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創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

さらば池田大作-18

2017-08-31 08:15:18 | Weblog

さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡  野田峯雄 (2016/11・第三書館)
 ------(108P)---(以下、本文)-------

「かね」との結婚
 「お世辞じょうずで、えらくはしっこいあんちやん」の跳躍台がもうひとつある。1952年5月の、住友銀行支店に勤務していた白木かねとの結婚だ。かねは1932年2月生まれ。当時20歳。青年・女子部の班長をつとめていた。大作・かねの結婚の媒酌人は学会理事で蒲田支部長の小泉隆がつとめた。
 ところで、かねは後に「香峯子」と名乗る。なぜ改名したのか。大作が結婚の翌年(53年11月)に父・子之吉(ねのきち)と母・一(いち)から与えられた名前「太作」(たいさく)を「大作」(だいさく)へ変えた。そんなみかけをひどく気にする太作(たいさく)のアドバイスなのか強請なのか、しだいに「香峯子」というすこぶるかっこうのいい偽名を使い出したのだった。けれど公文書には「かね」と記されている。
 太作がかねに接近した理由に関心を引かれる。かねは美人ではない。スタイルもよくない。きれるタイプでもなさそう…。しかし、太作にとって、かねとの結婚はすばらしいものになった。
 ちゃきちゃきの創価家族「白木」(当時の聖教新聞が「学会屈指の強信の一族」と表現)をバックにすることができたからだ。
 かねの父の薰次(しげじ)は東京日本橋小網町の砂糖取引会社井筒商会の常務取締役。学会内事業家のなかの有力者(高額寄付者のひとり)で、とりわけ組織トップの戸田城聖と商品投機などを通じ“かなり親密”だったと推定される(太作・かねの結婚当時の学会内役職=東京蒲田支部矢口地区部長。54年に理事就任)。
  母の静(しず)も戦前からの熱心な学会員。太作・かねの結婚当時の学会内役職は蒲田支部の婦人部長だった。でも、本部婦人部常任委員などの肩書きを持つようになり、2000年8月、95歳で亡くなったときには創価学会が「名誉全国婦人部長」の称号を贈っている。
 また、かねの従兄弟(薰次の甥)の白木義一郎は名前の知られたプロ野球投手、しかも熱狂的な学会員。戸田時代の56年6月参院選に当選し、以降、同院議員を5期つとめることになる。
 つまり、「お世辞じょうずで、はしっこい、とはいえしっかりとした支えのないあんちやん」が、この結婚を契機に“いっぱしの創価学会内権威”を気取ることができるようになったのだ。

ごっそり奪る
 時がめぐり“奇怪なエレべーター”から半世紀後。戸田城聖から「万事を託された」と言う池田大作が今度は「万事を託す」側にまわってしまった。
 死の案内人の足音が聞こえ始めたとき池田大作の脳裏にあの光景がよぎったかどうか。
 58月4月2日、戸田城聖が日大病院で亡くなった。
  葬儀が終わった。すると、あまり間をおかず東京都港区芝白金台町の故人の家にトラックが2台やってきた。彼らは、戸田城聖の妻の幾(いく)や息子の喬久がア然とたたずむのを尻目に戸田家のすべての部屋をかきまわし、有価証券、貴金属類、絵画、重要書類、書籍、日常的に使用していた扇子のたぐいまで(数億円相当)を持ち去った。「家は力ラッポ状態になりました」(戸田家関係者)。あまつさえ、彼らは戸田城聖葬儀の香典4000万円余りもフトコ口に入れてしまったと指摘される。これらはすべて池田大作たちのしわざだった。
 池田大作は「学会のものを学会へ持ち帰って何が悪いんですか」とうそぶいた。
 彼らの持ち去つたもののなかに一振りの日本刀があった。池田大作はそれを、後日、創価学会の特大の金製印などといっしょに「後継者」へ渡す“神器”にした。

なぜこんな暑い日に死ぬんだ!
 さらに、池田大作は死の案内人の足音を聞きながらこんな光景を思い出したかどうか。
 81年の夏は例年になく暑かった。7月18日に北条浩第四代会長が心筋梗塞で亡くなった。まだ58歳。その日は最高気温が摂氏34度近くにのぼった。
「なぜこんな暑い日に死ぬんだ!」
  葬儀に顔を出した池田大作はアセをぬぐいながら不満をぶちまけた。むっくりと太った彼には北条浩の突然死も強い日差しも、そしてアセも“同じようにやっかいなこと”だったのだ。
 北条浩は54年に池田参謀室長の部下(主任参謀)になる。それ以来、池田によくつくしてきた。
 79年。池田大作は対宗門問題で責任をとり第三代会長を辞めざるをえなくなり北条を第四代会長に据えた。北条四代目会長のおもな役割は池田名誉会長の言動の尻拭いだった。彼はこれを黙々とこなした。その北条浩に池田大作はどんな返礼をしたのか。

 藤原行正著『池田大作の素顔』が次のように語る。
①通夜と葬儀のときに集まったI億5000万円の香典、
②東京の戸田記念講堂で行なった創価学会本部葬、並行して全国各地の会館で行なつた葬儀のときに集まつた計約20億円の香典のほとんど、
 ようするに①と②の総額約20億円を、池田大作たちは遺族に渡さず学会本部の金庫へ入れてしまった。
 しかも、池田大作(創価学会)は北条遺族に対して東京都新宿区信濃町の聖教新聞本社前の和風2階建ての家から「すぐに出ていきなさい」と命じた。
 遺族はくやし涙をこらえて郊外の狭い部屋へ移った。

復活?
 いったいだれの思いつきなのか。池田大作が倒れた直後の10年6月3日の本部幹部会の壇上に池田博正副理事長が立ち、父・大作の書(しょ)なるものを2点、高々とかざした。「大山」「大桜」と記されている。博正はこう話した。
「昭和54年(79年)5月3日、名誉会長は“第三代会長辞任”の本部総会に出席した。場所は、創価大学の中央体育館である。終了後、渡り廊下を歩く名誉会長のもとへ、幼子を抱えた婦人部が『先生!』『先生!』と大きな声をあげながら、駆け寄つてきた。『ありがとう! お元気で!』
 大きく手を振って応える名誉会長。その胸には“こういう尊い方々を、いったい、だれが守っていくのか”との叫びが、こだましていた。その直後に、創大でしたためたのが、この2つの書である」
 博正はこう続けた。
「このあと、名誉会長は、学会本部には戻らず、そのまま、神奈川文化会館に向かった」
「同志愛がほとばしる揮毫から、ただ一人、反転攻勢の戦いを開始して30星霜」
「大山=『嵐に不動の信心たれ』。大桜=『功徳満開の人生たれ』。この精神を生命に刻み、我らは師弟完勝の最高峰へ挑みゆく!」
 池田大作が東京都八王子市の創価大学で涙あふれるお別れをして向かった創価学会神奈川文化会館(戸田平和記念館)は横浜市中区山下町にある。池田はなぜ学会本部にも自宅にも戻らなかったのか。
 同会館の周囲には高級ホテルや神奈川県民ホールなどが並び、ちょっと南へ歩くと横浜中華街。
 正面のきれいな並木道の向こう(北西)には「赤い靴はいてた女の子の像」のたたずむ山下公園が左右に広がり、同公園のすぐ先は海(横浜港)だ。 埠頭に日本郵船氷川丸が停泊している。ときどき汽笛が響き、力モメが飛び、潮騒が聞こえる。とてもすばらしい。
 池田大作は側近に囲まれて過ごす。妻のかねも来た。

  読売新聞(79年6月4日付)を開く。同紙調査記事「(日本人が)尊敬する人物20人」に目が。
 上から吉田茂、野ロ英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇、池田大作。6位。生存者だと昭和天皇に次ぐ2位だ。…「(私は)宗教界の王者」、「私の胸中は、一段と深い決意を刻み、高鳴っていた」
(『随筆新・人間革命』)。かくして私は“悲痛きわまりない闘い”を超えた。
 復活したのだ。
 10年6月3日の本部幹部会の壇上に立ち「父」を高々とかかげた博正はこの安っぽい復活の再演をねらったのか。いや、彼には、そのようなハツタリを展開できそうにない。としたら、原田稔や正木正明たちに背中を押されて行なった哀しいパフォーマンスだったのか。
 いや、ひょっとしたら、博正がひとりで考え出した弔辞のようなものだったのだろうか。
 いずれにしろ、池田大作復活の再演はもはや不可能となり、ポスト池田大作をめぐるいがみ合いと荒廃が進行していく。
       ---------(114P)-------つづく--

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