創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作「権力者」の構造-7

2014-05-29 10:25:43 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=7>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
──────(79頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
◆創価教育学会弾圧事件の真相 
なお、池田はここで戦時中の弾圧が「気になり」、やめることまで考えたと明言し
ているが、彼はのちにそれを次のようにいいかえる。
「戦後戸田会長に会ったときも、この人は戦争に反対して二年間も、牢に入ってい
た、この人のいうことならば、わたしは信じてついていってもまちがいはない、と思
つたのです」(松本清張との対談、『文藝春秋」昭和四十三年二月号)
 この池田の追憶談が二つの嘘でなりたつていることは、指摘するまでもあるまい。
一つは池田の入信後の思念の偽りである。「やめるなら今のうちがよい」が、「信じ
てついていってもまちがいはない」と、まるで逆方向に変えられている。これによれ
ば、池田は戸田の反戦の経歴を知って、戸田をただちに師と決めるほどに、確固とし
た信念を持つ平和主義者だったわけだが、事実を前にすれば、偽造の歷史によってし
か己を高くしえない池田の姿がみじめに浮かび上がるばかりである。
もう一つは一番目の噓の前提となる、戸田が戦争に反対したという論述である。こ
れが事実と相違することも前に述ベたが、創価学会の戦時中の反戦活動という謬説は
かなり広く流布されており、またこの池田の対談の噓を真にうけて、池田論を書き進
める論者もかなりあった。
 戸田はすでに故人であって、その多少の誤伝は仕方ないとしても、池田がそれによ
って自己の辺幅を飾る権利はなに一つないはずである。
 ここで創価学会弾圧の経緯とその性格を今一度確かめてみよう。その結果、戸田が
戦争に反対していなかったなら、池田の二つの噓は二重の噓となり、妄想と等しいも
のになろう。
 昭和十五(一九四○〉年、政府は前年に成立した宗教団体法と新体制運動により、
宗教の統制と戦争目的への動員を進め、その一環として宗教教団の大同団結を強く促
し、日蓮正宗に対して日蓮宗との合同を求めた。これに関し、日蓮正宗は会議を催し
たが、その席で創価教育学会会長・牧口は、他宗派を邪宗として排撃する教義上の立
場を厳格に守ることを主張し、合同に強く反対した。
また政府は学校や家庭、職場に神棚を設け、皇大神宮の神札(大麻)を祀って拝む
ように強制した。これに対しても、狂信的なまでに日蓮正宗の教義を信じていた牧口
は、末法では護法の善神は天に在り、伊勢神宮には魔物しか住んでいない、神札の受
け入れは謗法の行為になると、拒否した。牧口や戸田を本山に呼びつけ、ともかく神
札を受けるように勧めていた日蓮正宗は、創価教育学会のこうした言動に、弾圧の危
険を感じ、同会会員の大石寺への参詣を禁止した。
 日蓮正宗の危惧は現実となって現れ、警察も創価教育学会をマークし、昭和十七年
五月には機関誌『価値創造』の廃刊を指示した。牧口はその廃刊の辞で、「国策にか
なうことを信ずるのであるが、廃刊になるのは、不認識の評価によるか」と不満をも
らしている。
 牧口は明治人らしく天皇を尊崇する者だったが、信仰上、神札を祀ることだけはで
きなかった。彼は創価教育学会が昭和十七年十二月三十一日に発行した『大善生活実
証録』(第五回総会報告)の中で、こう述べている。
「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖している。しかし解釈が異るのである。神
社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よ
くぞ国家の為に働いて下さった、有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はす
のであって、御利益をお与へ下さいといふ折願ではない。(略)天照大神に対し奉っ
ても同様て、心から感謝し奉るのである。独り天照大神ばかりにあらせられず、神武
以来御代々の天皇様にも、感謝し奉ってゐるのである。万世一系の御皇室は一元的で
あって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の
御稜威は現人神であらせられる、今上陛下に凝集されてゐるのである。(略)吾々国
民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。天照大神のお札をお祭りす
るとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であ
らせられる天皇に帰一奉ることによつて、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確
信するのである」
 牧口は詭弁によって神札を拒否しょうとしたが、当局は牧口の論理にだまされなか
った。昭和十八年一月ころから、当局の圧力はさらに加わり、同会の座談会に特高の
刑事が現れ、しばしば集会を禁止した。
 同年四月、日蓮正宗は結局、合併せずにすんだが、戦争の進展にともない、ヒステ
リックな様相を強めていた官憲側は、創価教育学会をそのままではすまさなかった。
六月、同会会員の陣野忠夫は近所の人を折伏しようとして、その人の子供が死んだ
のを罰だと決めつけた。怒ったその人が警察に訴えたので、警察は陣野らを捕え、は
げしく取り調べて同会の罪状をつくりあげた。
 戸田は当局の弾圧が身辺に及ぶのを恐れ、六月二十五日、創価教育学会各理事、各
支部長に宛て、理事長・戸田城外(城外は戸田のそのころの名)名で「通諜」を発する。
「時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員に於ては益々尽忠報国の念を強め、会員一
同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんこと
を切望す。依つて各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精
神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神、皇宗神武天皇肇国
以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべ
きことを強調指導すべきこと。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の
取り扱ひなき様充分注意すること」
 弾圧逃れのためのアリバイづくりが、この「通諜」の目的だったが、いずれにしろ、
創価教育学会が戦争に反対したのでも、軍部に反対したのでもなかつたことは、これ
により明らかである。
 戸田の作戦は成功しなかった。警察は陣野逮捕を突破口に、芋づる式に上層部へと
検挙の手を伸ばした。
 七月六日、牧口、戸田、矢島らが捕らえられ、また、その前後に他の会員も逮捕さ
れた。八月二十五日、牧口は巣鴨拘置所に移され、十一月二十日、治安維持法違反と
神社に対する不敬罪で、その予審請求を東京地裁に出された。
 その折りの検察調書は牧口の罪状に関し、次のように結論している。
「謗法の罪をまぬがれんが為には、皇大神宮の大麻を始め、家庭に奉祀する一切の神
符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに
至らしめ、以て神宮の尊厳を冒瀆し奉る所為をなしたる等、諸般の活動をなし、以て
に従事したるとともに神宮に対して不敬の行為をなしたるものなり」
 これだけが、治安維持法第七条「国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒瀆すべ
き事項を流布することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者
たる任務に従事したる者は無期又は四年以上の懲役に処し」、および神社に対する不
敬罪に相当する行為だったのである(池田諭『牧口常三郎』、村上重良『創価学会・
公明党』、および日隈、前掲書による)。
 戸田の罪状が牧口に準ずること、もちろんである。
 以上によって明らかなように牧口、戸田は侵略戦争に反対したのではない。彼らは
戦後にも行われた邪教排撃の教義により、神札を受けず、また燃やしたにすぎず、せ
いぜい戦争に勝つために、神道を奉じている政府の誤りを諫めるという立場を固執し
たにすぎなかった。
 戦争に反対し、日本の前途を憂えた宗教者は別にいた。神戸地裁、控訴院、大審院
と公判闘争を続けた法華宗の刈谷日淳、敗戦直前拷問死したその老信者,原真平、侵
略戦争だとして陸軍刑法違反で起訴された真宗大谷派の一住職など。また教義面から
の弾圧をうけた教団教派はさらに多く、ホーリネス系と無教会系のキリスト教などの
他、日蓮正宗の講においても、藤本秀之助の弾正会が弾圧され、藤本は獄死している。
 牧口の創価教育学会は、戦争に反対しなかったばかりか、その批判も教義面からに
のみとどめられていた。
なお論証をすすめるなら、たとえば、牧口は獄中で、一人だけ残った息子の洋三の
戦死を知らされたが、その嫁に、彼の絶筆となった次の返事をしたためている。
「……ビックリシタヨ。ガッカリモシタヨ。……病死ニアラズ、君国ノタメ ノ戦死ダ
ケ(だから)名誉トアキラメルコト。唯ダ冥福ヲ祈ル、信仰ガ一バン大切デスヨ。百
年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上
ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居
ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文ノ通リデス」(佐木秋夫、小口偉一
「創価学会」)
 君国のための戦死、名誉といった語に反戦の思想はなんらうかがえまい。もっとも
獄中の身で当然検閲が考慮されていただろうが、まるっきりの擬装とみるには、後半の
文章が生々しすぎていないだろうか。
 また創価教育学会設立の当時を知るあるジャーナリストは、入獄前の牧口の講話を
こう報告している。
「当時は太平洋戦争の初期で日本軍は南に北に連戦連勝(?)であった。
牧口会長の講話は、いつもこの点に触れ蒙古襲来のときの日蓮をひきあいに出して、
日本の戦勝は、みな御本尊の正統を受けつぐ日蓮正宗の信仰の力によるものであり、
日本は、やがて全世界を統一し、『王仏冥合』によって、日蓮正宗こそが世界のすべて
の中心となり、世界人類の救済者となる──というのが、要するに、その結論で
あった」(『赤旗』昭和四十五年二月十九日)
 さらに戸田自身、当時を回顧して次のように語っている。
「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、
当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会
長は勝つといっていた」(小口偉一『宗教と信仰の心理学』)
 勝ちたいとの願望は、決して戦争反対や絶対平和主義と相いれるものではあるまい。
 また池田自身でさえ、昭和三十二年時においては、「胸を打った」とかなり美化し
ているものの、それでも、戸田が軍部を攻撃した— 明らかに言いすぎだが—とい
うのみで、戦争に反対したとはいわなかった。
「私の胸を打ったのは、創価(教育)学会が、あの戦時中にまっ向から軍部と対抗し
て、天照大神では日本の国は救えないと、日蓮大聖人の仏法立正安国論、顕仏未来記
の予言、諫暁八幡抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生、
現会長先生始め二十何名の人々が牢獄へ行つたんです」(池田「私の初信当時」、『聖教
新聞」昭和三十二年十月十八日)
 池田による「戦争反対」の噓は、入信神話と同様、彼の利益のための噓であったが、
また一面ではそれとは異なり、会内部向けではなく、対外的な社会的正当性を得たい
と願うあまりの噓でもあった。

◆強信の契機─日本正学館入社
《二年目に『立正安国論』の講義を聞いてから、よし、よい勉強しようと考えるよう
になりました》
 日蓮が正嘉一年の大地震を契機に著し、立正安国の理想を述べ、世人が邪法を捨て
て信仰を改めれば、三界は仏国となり、十方は宝土となろうという『立正安国論』は、
会の教義に対して池田を積極的に構えさせたようである。
 もっとも池田『人間革命』三には、昭和二十三年九月、第七回法華経講義後の質問
会での戸田の回答─昭電疑獄にふれて、悪徳政治家は不良息子と同じだ、不良息子
を強折して更生させるように、一国のためにも広宣流布しかない、というが、強信へ
のきっかけとなったとしている。
 いずれにしろ、ある程度開けた社会的視野が彼を会活動に近づけたのであろうか。
その年八月、彼は大石寺での夏季講習会に初めて参加している。
 だが、池田はまだ、「この教団が発展すれば世の中が変り、やがて世直しが実現し、
日本の国もよくなる、と確信してますます布教に熱を入れることになる」(高木宏夫
『日本の新興宗教.一)という信者の段階には、達していなかった。彼は自分を養うに精
一杯であった。
 その年四月に、池田は蒲田工業会への勤務のかたわら、各種学校の一つである大世
学院(のちの富士短期大学、現.東京富士大学)政経科夜間部に入学している。同校教
務課によれば、その入学資格は旧制中学卒業となっていたが、敗戦後の混乱の尾を引
く当時のこととて厳密なものではなく、池田の入学も難なく許可したのだという。
 池田は、「よし、よい勉強しょう」とあるように、学校に対しても、創価学会に対
しても学ぶ態度にあり、その意味では自己に完結する教養主義にとどまっていた。社
会性ではなく、その秋内定した戸田経営の日本正学館への入社が、池田に戸田を、ひ
いては創価学会を身近に感じさせ、教義を勉強する気にしむけたのだと思われる。
 昭和二十三年は東宝争議など敗戦直後における労働争議件数のピークの年であり、
国民経済はまだ混迷のうちにあったばかりか、翌二十四年にはドッジ・ラインを強行
されて中小企業の破産や失業者の増大など、深刻な恐慌状態に陥る。
 そのような混乱と経済的動揺の中での日本正学館への入社は、池田にとつては身に
あまる抜擢と考えられたことであろう。実際、印刷工場勤務、大世学院在学中といっ
た池田の経歴では、どのような小出版社でも入社は困難だったにちがいないし、まし
て出版社は池田の志望する文筆業に近接する企業でもある。
 彼は二十二年から勤めていた蒲田工業会を二十三年暮れに退社しているが、同工業
会の上司であった小田原政男は、「手放したくなかったんだが、将来、文学で志を立て
るといっていたので『雑誌記者になるので……』といわれたときには、引きとめられ
なかった」といっている(央、前掲書)。
 池田が深く戸田の恩に謝し、彼への忠誠を心のうちに期したことは想像に難くない。
「三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたん
ですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくてしかたなかったんです」
 この一条は「出版」の前に「信用組合」に入っていたようにもとれ、接続等が不分
明である。「戸田さんの出版」とは日本正学館であり、一般にはそこへの入社は二十
四年一月三日とされている。「信用組合」は戸田が専務理事を務める小口金融専門の
東京建設信用組合をさし、その正確な設立年月は詳らかにしないが、原島嵩『創価学
会』、池田『人間革命』四にはいずれも二十四年秋とあり、正学館以前の、東京建設
信用組合への入社は不可能である。
 あるいは、東京建設の正式認可が二十四年秋ということで、戸田はその前から、戦
前の日本商事等経営の経験を生かして手形割引や金貸し業を無認可で営み、池田も正
学館入社以前に、その手伝いをしていたのかもしれない。

◆日本正学館の商法
 池田はさきにふれた通り、前年二十三年秋に小平芳平の推薦を受けて戸田へ履歴書
を出し、日本正学館への入社を決めたが、同社の業績は、二十一年六月に謄写版刷り
で再刊された『価値創造』が池田の入社内定とほぼ同時期、十月に第十六号で停刊さ
れたことにも見られるように、倒産寸前の状態にあった。
 二十年八月、中学生相手の通信教授で営業開始した同社は、まず、その六ヵ月分前
納という、堅実な営業を保証するはずの予約金制度が未曾有のインフレにかえってわ
ざわいされて失敗した。前金内では日毎に騰貴する用紙代や印刷費をカバーしきれ
ず、かといつて予約金のたてまえ上、追加金もとれなかったのだという。ただこの通
信教授により、いち早く紙と印刷のルートだけはつけられていた。
 そのため二十一年、戸田は単行本なら短期で捌けてインフレに強く、戦前、大道書
房等から刊行した大衆小説の版権もあり、また売れ行きに開しては、刷れば売れると
いう時代で、なに一つ心配ないと考え、事業を単行本の出版に切りかえた。
 ことに戸田は、単行本切りかえの一環として、流行語の観を呈していた民主主義を
早速稼業に結びつけ、『民主主義大講座』の刊行を企てた。責任編集者に室伏高信、
今中次麿、加田哲二、堀真琴をあて、編集人員も強化し、編集長に矢島周平、編集員
に小平芳平ほか数名を置いた。
 責任編集者の一人だった室伏は、のちに同講座とのつながりを回想している。当時
の日本正学館の雰囲気と戸田の人柄をよく伝えていると思われ、長くなるが、次に引
用する。
「多分昭和二十一年であった。神田の西神田に一軒の小さい出版屋があった。日本正
学館といった。その名もとっくに忘れていた。忘れるのがほんとうくらいの小さい、
名もない、吹けばとぶような小出版社があった。戸田城聖がそこの社長であった。
ここで『民主主義大講座』という十巻くらいのものを出版する計画があった。川瀬
という友人の仲立ちで、わたしもその編集委員に名をつらねることになり、その中
にいくつかの論文も書いている。
 そういう関係で、この出版社に、二度くらい行っている。株式会社となってはいた
が、会社というのは名ばかりで、その実体は何かの商店の二階の一と間の借間会社だ
つた。室の中に三つくらいの机があって、五、六人の社員がいた。二階に上ってゆく
と戸田社長は手持ち無沙汰に、ポツネンと椅子にかけていた。
その隅っこのほうに、一人の少年がいた。美少年でその礼儀正しさが、わたしの目
をひきつけた。それが池田少年であったかどうかは、むろんわかっていない。……
 ところで、この小さい出版屋を訪れると、二度とも、戸田はわたしをうながして、
梯子段を下り、裏口から小さい露路に出た。イタチのとおるくらいの小さい、陽の目
を見ない露路だった。その突き当りに小さい一杯飲み屋が立っていた。立っていたと
いうより蹲まるとか、しゃがむといったほうがぴったりする。そこに六十がらみの老
婆がいた。戸田の顔をみただけで徳利をもってきて、先生どうぞといった。古いおな
じみだということが直ぐとわかつた。先生ということばには尊敬も親しみもうかんで
いた。しかし徳利一本きりで、あとをつづけようともしなかったし、お酒の肴は何も
そえてなかった。そのころ終戦後で、酒の事情も苦しかったせいもあろうが、戸田の
懐事情がわかっていたからでもあろう。
 わたしはこの大講座にいくつかの論文を書いている。前に述べたとおりである。だ
から原稿料の問題で、戸田には債権債務の関係がある。わたしはそれがどうなったの
かを、いまはおぼえていない。しかしその問題で、わざわざこの出版屋を二度も訪ね
たとしたら、この間にすらすらいかないもののあつたことはわかる。
 そのくらいの見すぼらしい出版屋であつたと思う」(室伏、前掲書)
 この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を
安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版による
が、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上
げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
 二十三年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できょうとい
う、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする
経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池
田によれば数ヵ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたよう
だという。
 だが、昭和二十四年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本
格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カス
トリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『ォー
ル読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を讓りはじめ、そのよ
うな時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかっ
た。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの
「小僧」だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」
(池田「勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用という
より、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微
熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐ええたのだろう。
 このころ、彼は森ケ崎の実家を出、大森・新井宿の青葉茌(二反長、前掲書)とい
うアバー卜に一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族と
の関係の悪化からであった。

◆日本正学館の破産
《戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。十四、五人の研
研究会の仲間からもやられました》
 家族は池田の創価学会入信に反対しつづけたし、池田も四兄と同居の六畳間で朝
晚、題目や経典をあげることをやめなかったから、両者の関係は当然、険悪であった。
 池田が文筆で立つ志望を持ち、五男であったかぎり、家と出坂社とビちらを選ぶか
は明白であった。また彼が世の荒波に揉まれて家や協友会の友人のもとに舞いもど
り、おとなしく退転するには、それまで病・貧・争の苦しみに慣れすぎて免疫になっ
ていたうえ、戸田の提供する体験の場が貧しいとはいえ、魅力的でありつづけたのだ
ろう。
 しかし、池田の別居には周囲の反対から逃れ、世に乗り出すという以上の積極的な
意味がこめられていた。家族や友人からの離脱は、池田を否応なく戸田のもとに押し
やり、もともと冷静な観察力に乏しく、対人関係に古風な一面をも残す池田をして戸
田に、父なき世代にもかかわらず、父を見出させることになった。
 同年五月から池田は『冒険少年』の編集を手がけはじめ、原稿とりに野村胡堂や西
条八十、挿絵画家などの家を訪ね、また時に山本紳一郎というペンネ—ムで穴埋め記
事を書いたという。
そのころ、他の編集員,小平芳平らは前年までの『価値創造』にかわる創価学会の
機関誌としての『大白蓮華』の編集にあたってい、戸田も自ら同誌の巻頭論文に「生
命論」を寄稿した。
 シラミの話で始まる「生命論」は、生命とは過去、現在、未来の三世にわたって連
続し、永遠に存在するもので宇宙自体が生命であるとの主張に尽き、せいぜい古代イ
ンドのウバニシャッド哲学以来の素朴な観念論のやきなおし(日隈、前掲書)にすぎ
ないというしろものであったが、池田は当時の彼の感動として、「鮮烈な感動が、孤
独に沈んでいた彼を、いきなり襲ってきた。彼はしばらく茫然としてしまった」と記
すばかりか、現在の評価としても、「まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる
宣言書」(池田『人間革命」四)など、思いつくかぎりの最大級の讃辞を連ねている。
 客観的にはどのように他愛のないものに感銘したのであれ、ほぼこのころから池田
は創価学会の教義に骨がらみからめとられたと見られる。人はまだ理解していないこ
とにだけ絶対的な確信を持つことができるという定式からすれば、彼は「生命論」の
つまらなさを理解せずに、信じこんだわけであった。
七月、『大白蓮華』創刊号が発刊された。月刊、B5版、三十二頁、活版印刷で、
謄写版の『価値創造』より立派な体裁ではあったが、創価学会の経済的負担をことご
とく一 人で賄ってきたという肝心な戸田の事業は悪化の度を深め、もはや機関誌どこ
ろではなくなっていた。
 日本正学館の敗北は誰の目にも明らかであった。同社の刊行物のうち、まず単行本
の売れ行きが止まり、ついで『ルビー』『冒険少年』の二雑誌も返品が激増して採算
点を割った。池田の担当する『冒険少年』は八月に『少年日本』と改題されたが、そ
のような細工では頹勢は改まらず、同年秋には返本率は七、八割に達し、月に数百万
円からの赤字が累積して、ついには日本正学館全体で六千万円に達したという。原稿
料や画料の支払いの遅れはもちろん、出入りの紙屋や印刷屋は談じこみ、社員への給
料は遅配した。
 池田が編集業務をおぼえる間もない十月、戸田は全社員を集めて一切の休刊(廃
刊)と残務整理をいい渡し、かねて準備していた東京建設信用組合への社員の移行を
明示した。信用組合の社屋は日本正学館のそれがそのままあてられ、浮き足だつ社員
には分割で給料が支払われた。
 池田『若き日の日記から』(『週刊言論』昭和四十年一月~四十二年三月に断続的に
連載)十月二十九日の条には、「六時、分割払いの給料を貰う。床屋にゆく。給料が安
い、私も皆も大変だろう」とある。彼は念願の職場を否も応もなく奪われ、新しい職
を押しつけられても、そこには低賃金、遅配、分割払いといったそれまでの「乞食同
然」の生活から脱け出せる保証は一つとしてなかった。
 戸田の処置は時代相がどうであれ、経営者の無能力というより、無責任かつ残酷な
ものであり、宗教的紐帯なしには当然労働争議に発展している問題であった。池田も
少なからず戸田に不満や怨みを抱いただろうが、それらの感情は発表時に手入れされ
たはずの『若き日の日記から』はうかがうべくもない。ただ、さすがの池田も休刊決
定の夜には、座談会をさぼり、新橋で映画を見たという。
───────(~100頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)
◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて>
  非活・休活・フラ活・ふり活の学会員からの〝カキコ〟が盛況。
  コメントの一部(抜粋)を紹介
     ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―
◆2014年5月26日 at 21:51  ノブ
  批判もあるとは思いますが…
  シニフィエさんは大変努力されているとは思います。
  だけど当然ですよ。
  親が公明の議員だったんですよね!!
  シニフィエさんは会員の犠牲の上で学生生活を送り
  生きてきた人物です。
  父親の議員を当選させるためにどれだけの会員 一般人が
  犠牲になったのでしょうか。

◆ブログ<対話を求めて>盛況の秘密!!
 〝ノブ〟さんは対話を求めてカキコした人、〝シニフィエ〟さんは管理人。
 〝ノブ〟さんは勇気ありますねぇ…。いきなり詰問調の(対話を求める)カキコですね。
  〝ノブ〟さん自身、公明の議員の又は、本部・地方の職業幹部の息子・娘で…フラ活・
  半覚醒で悩んでいるのかも?
  池田教の造反者=退転者(学会用語)…山崎・原島・龍・藤原・松本(民音)竹入・矢野等
  =一般会員を犠牲に生活した元・議員や職業幹部とその家族

  ……アホクサ!!、今更あんたに言われたくない、私の人生返してくれ‥池田ネタの本書いて
  金もうけ‥…ハリガネで結わいてトンカチで…何度もゴッツンするゾ―!!

◆毒まんじゅう……さわった池田に祟りあり
  毒の強いこれらの人達の覚醒は〝七転八倒〟ですね。典型の見本は原島嵩ですか…
  「絶望の淵より蘇る」……不安神経症・うつ病・糖尿病・脳梗塞・失明等々……
  〝師弟不二〟〝池田本物論〟……教学部長・聖教新聞主幹の職業幹部として……
  (尚、原島嵩=日蓮正宗に行く……を賛成しているのではない)

 本当は全ての人が…池田の毒まんじゅう……の犠牲と思います。

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)
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