「大きな尺度」8月12日
現役最年長ジャーナリストむの・たけじ氏が、集団的自衛権行使を可能にする解釈改憲について、インタビューに答えていました。その中でむの氏は、『戦争はなくならないものと思っている人がいる。だが、人類700万年の歴史の中で戦争が始まったのは、農耕が始まり、富が蓄積し著大な権力が生まれた5000年前あたりから。24時間に当てはめると、23字55分すぎです。だから、人間生活に本来戦争は必要なものではないはず』と語っていらっしゃいました。
虚をつかれた思いがしました。私はむの氏が言うところの「戦争はなくならない」派です。先の大戦後だけを見ても、世界で軍事力を行使した戦争がなかった期間はほとんどありません。もう少し視野を広げて近世の世界を見てみても、30年戦争、100年戦争など戦乱の時期が多く、我が国の江戸時代のような争いのない時代の方が珍しかったという認識でいたからです。それだけに、人類700万年という視野の広さに驚かされたのです。
戦争についてのむの氏の見解が正しいかどうかは分かりませんが、人類700万年という発想で学校教育を考えてみると、別のものが見えてくるような気がします。初期人類は、「学校」をもちませんでした。社会全体にそんな余裕もありませんでしたし、必要もなかったのです。しかし、集団で暮らし、自分たちの集団を維持し次の世代に伝えていくためには、子供たちに何らかの「教育」を施すことは必要だったはずです。
その際、もっとも基本的なことは集団内のルールであったと思われます。自分だけがどん欲に食べ物を独占しない、子供であってもできる範囲で集団に貢献するなど単純なものであったとしても、何らかの「学習」が行われていたはずです。そしてそれは、現在とは形が違うものの「家庭」や「地域社会」の相当する場において行われ、親や一族の年長者が「教員」の役割を果たしていたはずです。
つまり、今風の言葉で言えば、家庭教育や社会教育こそが、教育の原点であり、学校に先行して存在していたということです。そのことに思いを致せば、我が国において、教育=学校というような意識の蔓延、家庭や社会が持つ教育機能の低下は、教育については歪んだ現状と言うことができるかもしれません。
家庭と社会が人としての基本的な成長を担い、学校が個々の家庭では背負いきれない新しい知識や高度な技能の定着を担うというあり方を基本として、教育の全体像を描き直すことが必要だという気がします。
「誤解のないように」8月10日
読者投稿欄に、元高校教員相川隆氏の『多忙になっている教員』という表題の投書が掲載されていました。『生徒と向き合うこと』に時間をかけられるようにすべきという投書の趣旨には概ね賛同できるのですが、一つだけ気になる部分がありました。『授業展開の詳細の報告は不可能だし、必要のないことです』という記述です。
相川氏は、教員多忙化の原因の一つとして、管理職への授業報告をあげています。しかし、多忙であっても本来必要な業務はあります。その一つが、授業についての報告です。もちろん、相川氏も述べているように、詳細の報告は現実的ではありませんが、校長が教育課程を管理する上で、授業についてある程度の現状を把握しておくことは必要です。それは、教員に対する管理強化とか、教育内容への不当介入といったことではありません。
私が指導室長をしていたとき、学校訪問では必ずその学校の全教員の週案簿に目を通していました。そこから分かるのは、授業の進度、予定と実際のずれ、授業についての教員の自己評価、校長の承認の実態と指導助言などです。また、トータルとしてその教員の授業観や授業力といったことも把握できました。
こうして情報を把握しておくからこそ、議会や市民から苦情等があったとき、迅速な対応ができるのです。それは、私自身の保身のためではなく、学校教育への信頼を確保し、教員を守るために必要なのです。もちろん、校長の立場でも同じです。
実際にあった事例を紹介します。ある日、「○○先生が、教科書を使わず自分で作ったプリントを使って授業をしているが、教科書を使わないのは問題ではないのか。○○先生は熱心な組合員だと聞いている。偏向教育ではないか」という保護者からの苦情が校長に寄せられました。校長は、その教員が区の教育研究会の教科部会で研究授業をすること、そのために事前の話し合いで教科書とは別の教材を使うことになっていたこと、その教材がどのようなものであるかということについて報告を受けていましたし、その際週案簿に授業の反省を記載するように指導していたため、保護者からの苦情に淀みなく答えることができました。その説明を聞いた保護者は納得しました。後日、その保護者から校長とのやりとりを聞いたPTAの会長は、ある会合の場で私に、「校長先生というのは、自分の学校でどの先生がどんな授業を行っているか、きちんと把握しているもんなんですね」と感心した様子で話してくれたものでした。
もしこのとき、校長が「それは知りませんでした。すぐに本人を呼んで訊いてみます」と答えていたら、「校長のくせに自分の学校で何が行われているかも知らないのか」ということでさらに不信感を募らせ、怒りを高めてしまった可能性があります。それは、教員にとっても不幸な事態です。
教員の多忙化への対策は必要です。しかし、必要な業務と不要な業務をきちんと分ける基準を持つべきだと思います。
「初心」8月10日
読者投稿欄に、奈良県在住の高校教員久保玲王奈氏の『企業経営とは違う学校運営』という表題の投書が掲載されました。大阪市の民間人校長が処分を受けたことをふまえた投書です。その中に、『企業経営とは違って、校長の強いリーダーシップだけで学校運営や改革を行うことは困難だと考える。民間人校長には、初心に戻り、自覚を持って職務を遂行していただきたい』という記述がありました。
久保氏は何か勘違いをしているのではないでしょうか。私は民間人校長の導入拡大には反対の立場です。このブログでも再三述べてきました。おぞらく久保氏も懐疑的な立場であると推察されます。つまりは、同じ意見の者同士なのです。ですから、私が「勘違い」と言っているのは、「初心」に対するとらえ方だけです。
橋下大阪市長の考えに賛同して民間企業から校長への転身を決心した人々の初心とは、学校文化や学校独自の慣行、教員特有の意識などを尊重することではなく、そうしたものを「悪しきもの」として破壊するという使命感だったように思います。橋下氏自身がそうした趣旨の発言を繰り返しており、それは各種メディアを通じて広く発信され、浸透していたからです。
つまり、民間人校長がうまく機能していないケースは、彼らが初心を忘れたからではなく、初心に忠実であろうとしたからなのだということです。何人かの民間人校長の失敗は、もちろん個人の資質の問題もありますが、民間人校長というシステムそのものに内蔵されている思想に原因があると考えるべきなのです。
実は私自身、都教委の管理職を退職した後、某政令指定都市から、「民間人校長」枠で校長にならないかという打診を受けたことがありました。橋下氏が民間人校長制度導入を打ち出すよりも前のことです。いろいろと悩み、結局はお断りしたのですが、もし私が「民間人校長」として校長になっていたとしたら、学校文化や学校独自の慣行、教員特有の意識などをある程度尊重しつつ、変革を進めたと思います。口幅ったいようですが、その試みは成功していたはずという自負があります。しかし、もしそうした手法を大阪市でとった場合、「そんな生温いことでどうする!」と叱責を受け、退職に追い込まれていたかもしれません。大阪方式は、改善ではなく革命なのですから。
なお、蛇足ですが、学校運営と学校経営は異なる概念です。校長の主たる職務は運営ではなく経営であることを補足しておきます。
「高校生と関係をもとうが」8月7日
作家の中村文則氏による夕刊の連載小説の中に、小学生時代にいじめに遭っていた女性が独白するシーンが描かれていました。中村氏は彼女に『前の担任の先生は、高校生と関係を持っていたことが学校にばれて、辞めさせられたの。でも私には関係なかった。その先生がどんな恋愛をしていたかなんてどうでもいい。私を守ってくれて、いい先生だったから。新しく来た先生は、とても真面目だったけど、私のいじめをずっと巧妙に見て見ぬふりをしていた。私さえ黙っていれば、まるで問題そのものがないみたいに。ああいう人が、いい先生、になるの』と語らせています。
胸が痛みました。中村氏がどこでこういうシチュエーションを思いついたのかはわかりませんが、とても考えさせられました。まず、教員の私生活と指導力との間に相関関係はないという事実です。私も教員の評価や処分に関わってきた者として、この残念な事実を数多く目にしてきました。そして、子供に好かれ、保護者に支持されていた教員を、交通事故や飲酒の上のトラブルなどで処分してきました。
それは仕方がないことですし、正しいことをしたと思っていますが、何かむなしい気持ちが残ったことも事実です。それ以上に問題なのが、まじめな教員がいじめを「巧妙」に見て見ぬふりするという部分です。いるのです。こうした教員が。
彼らの多くが、日ごろから「いじめは卑劣な行為」ということを指導しています。そして、「何か困ったことがあったらすぐ先生に言いなさい」と言い、「いじめを見つけたらすぐに知らせなさい。誰が言ったかは先生の胸にしまっておきますから」とも話すのです。
しかし、言葉ではそう言っていても、言葉以外の表情や行動といった非言語コミュニケーションのすべてを使って、「面倒なことをさせるな」というメッセージを発し続けているのです。子供は敏感です。言葉とは裏腹の教員の本音を感じ取ってしまいます。その上で、自分の見方があっているか、少しずつ試していくのです。
つまり、教員の目の前で、ふざけたふりをして標的となる子供をいじめるのです。もし、教員から叱責されても、「いじめたつもりなんてない、ふざけていただけ」という言い訳が有効な範囲で。そうして少しずつ瀬踏みを重ね、いじめを重篤化させていくのです。
これをいじめられている子供の側から見ると、「嫌な気分だけどこの程度では先生は助けてくれないんだ。我慢するしかない」という諦め、無力感の積み重ねということになります。やがて、いじめ被害者のがまんが限界に達したとき、あるいは何らかの形でいじめが表面化したとき、この教員は、「普段から指導してきた。被害者からの訴えもなかった」ことをあげて自分の対応を正当化するのです。そして、いじめ被害者は、「なんでもっと早く言わなかったの」とむしろ責められる側に回されてしまうのです。こうした推移が見えているからこそ、何も言えなかったのに、です。
私が教委で、保護者からのいじめの訴えで発覚した事件が正にこの図式でした。私にはこの図式が見えていましたが、教員の巧妙な布石により悪意の「証拠」が見えてこないのです。指導主事を派遣し、校長室で教員を直接指導させましたが、教員は「見抜けなかった私が未熟でした」とは言いますが、見て見ぬふりは、最後まで認めませんでした。
中村氏のお子さんもこうしたいじめにあっていたのでしょうか。
「過熱」8月7日
『「お礼」過熱 豪華に』という見出しの記事が掲載されました。ふるさと納税についての記事です。記事によると、『宮崎県三股町は~(中略)~300万円以上の寄付で宮崎牛1頭分(200万円相当)を贈るなどの「プレミアコース」を新設』『下関市も6月から、3万円以上の寄付に名産のトラフグのちりセットなどを贈るコースを開始』『富岡市は、6月から100万円以上の寄付に「シルク布団4点セット」(38万円相当)を贈るコースを始めた』など、納税(寄付)の「お礼」の豪華化が進んでいるそうです。
こうした傾向の中について、『同じ自治体に少額の寄付を繰り返して何度も特典をもらったり、特典目当てで多数の自治体に寄付するなど「ふるさとを応援するという趣旨から外れた使われ方」もある』という指摘がなされているそうです。
ある制度がつくられると、熱心な担当者が成果を上げようという「善意」で様々なアイデアを絞り、創意工夫を重ねるうちに、本来の趣旨が忘れられ、数値的な成果だけが追い求められるようになるという、よくある例の一つだと思います。
学校教育でもそうでした。教員の業績評価は、頑張る教員に給与等の待遇で報いることによって教員全体の意欲を喚起するという狙いでした。しかし、開始して数年、特定の教員に高評価が集中し、かえって多くの教員の意欲をそぐということになってしまいました。そこで違う手立てを考えればよかったのですが、制度内で工夫するという発想で考えだされたのが、どんなに優秀でも2年連続で高評価にはしないという方針でした。そうすれば、多くの教員が特別昇給等の恩恵に良くすることができ、意欲が高まるという思惑だったのですが、結果として、能力があり実績も上げている教員を腐らすことになってしまったのです。
また、学校選択制は、学校間に競争原理を持ち込み切磋琢磨させることによって、教育内容の向上を図るねらいでしたが、まず注目されるのが大切という発想から、メディア等に取り上げてもらえるような珍しい取り組みを前面に打ち出すという方向の競争になってしまいました。効果が定かでない大学生ボランティア制の導入、地方の姉妹校との交換学習、夏休みの補習授業、3学期制を廃して2学期制で授業時間確保、校長による道徳授業、地域の社会人を講師にした社会科授業など、十分な検討もないまま、多くの学校や教委が突っ走り、肝心の不断の授業改善は置いてきぼりになってしまったのです。
さらに、大阪市の民間人校長制度のように、破綻が明らかになっていても、担当者や発案者のメンツにかけて制度続行を強行するケースなどを見ていると、江戸時代の「生類憐みの令」を思い出し、人間は変わらないものだと思わされます。
ふるさと納税制度については、あやふやな知識で批判することは避けたいと思いますが、学校教育における諸改革については、本来の趣旨に照らして一つ一つ丁寧な検討をしてほしいと思います。
「人権教育の見直し?」8月6日
『女性向け補助金拡充』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、政府の男女共同参画推進本部が、『女性向けの補助金創設や女性登用が進む企業を公共調達で優遇することを可能とする指針を決定した』とのことです。そして、こうした措置について、『憲法が定める「法の下の平等」との整合性から、これまで政府は限定的に女性優遇策を講じてきた』と、その「革新性」を説明しています。
集団的自衛権の行使問題において、憲法解釈が問題になっていますが、この方針もある意味では、憲法解釈の変更といえます。学校教育に当てはめてみると、教員採用や管理職への登用などの面での、女性優遇が考えられます。このことについては、以前にこのブログでも取り上げました。
しかし、今回、「憲法が定める法の下の平等」の面からの検討結果を踏まえて女性優遇策が打ち出されたことを踏まえると、もっと大きな変化を想定しなければならないかもしれません。教育内容における女性優遇や子供の待遇における女性優遇です。
例えば、国語の教科書に登場する「主たる人物」は男女半々とすること、取り上げる文学作品の作者の男女比を考慮すること、というような注意事項が向けられるかもしれません。あるいは、歴史の授業において、同一の時代の学習で取り上げる人物は必ず男女いずれかに偏らないようにすること、などとされるかもしれません。杞憂だと言われるかもしれませんが、我が国には、一度ある方向に動き出すと極端に行き過ぎるという傾向があるのです。実際、学校での男女平等教育の取り組みで、名簿は女性が先で男性は後というような「改善」が報告されたことがあるのですから。
さらに、教育内容だけでなく、生徒会の役員や部活の部長など、一定割合を女生徒にすることなどといった「的外れ」な対応をとる学校や教委が出てくる可能性も否定できません。
我が国の将来のあるべき姿を考えたとき、女性が今以上に活躍する社会の実現は欠かせません。そうした未来像を前提とした学校教育はどうあるべきかという検討を始めておくべきだと思います。
「別の顔」8月5日
精神科医の香山リカ氏が、『「立派な親」のプレッシャー』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『診察室にやって来る不登校や家庭な暴力などの子どもで「親が先生」という場合がよくある』と書かれています。そして、そうしたとき、『(先生と呼ばれる親が)まわりから立派だと言われ、そう振る舞い続けているから、息子さんはあなたの弱いところを全部引き受けているんですよ』と心の中で呼びかけると述べていらっしゃいます。
香山氏は、『やさしい人にも意地悪な一面があったり、逆に悪人だと思われている人にも善良な部分があったりする。表には出ていない正反対の顔を心理学では「シャドウ」と呼ぶことがある。しかし、周囲から尊敬されている「先生」の場合、その「シャドウ」を出す機会はほとんどない。あるいは、そんな正反対の顔など一切ないようにいつも立派な顔を見せ続けなければならない』とも述べています。
その通りだと思います。香山氏は、子供の立場を思いやり、きちんとしてくれなどと子供にプレッシャーをかけないでほしいとしています。しかし私は、それ以前に「先生」に対して常に立派なふるまいを求める社会の常識自体を変えるべきではないかと思うのです。教員は常に立派であれという考え方は、我が国に根強い教師聖職論が根底にあると思うからです。
繰り返し述べてきましたが、私は、教員専門職論の立場です。専門職という意味は、熟練の大工や練達のすし職人、旋盤一つで機械では作れない曲面を作り上げる町工場の従業員などをイメージしています。専門以外の事柄については、平均でよいのです。多少酒癖が悪かったり、パチンコと競馬に熱中していても、それが家庭を壊すほどでなければよいのです。その代わり、専門とする分野については、言葉では表すことが出来ない「暗黙知」をもち、その分野の「非専門家」とははっきりと違う経験と技量を有する者でなければならないのです。
このように書くと、小学校の教員よりもいい大学を出ている人はたくさんいる、というような批判が予想されます。それこそ、教員が何の専門家であるかを誤解している考え方なのです。教員は知識の専門家ではなく、教えることの専門家だということを理解していないのです。
もちろん、実際には、授業もうまくできない教員もいます。そんな彼らを見ていると、とても専門家などという言葉を口にはできない思いがします。しかし、あくまでも望ましいのは、教員に対して専門的な指導力を求め、その面では厳しい評価を行いながらも、私的な部分に過剰な負荷を与えないというあり方であると思うのです。教員が厳しく自己研さんに努めてこそ私の主張も力をもつということです。
「自省を込めて」8月2日
岐阜大准教授の田中伸氏が、『思考育む社会科教材に』という表題でコラムを書かれていました。田中氏はその中で、『知識と暗記が中心の社会科教育を変革するすべとしてスポーツは有効な題材だ』と述べていらっしゃいます。社会科が知識と暗記中心という指摘には納得できませんし、そもそも社会科教育の実相が小中で大きく異なっていることをご存じではないのでは、との疑いを捨てきれません。ちなみに、田中氏のご専門は、社会科教育学だそうですので、そんなはずはないのですが。
しかし、その点への不満はともかく、スポーツを社会科の教材にという提言はとても興味のあるものです。私自身、社会科の指導主事として、都の社会科指導主事会の役員を務めているときにも、都教委で研究員の指導をしているときにも、スポーツを教材にした研究を目にしたことはありませんでした。単に私が不勉強なだけかもしれませんが、ポピュラーな教材でないことだけは確かだと思います。
田中氏はスポーツを教材とした授業としての例示も行っています。『スポーツを産業として捉え、サッカー選手が海外のクラブに移った時、移籍金がいくら動き、衛星放送の契約者がどれくらい増えて、スポンサーのお金がどう流れるかを考える』『サッカーをとしたナショナリズムの喚起を分析することも可能だ』などです。
とても面白いです。スポーツの種類は多様です。サッカーのような国際的なものと相撲のようにほとんど我が国でしか行われていないものというような違いもありますし、女性のスポーツにおけるユニフォームの問題など宗教や文化の違いを浮き彫りにする点に着目することも可能です。つまり、スポーツは教材開発の宝庫、未開の新大陸といえそうです。なんだかワクワクしてしまいます。「教材開発屋」の血が騒ぐ感じがします。
しかし、注意しなければならないことがあります。まず、学習指導要領の内容に落とし込むこと、特別な教員の特別な実践ではなく、誰でもどこの学校でも実践可能になるように、年間計画に無理がないような指導時間におさめた実践を行うことです。
私自身未熟ではありましたが、様々な「ネタ」を教材化し、内心得意になっていた時期がありました。研究仲間の中にもユニークな視点で教材開発をした者がいました。しかし、その多くが、通常その単元で費やされる授業時間数を大幅に超え、他の単元を少しずつ削って帳尻を合わせたような実践でした。だから、優れた実践でも、一般的な取り組みとして広がっていかなかったケースが多いのです。
田中氏とその研究グループの実践に大いに期待したいものです。
「どうやら一安心」8月1日
『「恨みなかった」容疑の高1供述』という見出しの記事が掲載されました。佐世保市の同級生殺害事件についての続報です。私はこのショッキングな事件について、今までこのブログで取り上げては来ませんでした。それは、今回の事件をメディアがどのように報じるか見極めたいという思いからでした。
記事では、容疑者は、『被害者の女子生徒について「仲の良い友だちだった」と話している』『恨みやトラブルはまったくなかった』と容疑者と被害者の関係を述べています。また、弁護人の『「正確な報道」を求める要望書』の内容も紹介され、そこでは容疑者と父親の関係についての事柄が列挙されています。つまり、多くのメディアは、家庭における状況や容疑者個人の精神状態が事件の主たる原因であり、学校の対応や教員の指導上の問題などが原因ではないという立場をとっているということです。
今回の事件についての報道でも、当初は10年前に同市で起きた小6女児の同級生殺害事件と結びつけ、同市が取り組んできた「命の教育」に問題がある、長崎県、佐世保市の学校に問題があるというスタンスの報道が見られました。その時点で私は、一部の特殊な事例を拡大解釈し、組織的制度的な問題かのようにイメージさせるというメディアの悪癖がまた見られるのかと危惧していたのです。
確かに、事件直後に報じられた同市の「命の教育」の様子は、失笑ものでした。体育館で子供が「決められた生命尊重をうたう台詞」を大声で発表する光景は、あまりにも形式的で、悲しくなるほどでした。しかし、そうだから今回の事件が起きたのではないのです。全国に、小中高に通う子供は1000万人弱います。そうした中で、女児(生徒)が同級生を殺害するという事件は、10年間で2件だけという特殊な例なのです。殺害して、隠蔽もくてきでもなくクビと手首を切断し腹を切り開くという猟奇性は、成人の含め年に1件発生するかどうかという特殊犯罪なのです。
そして、容疑者は3日間しか高校に登校していないことも明らかにされています。これで、学校や教員の対応が原因とされたのでは、あまりにも不当な批判です。今回、そうした批判が影を潜めているのは、我が国の学校教育を巡る議論がやっと正常化してきた証だと思います。
もちろん、佐世保市や市内の学校においては、「命の教育」を再検討することは必要だということも指摘しておきたいと思います。
「普通の反応」8月1日
『窃盗摘発 落ち込む』という見出しの記事が掲載されました。記事は、平成26年度版警察白書によると、『「治安のバロメーター」とされる窃盗事件の摘発件数が大きく落ち込んでいる』ことを取り上げています。そして、その理由として、『裁判員制度導入以降、法廷で客観証拠が重視されるようになったことに伴い、裏付け捜査の項目が増えて余罪の追及に手が回らなくなっている』をあげています。さらに、対策として『一層の捜査ツール(会話傍受、仮装身分捜査など)の必要性』について言及しています。
この問題が、今後どのような展開を見せるかは分かりませんが、注目していきたいと思います。それは、学校教育に関する施策を考える際のひな型になると考えるからです。「窃盗摘発件数の低下」という問題は、社会の変化によりある組織や制度に新たな課題が課せられる、その課題に対応するために新たな負担が生じ、そのしわ寄せが成果の低下という形で表れ、その対策が問われている、という図式に整理することができます。そして、警察という組織への不信感もあり、新たな捜査ツールを与えることに懐疑的な一定の世論があるのです。そうした世論は、警察がもっと努力すればよいと、個々の警察官のより一層の頑張りを求めるという方向に働くことが予想されるのです。
これは、学校教育を取り巻く状況と見事に対比しています。学校教育にも次々に新たな課題が課せられています。そして、学校や教員に対する不信感、低評価というムードがあります。蛇足ですが、我が国の警察が世界に誇る治安の良さという実績を上げていること、学校教育がOECD中非常に低い教育予算にもかかわらず高い学力を維持していること、というように現時点で、他国との比較で見れば「頑張っている」ということも共通しています。さらに、ゼロトレランスや留年制、義務教育における停学といった「ムチ」にあたる手段の導入に対し、識者や世論が否定的であるという最大の共通点もあります。
ですから、今後の警察改革において、警察組織に新たな武器を与える「新たな捜査ツール」が認められなければ、学校教育においても同様の結果が予想され、個々の教員に「もっと頑張れ」という発想ですべての改革が進められる可能性が高いと考えるのです。そしてそうした改革は失敗します。失敗しても、「教員の自覚が足りない」「教員の能力不足」というように責任転嫁されることになるでしょう。そうならないためにも、新たな課題を付加するときには、その分何らかの補償措置が必要だという意識を定着させていく必要があると思います。