『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
2013/7/3 人間の科学新社
------(16P)---(以下、本文)-------
<3の2>
◆第一庶務と夜夜食(ややしょく)
第一庶務が事務局に着任すると、全てを仕切り、池田会長の身の回りは第一庶務の美人職員いわゆる第一マルジョが担当につきます。庶務部はただちに「第一庶務」に組み込まれることを初めて知りました。先生がいるところが学会本部なのだと言われた意味が実感として伝わってきました。
当時の第一庶務室長は中西治雄総務でした。厳格で清潔な人柄でした。後に一億七〇〇〇万円の「金庫捨て去り事件」で有名になりましたが、とてもそういう人には見えませんでした。中西さんは池田大作の本尊模刻事件に手を貸したことを恥じ、今は法華講員となり寺院に参詣していると聞きとても嬉しく思います。
私たちは裏方専任ですから、この間、九州文化に泊まり込みです。部屋がないので椅子・机の上か床の上で寝ました。いつ先生から「〇〇はいるか?」と言われるかもしれません。最高幹部も寝ずに控えています。第一庶務のために午後十一時ごろ夜食を、午前二時頃夜夜食(ややしよく)をだします。「二回夜食を食べるのだ。これじや太るわ」私は声なく笑ったことを覚えています。
夜も更けて、五階の池田先生の寝室の横にある第一マルジョの室から「先生がお休みになられました」と電話がはいります。第一庶務室長は「本日は閉局」とつげます。それをうけて第一警備、第一車両、運営本部と私たちはただちに待機している、それぞれの地元役員のもとに行き、先生の翌日の行事の最後の打ち合わせをします。明け方になることも稀ではありません。これが毎日続くのです。
膨大なお金と時間を費やして池田大作一人の為に尽くすことは仏法の本義から外れています。しかし、その頃は苦しくともお仕えすることがむしろ誇らしくおもえていたのです。
やがて、お迎えイべントは大阪と九州がフィーバ-熱をあおり全国各地へ波及していきました。
◆七五〇万世帯の達成の年、女子部総合本部長に
昭和四十五年一月二十八日、七五五万七七七七世帯を達成しました。お祝いのはずの第三三回本部総会で、池田大作は言論出版弾圧事件を公式に謝罪しました。私は心底から驚きました。広宣流布は「妙法の大地に展開する大文化運動」へと路線を転換しました。その実現のため、新青年部長に福島源次郎、女子部長に吉良香世子が任命されました。色々説明されましたが、私にはよくわけがわかりません。その私が八月二十日から始まった第二五回女子部夏季講習会の席で女子部福岡総合本部長に任命されました。
福岡総合本部は男子部一万一三八三名、女子部九九五八名。九州では最大の総合本部で八月の大B (ブロック)座談会結集報告では、女子部五五六五名参加とあります。
手元のメモによると二〇頁の表のようになります(記載省略)。
入信決定が少ないのは折伏が世間の学会アレルギ-を引き起こしたのだから、学生部以外の折伏を控えよと池田先生の指示があったからです。
◆「言論出版弾圧事件」で折伏中止
言論出版弾圧事件で折伏が中止になりました。これまで選挙は法戦と位置づけられ、信仰のエネルギーと選挙のエネルギ-が掛け算の力を発揮して「広宣流布」の大進軍がありました。「国立戒壇論」が否定されれば折伏と選挙に力が発揮できません。
当時九州総合長であつた福島源次郎副会長に聞くと「学会に対するアレルギーを弱めるためには、いったん折伏を止めるしかない。手持ちの七五〇万世帯だけで天下を取ることを考えなければいけない、と先生がおっしゃつていた」といわれました。私は別の機会に、「それでいいのでしょうか?」と聞いたことがあります。「僕もある時、『先生は学会をどうされるおつもりなのですか?』と尋ねると『福島、良いことを聞いた。受け継いだ以上創価学会を煮て食おうと焼いて食おうと私の勝手なのだ』とおっしゃった。先生の深いご構想があるのだと思う。今は疑わずついていくことが大切だ」と話してくれました。この発言から思えば、池田は戸田先生のことを利用するために仕えて、学会を乗っ取つたのだと思いました。
戸田先生の長男喬久さんが平成二十五年一月四日亡くなりました。葬儀の導師は常在寺の御僧侶が務められました。戸田城聖の妻、幾さんの葬儀も二〇〇〇年、常在寺でおこなわれています。喬久氏の妻は週刊新潮の取材に「主人は創価学会について沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申し上げることはありません。とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもないので、主人は自分の道を歩みました。創価学会と戸田家は無関係です」(「週刊新潮」一三・二・一四号)と答えました。池田大作の戸田城聖利用は戸田家から手ひどい拒否をうけています。
平成二年に福島さんより「七五〇万世帯はウソだ。言論出版妨害事件以後世帯を整理して実数統監をしたところ二四〇万世帯だった」という話を聞きました。すると五〇〇万の御本尊様が御不敬か行方不明ということになります。この罰は当事者と最高責任者池田大作にはねかえらずにはいられません。
◆九州文化会館から学会本部へ
昭和五十三年、次期会長レースのトップを走るとマスコミ等から目されていた福島源次郎副会長・九州総合長が失脚します。宗門問題で池田先生の立場を悪くしたからだと聞きました。また会長の座を狙ったからだとも聞きました。どちらの理由も嘘でしたが、その煽りを受けて九州青年部長であった私の主人は東京の学会本部広報室へ転勤となりました。
学会本部に着任して北條理事長に報告に行ったところ「君にこちらに来てもらったのは、全く本部の都合であって君のせいではない。たいへんな思いをさせて悪かった。急な引っ越しをして、お金もかかったでしよう」と終始笑顔。「意外だった」と帰宅した主人。石をもて追われるような雰囲気の中での転勤でしたから、私もほっとしました。それにしても「秋谷副会長ってなんだか陰険」と言うと「九州文化に陣取って福島さんの罪状をつくりあげる秋谷さんの辣腕は、江藤新平をさらし首にした大久保利通を思わせるものだったよ」と真相をポロリ。こうして主人の学会本部勤務がはじまりました。
主人の組織役職は全国主任部長になりました。担当は長崎と第四東京です。第四東京の組織任務は北区、板橋区が東京九区の、豊島区練馬区が東京五区の衆院選の当選責任を負います。選挙になると主人は中上副男子部長と共に東京九区の選挙実務を取り仕切ります。負ければ総司令ではなく二人が責めをとらされます。
私の板橋区での学会活動は、会合と選挙、聖教新聞啓蒙等という平凡なものでした。婦人部幹部として自分が納得出来ないことを、会員に伝える苦しさから腰を悪くしてしまいました。登山会に参加して、大御本尊様に御開扉いただくのが唯一の楽しみでした。
ある日板橋文化会館に来た池田名誉会長の姿を見て驚きました。かっての輝きは全く無く、普通の小父さんがしゃべっているように聞こえました。帰ってきた主人に話すと「君がそう感じたのなら、それでいいよ」といわれました。池田から可愛がられ、自らも心酔していたはずの主人がそう言ったのはちよっと驚きでした。
その頃「月刊ペン事件裁判」を中心に池田大作のスキャンダル情報がマスコミに筒抜けとなり、与野党から池田大作は揺さぶりをかけられていました。原島嵩教学部長や元創価学会顧問弁護士山崎正友が情報源でしたから、学会本部は防戦一方でした。
---------(23P)-------つづく--
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます