員なら文書訓告処分は確実でしょう。事実関係はどうあれ、市民一般の常識に照らして「疑念」を抱かせる行為であるからです。府議会議員に求められる倫理観が教員よりも低いとは思えません。当然、「×」です。
「自衛権」8月14日
『万引き対策「死活問題」』という見出しの記事が掲載されました。『古物商「まんだらけ」での万引き行為を巡る容疑者の画像公開問題』について報じる記事です。記事では、画像公開予告について、『被害届を出しても捕まったためしがなく、自衛の手段だった』という「まんだらけ」の広報担当者の声が紹介されています。また、『「画像にかけたモザイクを外す」と警告後、多い日には1日約100件のメールや電話があったと明かした。8割は賛同する内容だった』という記述もありました。
現代の世相を反映した出来事だったと思います。暗い気持ちになりました。私は画像公開を暴挙と考える立場だからです。公開支持派の心情は理解できます。しかし、画像公開の根幹をなす発想である、個人による刑罰権の承認を肯定してしまうと、長期的に見た場合、事態は悪化してしまうと考えます。
私は教委に勤務していたときに、こうした考え方の市民や保護者への対応に苦労してきました。我が子がいじめを受けていると訴えてくる保護者は、「明日までにいじめが解決できたと確信できなければいじめられたことをチラシにかいて地域に配ると「脅し」をかけてきます。そこには、警察に訴えても万引き犯は捕まらない←→校長や教委に訴えてもいじめは解決しない、と考える発想の相似形がみられます。彼らは、チラシには加害者の個人名は入れない、と言いますが、読む人が読めば容易に特定できますし、地域で噂になれば犯人捜しが始まるのは火を見るよりも明らかです。
そしてその結果いじめが解決し、平穏な学校生活が戻るのであればまだしもですが、泥仕合としか表現しようのない混乱が生じ、「被害者」にも「加害者」にも良い結果はもたらさないのです。
もちろん、教委の責任者として、私自身自分の力不足を恥じ、反省しなければならないのは当然です。でも、いじめ問題というのは、事実関係の調査、校長と担任への指導、指導したことが実現されているかの確認、というプロセス抜きに解決することはできないのです。「加害者」は即転校させろというようなことを言う人もいますが、調査なしの「処分」は、冤罪の可能性を否定できません。こうした過激な主張をする人でも、我が子が「加害者」というレッテルを貼られて転校を強制され、後で冤罪であったことが明らかになったとしたら、仕方がないと納得しはしないものです。
人権、法治を原則とする社会、我が国はそうであると思いたいのですが、そうした社会では、冤罪を防ぎ、「加害者」とされる人の人権にも配慮するために、問題の解決には時間がかかるということを受け入れる必要があります。拷問で自白を強制したり、自白剤を注射して取り調べることが許されるような社会を望むなら別ですが。
また、個人的な制裁権を認めていくと、経済力や社会的影響力、保持する人間関係などにより、不公平が生じてしまいますし、本来の担当部署である警察や教委などの行政機関の問題解決能力を低下させていくことにつながります。その先に待っているのは、私刑が横行する社会です。
現代は自己責任が強調され、その流れから今回のようなトラブルの解決も個人の能力と責任でという発想が強まっていくことが予想されますが、少なくともそうした発想は教育界にはふさわしくないことを強調しておきたいと思います。
「大前提」8月13日
『学校司書 教育改革の弾みに』という見出しの社説が掲載されました。ごく普通の論理展開ですが、最後の一文に違和感を感じました。『保護者や地域からの読み聞かせボランティアなど、校外からの活動参加も期待できる』という記述です。何の違和感も抱かないという方も少なくないと思いますが、私が引っ掛かったのは、「期待」という表現でした。
通常「期待」される対象は、望ましいもの好ましい事象を指します。つまりここでは、「校外からの活動参加」についてプラス評価が下されているわけです。しかし、この記述の前には、「校外からの活動参加」が望ましいという理由は一切書かれていません。おそらく、この社説を書かれた方の頭の中では、「人権は大切」とか「戦争よりも平和が良い」という主張と同様、「校外からの活動参加」が善であることは疑いのない常識なのだと思います。私はその点に違和感を感じたのです。
私は、教委勤務の経験から、またつれあいが副校長・校長という学校管理職をしていた経験から、「校外からの活動参加」は、良い結果を生じる場合が多いが、混乱をもたらすだけに終わることもあるというのが真実だと考えています。何が何でも「校外からの活動参加」を善とする発想では、そこで思考がストップしてしまいます。そうではなく、地域や学校の状況、対象となる教育活動の種類をふまえ、ケースごとにメリットデメリットを検討する姿勢が重要だと思います。
「校外からの活動参加」に限らず、学校教育においては、流行りの言葉や絶対視されているスローガンが少なくありません。しかし、そんなものはないのです。「指導から支援へ」、「新しい学力観」など、一世を風靡した「流行り言葉」がいつしか時代遅れのような扱いに変わってしまったように。みんながよく使う言葉こそ疑ってみることで、教育論議が深まる場合もあるのです。
「バイ」8月12日
アサヒグループホールディングス相談役の福地茂雄氏が、元伊藤忠商事社長の丹羽宇一郎氏著の『若者のための仕事論』についてコラムを書かれていました。その中で福地氏は、『バイリンガルであると同時に、バイカルチャーでもなければならないと言っている。お互いの国の文化、歴史を知ってこそ、尊敬の念を持って信頼し合えるのではないだろうか』と述べていらっしゃいます。
その通りだと思います。私事ですが、甥が転職しました。私の血筋とは思えぬ「優秀」な甥で、今回は世界展開するコンサルタント企業に勤めることになりました。社内の会議はすべて英語、社員はほとんどが他企業からの転職組で大学院卒、何らかの資格の保有者ばかりというエリート集団だそうです。甥も知的財産権についての資格を持ち、勤務のかたわら大学で講義をするレベルの専門家です。厚生労働相の指摘会議の委員も務めています。エンジニアとしての経験もあり、以前の企業では、皇太子殿下の視察の歳に説明役を務めもしました。
先日、父の7回忌で久しぶりにその甥と会い話をしました。「ところで、M家の宗派は何なの」と私が尋ねると、「分かりません。関心ないし」との返事。「多くの国では、宗教は信じていない、というとそれだけで奇異な目で見られるというよ」と言うと、「そうらしいですね」とあまり重大視していない様子でした。
また、担当企業が台湾への進出を計画しているというので、台湾と中国における反日意識について話題にすると、両者の意識の違いとその歴史的背景についてはほとんど知識がないようなのです。
「優秀」な甥にしてもこのありさまです。文化や歴史への関心の低さ、自国の文化や歴にへの関心の低さは当然の事ながら外国の文化や歴史への無関心につながります。「駄目」な甥であれば、個人問題として理解できますが、なまじっか「優秀」な甥であるだけに、今も朝4時に起きて新たな資格取得のための勉強をする向上心に溢れる甥であるだけに、我が国の教育の歪みが気になります。
対立する中韓、遠い存在であるイスラム、部族社会を引きずるアフリカなど、意図的計画的に学習指導要領の中に位置づけていくことと、その分何を削っていくかという検討を進めるべきだと思います。