創価学会・公明党が日本を亡ぼす

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サヨナラ.私の池田大作-2

2016-10-11 07:49:23 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(10P)---(以下、本文)-------

1.創価学会・池田大作との決別    小川 洋美
     善福寺信徒
     昭和十九年一月一日満州国奉天生まれ
     福岡県立福岡中央高校卒
     女子部福岡総合本部長
     婦人部副本部長、九州文化会館庶務部
     現在、財団職員

◆真言の祈祷師だつた祖母の罰と私の入信
 私の祖母は、真言宗の祈祷師でした。佐賀県の基山にある真言宗の修験場で荒行に励み、不動明王が乗り移るようになりました。
  終戦後の先行き真っ暗な時代に、生活のあらゆる悩みを抱えた人々の問題を解決できる場として、多い時は四、五百名の信者が行列をなして押しかけていました。病気、人探し、失せものと、良く当たる行者だと口コミで評判になり、信者は増えるばかりでした。
  私は小さい頃祖母のもとへ頻繁に預けられていました。部屋のあちこちに祭壇が設けられ、祖母が不動明王にむかうと、今までの優しかった顔が不動明王そっくりな形相に変わるのです。そこには、まったく祖母では無い人がいたのです。でも子供心にも、それを口に出すことが憚られて、「こわい! お家へ帰りたい」と泣き続けるだけでした。
 預けられることが無くなり、私が小学校に入学したころ、祖母が亡くなりました。一緒のふとんに寝ていた妹が目を覚ますと死んでいたそうです。五ニ歳の若さでした。臨終の相が真っ黒で、あまりに酷い顔なので親族にも会わせられず、誰も見た人はいなかったとのことでした。
「あんなに沢山の入助けをしたのに、なんであんな酷い死にかたをしたのか分からない。宗教はもうこりごり! さわらぬ神にたたりなし!」と、母はすごい宗教アレルギ-になってしまいました。
 真言宗の害毒は本人だけに終わるものではありません。折伏の現場では「真言宗は家の中心である男が倒れる」と言われていましたが、実家の岩本家も長男は引き上げのときに亡くなり、妹たちの亭主も離別、癌、事故死など、一家の大黒柱がたおれ苦労を一手に背負っています。私は真言宗を過去の宗教だと思っていません。私の体験から言えば、今もなお害毒を流しつづけている悪しき宗教だ、とおもいます。
 父が友人の折伏で創価学会に入ったのは、昭和三十一年七月のことです。
 母や私が、猛反対したのを覚えています。それでも父は、淡々と謗法払いをして、みかん箱に紙を張り仏壇にして、入仏式をしたものです。「まあ見ていてくれ。一年間やってみて結果が何も無かったらやめればいいのだから」と。
 一年後の七月、家族全員が立正寺で御受戒をうけ、日蓮正宗の信徒になりました。あんなに反対していた母も、父の受けた数々の罰と功徳の姿に感じたのだとおもいます。
 父は戸田城聖会長が大好きで、心酔していました。戸田先生の真似をして黒ぶちの丸メガネに鼻の下にはちょび髭を蓄え「どうだ、似合うだろう」といささか得意げでした。戸田先生の言われた月一世帯の折伏と勤行唱題を、真面目に実践していました。生命保険の仕事をしていましたが、周りの人を相手かまわず折伏して、博多で大手の水産会社の専務を入信させるなど頑張っていました。戸田先生が香椎球場に来られた時には、家族そろって参加したことを思い出します。

◆ニセ折伏に驚いた区長時代、やがて女子部隊長に
 私は高校三年の頃から会合に参加するようになりました。卒業時のことですが、就職試験の提出書類に宗教の欄があり日蓮正宗創価学会、と記入し続け六社不採用。やっと採用された会社が、不採用の会社より給与待遇面で全てに勝っていたのです。信心の確信を少しばかり感じた私は、仕事が終わるとまつすぐ学会活動へ向かう毎日が始まりました。一年を過ぎた昭和三十八年には、女子部区長に任命されました。
  昭和三十九年に入ると我が地区の折伏成果もすごい結果が出るようになりました。しかし、女子部に部員名簿として渡される人の大半が住所にすでに住んでいなかったり、勤め先で話も出来ない状態だったり、店を移ってしまい次の勤務先に訪ねて行くと、御本尊様はどうしたのかも分からないという始末です。
 本人が納得しないまま、御本尊さまを持たせたり、願主を偽って学会幹部が御受戒をうける替え玉御受戒ですから、とうぜん御本尊送りは出来ていません。班長や組長の家庭訪問に行くと仏壇には何体もの御本尊さまが立て懸けられたりしています。ときには御本尊が捨てられていたとの報告があったりすることもありました。
 裏の事情はこうだったのです。地区部長が経営している喫茶店に男子部員がいて、客と仲良くなったら裏の拠点に連れてきて言葉たくみにお寺に連れていくのです。折伏せずに、御授戒させるのですから、すぐ返却してきます。御本尊送りはメチヤクチャです。地区幹部がこれを推奨しているのです。
「こんなことをやっていては、本当の折伏、ひいては広宣流布の戦いにはならないのではないですか」と地区部長に抗議したところ「皆がやる気になって頑張っているのに、足を引っ張るようなことを言うのは止めてくれないか」と一喝されました。
 悩んでいる私の様子に気づいた部隊長が、田中美智子九州女子部長のところに連れていってくれました。九州本部は善処を約束してくれましたが、改まる風はありませんでした。
 当時は、折伏日本一は聖教新聞に華々しく取り上げられた時代です。同じ地区の隊長が、部隊長になって華々しく全国制覇を成し遂げたのです。私は前歴を知っていますから「いい加減な御本尊送りをしているのではないか」と内心心配していました。この心配は当たっていました。
 やがて九州男子部長まで登りつめますがニセの本尊送りをした罰は厳しく、胆のう癌で亡くなったと聞きました。 恐ろしいことにあのとき一緒に闘った地区幹部は全員若くして癌で亡くなりました。
 御本尊ご不敬は最大の謗法です。その罪はいかに恐ろしいか。そしてその謗法を止められなかった罰を、私は難治がん第一位と言われる肺がん患者として受けることになります。
 昭和四十一年、八月の夏季講習会で、私は女子部二〇四六部隊の部隊長に任命されました。授与された部隊旗のデザインは従来の日蓮正宗の鶴丸から、濃い赤紫の地に鳳凰に変わっていました。部隊旗のもと大折伏戦を展開しました。
 昭和四十二年は初めての衆議院選挙です。息をつく暇もありません。私たち大幹部は全員総ブロック担当がきめられました。担当地域から票数を叩き出さねばなりません。全九州のF活動の甲斐あって福岡一区で田中昭ニ候補の当選を果たしました。昭和四十三年福岡第三本部長に任命。六月参院選で全力投球。前回の五一〇万票から六六〇万票へ大勝利でしたが福岡地方区を落としてしまいました。

◆九州文化会館の本部職員として採用
 昭和四十四年十一月、新設された創価学会九州文化会館の受付職員として採用されました。初仕事は九州文化会館落成記念の為、やってくる池田会長を迎える諸準備でした。五階は池田会長専用スぺースです。それは豪華な設備でした。和室は総ひのき造りで応接間はふかふかのじゅうたんです。普段は鍵が掛けられていて誰も入れません。受付の私は、五階への立ち入りを許可されました。
 新築ビル特有の臭いを除去するため、会長室の空気を何度も入れ替えたり、床の間や床柱を空拭きしたり、浴室、台所の水まわりをその都度点検するなど徹底したものでした。
 忙しさの合間をぬって備品を調達に、庶務部長と買い物に出かけます。ひとつの茶碗を選ぶのに足がくたびれるほど見てまわりました。「何でも最高の品をご用意しなくてはだめなのよ。でもどんなにいいものを用意しても、池田先生に使って頂けないとそれは失敗なのだからね」と先生をお迎えする基本を叩きこまれました。
 当日私は九州文化の受付で先生の来館を待っていました。先生の車は、いったん玄関に入ったものの、そのまま裏口に回りました。幹部一同右往左往して先生を裏口、つまり一般会員の入り口からお迎えしました。玄関にいた私は先生の声を背中から聞き、緊張してエレべ夕-に案内しました。送迎ひとつで戦場のようなそうぞうしさでした。
「運動不足の先生にアーチェリーをおすすめしたらどうでしょう?」という私の提案は、直ちに採用され九州文化の屋上に臨時のア-チェリーの射的場がこしらえられました。先輩から「池田先生は大変喜ばれ、月を振り返りながら『弓道(求道)に士気を燃やせし神無月』の一句を詠んで下さいました」と話しがあり、女子職員一同手を打って喜び
あいました。先生が喜んでくれたといえば、私たちも涙を流して喜ぶ。それが信心だと教えられ、私たちはそのように育ちました。以後池田が地方会館に行く時にはアーチエリーがしばらくの間、流行ったのを誇らしく聞いたことを覚えています。
       ---------(16P)-------つづく--

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