『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
2013/7/3 人間の科学新社
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◆やられっぱなしの時は、より大きな権力と連携すべき
これは創価学会の対外戦略に重大な欠陥がある。権力からやられっぱなしの時は、より大きな権力と連携すべきだろう。そのためにはまず頂上作戦として、池田・レ-ガン会談を実現しょう。
主人は北風清松副会長、中上政信副男子部長等と計り、一九八二年訪米団を結成し極秘でアメリカに渡りました。民主党院内総務アラン・クランストン上院議員、オニ-ル下院議長、次期大統領候補モンデ-ル前副大統領、等と会見。池田・レ-ガン会談の確約がとれました。なかでも共和党下院議員デビット・ボーエンは北風副会長に「その前にまずレーガン大統領に会いませんか、いまからすぐセットします」と電話でホワイトハウスにスケジュール確認をしょうとしたそうです。「池田先生の前に自分が会うわけにはいかない」と北風副会長は律義に辞退したそうです。
大きな成果をあげて訪米団は帰国しました。
主人は「池田・レーガン会談の確約を取り付けたのは大手柄だが、これは同時に秋谷執行部批判に通ずる。池田先生に直接報告しない限り秋谷会長に対する命令違反の力ドで闇に葬られるだろう」と考えていたようです。やがて「池田先生が御待ちになっています」
と連絡があり学会本部におもむいた時、北風副会長は「これが学会本部の見納めになるかもしれないな」と主人に語ったそうです。二人の前に現れたのは池田大作ではなく秋谷会長でした。主人達の冒険は失敗したのです。あれから三〇数年が経ちますが、いまだ池田大作とアメリカ大統領との会見はありません。
主人は訪米前に辞表を出しておりました。引きとめ工作がありましたが、潔しとせず辞職。私と娘達は福岡県朝倉郡へ、主人は東京という苦しい二重生活が始まりました。
◆『蘇生への選択』と私
そんな日が七年も続いたころでしょうか、平成元年夏、突然福島源次郎元副会長から「小川君はどこにいますか」と電話がありました。連絡はすぐ付き主人は再び福島さんとタツグをくむことになりました。そこから『蘇生への選択』の発刊と“池田の邪義を正す勉強会”運動が始まりました。
福岡でも平成二年に福島さんを迎えて勉強会が行われました。私は運営に、高一の峰湖は受付と「蘇生への選択」販売、小六の伸枝は幼い声でカンパの呼びかけ。「一家総動員法の発令だね」と笑ったものでした。我が家に泊まった福島さんに娘達が甘木川から摘んできたつくしを煮ものにして出すと「おいしいね、こういうものが最高のごちそうだよ」と喜んでくれました。とても疲れているように見えましたが、とても安心しているようにも見えました。その姿をみて邪義に目覚めることと、池田大作の引力圏から脱出することは別なんだ。よほどの大信カを出さないと邪師からの決別は無理なんだと思いました。
最初『蘇生への選択』を読むことは自分との闘いでした。高校時代から全てを賭けて信じてきたことが否定されるようで頁をめくるたびに怒りが沸き起こりました。あれだけ学会に失望していたのに、池田大作をまだ信じていたことを思いしらされ、これではいけないと「余念のない唱題」にとりくみました。
口で「一心欲見仏」と誦していても、心は大聖人様を恋慕していただろうか? 本因妙の修行ではなく祈祷行にはしっていたのではないか? ある日私は御本尊様の前に池田大作の姿を思い浮かべて唱題をしていたことに気づきました。学会幹部なら皆おぼえがある祈り方でしょう。
池田大作はことあるごとに「私を守れ、私のことを祈れ」と言い続け、私たちも「池田先生と共に」と祈ってきました。すると池田大作の顔や一緒に勤行する姿が浮かんできます。それが大間違いだったのです。
私は「此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゆしきひが事なり」(上野殿御返事)の信心をしていたことに気がつきました。
池田大作は信心の指導者ではなく、御本尊と私たちが境智冥合する仏道修行を邪魔する絶縁体だったのです。
池田大作という邪師を信じた罰現象は明白に出ていました。仲が悪い訳ではないのに一家離散、二重生活による貧乏、一番怖いのは、信心してきた結果がこの程度なのかという御本尊様に対する不信謗法でした。「ああ、私の信心は間違っていた!」そのことに気が付くとなんの未練もなく脱会通告書を出すことができました。
平成三年晴れて御開扉、日顕上人猊下のお目通りをいただくと、まるで呪縛がとれたように心も体も自由になつたように感じました。
◆「りんご台風」で屋根が吹っ飛ぶ
平成三年の秋、超大型台風が我が家をめがけてやってきました。台風は熊本城の百間塀と我が家の屋根を吹き飛ばしたあと東北へ向かい、りんご台風と呼ばれました。
御仏壇は二階の床の間にあり、台風が通り過ぎる間、娘たちとずつと唱題しておりました。やがてバリバリと屋根が破れ雨水が階段を川みたいに流れはじめました。もはやこれまでと御本尊様をお巻きして階下へ移動しました。大変な状態なのに、なぜか嬉しくて「これは罰なのだ。けれども仏さまは厳然といらっしゃると証明して下さったのだ」と思ったのです。怖さなど微塵も感じませんでした。
翌日二階に上がって驚きました。部屋は惨たんたるものでしたが、仏壇と、その前の畳だけは無傷だったのです。娘が屋根に登ってみたところ、そこの瓦だけは飛ばされずそのまま残つていました。
上野殿後家尼御返事に「すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。経に曰く『設ひ大火に入るとも火も焼くこと能はじ、若し大水に漂はされんに其の名号を称せば即ち浅き処を得ん』と」仰せの言葉がご金言となって胸に入ってきました。
罰即功徳との御金言通り、屋根が飛んだことで、翌年四月親子三人東京へ移転し、晴れて主人共々生活できるようになりました。
東京に移り住むと、学会幹部らのいやがらせはエスカレートし、尾行もこれ見よがしになりました。車は三日に一回はパンクさせられ、主人は暴漢に襲われることも度々。でも不思議なことに、ひるむということは全くと言つていいほどありませんでした。
平成二十一年、一〇年続いた自公連立政権が野に下りました。九月二十三曰、主人が主催する「自公壊滅戦勝祝賀会」が東京湾に浮かべた屋形船の上で、開催されました。公明党が惨敗して政権を下りたのは「政教分離を考える会」のビラの個別配布とデモ行進が大きな要因の一つだったと評価され、「自公壊滅戦勝祝賀会」には八〇数名のジャ-ナリストたちの参加をみて賑わいました。私も役員でお手伝いをしました。
意気楊々と帰宅した翌日、医師から胸部CT検査の写真を見せられ「画像診断による限り、肺がんと考えて間違いないでしょう。一センチくらいの初期がんなので手術と抗がん剤で治ります」と言われました。予期せぬ宣告で頭が混乱しました。
---------(28P)-------つづく--
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