創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作「権力者」の構造-6

2014-05-27 09:38:02 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=6>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
──────(63頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)

◆入信神話批判
 ここで池田の「入信神話」を検討する。彼の入信時の状況、心理は前述の通りだが、
池田はのちにこれを実に見事なまでに改竄する。入信抻話こそ、池田の噓の出発点、
典型といって決して過言ではあるまい。次の引用は、池田が小説ではなく、事実として
記した文章である。
「私が、先生(戸田)に、はじめてお目にかかったのは、昭和二十二年、十九歳の夏
の暑い夜であった。……
 私には、……小学校時代からの友人で、時折り訪ねてくる仲間があった。そして、
ある日、その友人の家で『生命の哲学について』の会があるからと、誘われたのであ
る。この時、戸田城聖という名を、はじめて耳にしたのであった。
 私は、好奇心から誘われるままに、読者仲間(協友会)もつれてでかけたのである。
 やや嗄れた声で、屈託なく語っているのは、四十代の人であった。度の強い厚い眼
鏡が光り、広い額は、すっきり秀でている。話の内容は、最初さっぱりわからなかつ
たが、どうやら仏法の話らしい。そう思って聞いていると、身近な日常の生活や、現
代の政治についての鋭い洞察も語られていく。そしてまた、急に難解な仏法用語が出
てきて、私には実に不思議な未聞の哲学に思えたのである。
 いわゆる宗教の講話でもなく、伝統的な哲学の話でもなかった。話は、きわめて即
物的で、観念を弄ぶようなところはなく、卑近な事実が、そのまま高度の真理を語っ
ているようにさえ思われた。部屋には、中年の男や、家庭の主婦や、若い娘や、元気
な青年たちが溢れている。服はいずれも貧しかったが、戸田先生にじっと注目して真
剣そのものの姿である。善良な街の庶民の人々にまちがいない。そこには不思議な活
気が燃えていた。
 戸田先生は、私がそれまでに会った、どのタイプにも属さない人であった。ぶっき
らぼうのような口調でありながら、限りない温かささえ感じられた。私の先生をみつ
める視線が、しばしば先生の視線にぶつかった。私は戸惑い、眼を伏せて、しばらく
して顔をあげると、先生の視線はなおも私に注がれているようでならない。おかしな
ことだったが、いつか旧知の親しさという感情を覚えたのである。
 話が終わると、友人は私を先生に紹介した。先生は、ほう、といいながら、眼鏡の
奥から眼を光らせて、一瞬、私の顔をまじまじと見てとった。そして、何かを知った
ように、なんとも人懐こい微笑をうかべていったのである。
『君、いくつになったかね』  
 私の旧知の感情は、即座に答えた。
『十九歳です』
『十九歲か』と、先生はなにかに思いあたるようにいった。『十九歳といえば、僕が
東京に出てきた時だ。北海道から、おのぼりさんで、はじめて東京に出てきたのだよ
……』
 先生はその時、仁丹をかみながら、煙草をふかしていたと記憶する。私は、そのこ
ろ抱いていた、人生上の、また社会上のいくつかの疑問を自然に質問せざるを得なく
なっていた。
 ──正しい人生とはどういう人生をいうのですか。真の愛国者とは?天皇制につ
いて? 仏法の神髄とは?
 先生の解答は、はなはだ、直截で、淀むところがなかった。苦もなく答えているよ
うに思われたが、それは正しく頭脳の廻転の速さを示していた。衒いもなく、嘘もな
く、確乎としたものの本体を語っているようであった。私は充分に満足し、真理がこ
れほど身近にあることに、生れてはじめて感動したことをおぼえている。
 この夜から、十日後の八月二十四日、私は日蓮正宗に入信し、創価学会員となっ
た」(池田「“人生に負けてはいけない„」、『私はこう思う』所収、なお池田)
「人間革命』二での記述も、より粉飾されているが、これと同様の骨子である)
池田はここで、会場を本部から(蒲田の)友人宅に、折伏時の雰囲気、心理等を変
更した。が、より重要なことは対者を、小平芳平から戸田にすり替えたことである。
池田は『聖教新聞」(昭和三十二年十月十八日)にも、会場が本部で、折伏者が三十二
年時の教学部長,小平芳平だったことを明言している。
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは、
前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六
畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいた
んです。私はそこで教学部長から折伏されたんですよ」
本部と蒲田との情況は、哲学のいい話があるが来ないかと、学校時代の友人に誘わ
れたこと、池田の別の友人も同行したこと、その友人は入信しなかったこと(この場
面を描いた池田『人間革命』二では、「二人の友は、決心がつかない─と、《入信手続き
を》拒否した」一とある)、人生が話題になったことなど、あまりに類似点が多いが、蒲
田が前、本部がその後のできごとで、小平芳平(のちに、公明党参院議員)が池田の決
をとった(入信を決意させる)としてもよい(なお戸田とともに戦時中、投獄された矢島
周平は、「池田を折伏したのは私だ」と語っている。彼は矢島秀覚と名のり、埼玉県・
大宮の正因寺で住職を子息に讓つて隠居しているが、当時、座談会場に戸田はいなかっ
たとしている。筆者は矢島説を裏づける客観資料を持たないから、ただ紹介だけしておく)。
が、それでも戸田の講話、人格にうたれたにもかかわらず、五時間も締めあげられ、
理論に負けてシャクにさわるという矛盾はまるで解消されない。
 池田が戸田の講話に感動したというのは明らかに捏造である。だが、さらに注目さ
れるべきことは、池田がこれらの噓を年齢の一致という噓の伏線、下ごしらえとした
点にある。すなわち、池田は、出会い時の池田十九歲、戸田四十八歳という年齢を会
長就任という自らの跡目相続の正統性の論拠とした。
 池田は『人間革命』二で、前の場面に続く戸田の帰路のこととして、次のように描く。
 「戸田は、十九歳の春—北海道から上京した頃のことを、しきりと思い出していた。
 牧口常三郎と、初めて会ったのは、その年の八月のことである。その日から、彼の
今日までの運命というものが、大きく、新しく滑り出したことを、珍しく思いめぐら
していた。
 その時、戸田城聖が十九歳で牧口常三郎は四十八歳であった。
 いま、戸田は、その四十八歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田のこと)
は、十九歳だといつた。
 彼は十九歳より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代
は移り変わり、自分にも、真実の黎明の如き青年の弟子が現われることを、心ひそか
に期待して居ったのであろうか─(中略)
 ──十九歳の青年は、いくらでもいる。しかし、二十九年前の牧口と当時の戸田と
を、まざまざと想い甦らせたのは、今日の一人の青年ではなかったか。……
 いま牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、四十八歳の彼の前に、出現したのであ
る」
 池田がここでいいたいことは、牧口と戸田、戸田と池田、それぞれの出会い時の年
齢の一致と、それによる呪術的ともいうべき池田自身への正統性、神性の付託であ
る。この原始的な思惟に基づく発想は、池田の会長就任時に早くも表れている。
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長
池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに仏
法の不思議!」(『聖教新聞』昭和三十五年五月十三日)
が、驚くべきことに、これらの年齢は池田の十九歳を除いてすベてデタラメなので
ある。
戸田が北海道から上京し、はじめて牧口を訪ねたのは大正九(一九二○)年八月の
ことで、そのとき戸田は明治三十三(一九○○)年二月出生の満二十歳、数え二十一
歳、牧口は明治四(一八七一)年六月出生の満四十九歳、数え五十歳であった。
 また池田が創価学会員となった昭和二十二(一九四七)年八月には、昭和三(一九
二八)年一月出生の池田は満十九歳、数え二十歳、戸田は満四十七歳、数え四十八歳
であった(出生と出会いの年時は創価学会教学部長・原島嵩著「創価学会」による)。
 満、数え年齢ともに、四十八歳──十九歳に一致しない。池田の『人間革命』は虚
偽を援用して、戸田と山本伸一の名で登場する池田自身の徹底的な粉飾をはかったも
のであるが、それでも牧口と戸田だけは実名で登場させている。池田は、「私の人生
に、戸田城聖という恩師がなかったとしたら、今曰の私は、無にひとしい存在であっ
たにちがいない」()といいきるまでに崇める戸田の年齢
ばかりか、牧口のそれをも、自分の都合によって故意に改変する。『人間革命』はフ
ィクションだとするなら、前掲の「“人生に負けてはいけない”」と『聖教新聞』の記
事はどうなるのだろうか。
 創価学会が『人間革命』を「現代の御書」として会員に推奨していたのは広く知ら
れた事実だが、同時に、小説と銘打ちながらノンフィクションとして扱っていた形跡
がある。『聖教新聞』縮刷版の「主要日誌」(昭和四十四年十一月十四日)に「池田会長
による小説『人間革命」第五巻がノンフィクション部門で連続三週間、ベストセラー
第一位を示している」と記されている。
 ここで池田が故意に変えたというのは根拠のないことではない。彼は、四十五年に
遺族の手で刊行された戸田『若き日の手記・獄中記』に序文を寄せているが、それに
は、戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、先生が四十七、
八歳、私が十九歳の時であった」と、戸田の年齢を暖昧にして逃げているからである。
 池田の無残なまでの噓のうわ塗りは、彼が権力者だったために、「おべんちゃら本」
によって、さらに一層卑劣さを増幅する。が、これらには、その厚顔さのゆえに、よ
り露骨に池田の狙いを浮かび上がらせるという長所がある。次に引用するのは、前掲
の蒲田の場面を描いたものであり、ほんの一例にすぎない(『』内は池田の語り)。
「そして、池田がさらに戸田の話を聞いているうちに、奇跡としかいいようのない神
秘的な現象が、突然二人の間におこった。
 『それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない。
私はそのために生れてきたんだ──という強烈な直感でした。それまで、そういう運
命的な直感などむしろ軽蔑していた私が、どうしてああいう気持ちに襲われたのか、
いまもって不思議ですね。
 しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかつたんですが、私がそう直感し
た瞬間、戸田先生のほうでも、“このやせこけた若者がいっかォレのあとを継ぐだろ
う。いまォレはついに後継者とめぐりあった„──と、ひと目で直感されたというん
ですよ。
 はじめて会って三十分もたたないうちですが、戸田先生と目が会ったとき、私はそ
のことを──先生がなにを感じられたかを──ハッキリ知りました。先生のほうも私
の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのと
き、先生も完全に知ってくださったわけです』(五島勉『現代の英雄』)
『宗教と信仰の心理学』と、これとの懸隔はあまりにも大きい。池田の入信神話は.
デマゴギーの発生と肥大に関する調査、研究に、貴重なデ—タを提供できるほどのも
のであろう。

◆信仰の呪術的段階
《家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴っ
て、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのと
き思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校をでて蒲田に勤めて出張
していたときのことです。
それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕
事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信心は大事だなあと思ったの
です》
ここに「高校」とは東洋商業、「蒲田」とは蒲田工業会を指す。同工業会に書記と
して勤めはじめてまもなくの入信であった。
 雷に思わず題目を唱えたというのは、いうまでもなく彼への天啓ではなく、創価学
会と彼自身の低俗性、呪術的な段階を示す。
 藤田省三は、呪術と内面化された宗教との区別は、呪術が病気平癒など、この世の
利益のために手段として「霊」を拝むのに対し、宗教性の高い宗教は無条件に神を信
じて仕える点にあるとし、また本格的な思想の基底には必ずある、超越者の前に一人
立ってひそかに内省するという契機──それこそが生産的な内面的緊張を生む──
が、創価学会にはまったくないとしている(石田郁夫『創価学会」所収)。
 池田の宗教は「安心感があって」と自らいうように、つねに現実生活上の便宜や利
益をこえるものではなかった。
 蒲田工業会に勤めていた、その時分の池田の印象は「お早ようございます」という
朝の挨拶にうかがわれる。
「詰め襟の服で、さっそうと出社、事務所の戸が開くと同時に、あの挨拶が部屋中に
ひびきましてね。雨の降る暗い朝でさえ、パッと、いっぺんに明るい雰囲気になる」
(大田工業連合会専務理事,小田原政男談、『現代』昭和四十五年二月号)
 池田は入信によって、「私も、内向的なので、入信前は気が弱くて意気地なしだと
思っていた(笑い)。最近は、おっちょこちょいみたいに開放的になってしまった」
(池田『指導集』)とあるように、それまでの性格を早くも変え、明朗闊達な挨拶がで
きるようになった。
 声高の挨拶は、池田が意気地なしであることをやめ、生存競争の勝者への道を一歩
踏み出したことの起点であったが、多くの人の好感をよぶその挨拶を発するために、
彼が内面において切り捨てたものもあったはずである。
 創価学会に入っての池田の易変性は、それまでの彼のなめた病気や貧苦があまりに
強く彼を痛めつけていたせいであったろうし、また創価学会の教義に抵抗できるほど
の学歴等とは別の知的な基盤を欠いていたせいでもあったろう。が、易信性のもたら
した結果がまれにみる権勢であろうと、それは人間としての名誉ではなく、むしろ恥
辱であろう。考え悩む努力を放棄し、ステレオタイプの確信に甘んじる者の変わるこ
との意義は、世俗上の利得だけにしかないにちがいない。

◆弾圧の恐怖とバチの恐怖
《それから一年は普通にやっていました。そのころは,バチがこわかったのです。前の
信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。(創価学会は日蓮正宗をの
ぞいて)全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝
ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました》(カツコ内は溝口)
 ここに池田は彼のオポチュニズムを悪びれずというより、そのような衒いにも無知
に告白している。
 戦前の牧口、戸田以下幹部二十一名の下獄は彼にはただ恐ろしいだけで、それが敗
戦を境に名誉の履歴に変わったとみる青年らしい常識にさえ欠けていた。貧しく実直
な堅気の家庭では牢獄はなにより恐れられる。池田は戦前の受難の因は創価学会のひ
とり正しいとする独善性にあると穏やかにも見、それは自分の所属している現在でも
変わっていない、再び弾圧を受ける可能性は消されていないと、「寝ても覚めても」
ただただ恐ろしい。小心に心を悩ました挙げ句、「やめるなら今のうちがよいと考え
た」ことを口にして恥じることを知らない。このインタビュー時、池田は渉外部長と
参謀室長をかねていたが、まだ、のちに身につける体裁を取り繕う習性はない。ざっ
くばらんな気性で、都合のわるい履歴であってもあけすけに話す戸田が、小口偉一の
字問的な立場、問題のとりあげ方を理解して便宜をはかったからである(「聖教新聞』
昭和三十四年四月十日参照)。
 現在なら池田は「それから一年は普通にやってい」た理由として、たとえば次のよ
うにいう。創価学会に公明党批判を経た後では、さすがに入信直後は消極的な会員で
あったことを否定できない。
「最初から創価学会の全てが納得でき、戸田先生の言葉が、理解できて信仰したわけ
ではない。信ずることにせっかちな余りの一般会員の強引さや、情熱にまかせて陥り
がちな壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いたこともある」(池
田「自己変革と宗教者」『中央公論」昭和四十六年七月特別号)
 もちろん、ここにあるような他の会員への違和感や反撥心も一つの理由ではあった
ろう。が、そのこと以上にこの一文は、彼の動揺の理由を、弾圧の予感に怖じ気をふ
るったという、会員としての非模範的な自身の日和見主義から、他会員の未熟さに転
化し、その上、当時から彼一人が良識をそなえて醒めていたことを暗に示そうとして
いる。
 過大なばかりか卑劣な、現在の彼の見栄や外部志向を前にすれば、インタビュー時
の彼の無知は、いっそ初々しいものとさえいえる。尊大な大物風への「人間革命」の
結果は悲惨としかいいようがない。
池田は創価学会をやめたいとは思っても、「バチがこわ」くてやめられなかった。
この「バチ」は、「御本仏日蓮大聖人のご生命の満ちみちた大御本尊を絶対境とす
る生活は、他の小神・邪神・小仏の利益や罰とは、天地の相違があり、利益も大であ
るが、これに背く厳罰も明らかであり、背けば大阿鼻地獄へ堕する者となる。御本尊
の右の御かたに若悩乱者頭破七分」と、のちの『折伏教典』にある、会員にあら
かじめ言い渡される予防拘禁的な威迫を意味する。
 罰論は牧口以来の創価学会の伝統だが、その鬼面人をおどろかす体の「大阿鼻地
獄」や「頭破七分」に確固とした信者になる以前の池田が、なんらの反感もおぼえ
ず、頭から信じこんだばかりか、行動も規制されるというのは、とうてい近代的な思
惟の持ち主のよくできるところではない。
そのことは客観的な批判を無効にする宗教の世界より前の段階にあり、ここにも池
田がどうしょうもない無知蒙昧に類する徒であったことは明らかである。

───────(~79頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて
  非活・休活・フラ活・ふり活の学会員からの〝カキコ〟が盛況。
  コメントの一部(抜粋)を紹介
      ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―

 センセイは、頭から日蓮さんの教えなど信じていません。
 信じてないから、ここまで罰当たりのようなことをしたという意味では、矛盾はないと思いますね。
 私が池田氏がはかりしれないと思うのは、信じてないものを誰よりも信じてるふりをし、本気で信仰している者の教祖となって扇動したことです。
 金儲けのためにここまでできるのは、ふつうの神経ではありません。
 お金をもらう代わりに、それに見合う絶対的な確信やコミュニティを提供したんだから何が悪い、という理屈なんでしょうか。
 私は、創価の教えた教学などインチキも甚だしかった、日蓮さんは異端で特異なお坊さんだっ たと知った時点で、それでビジネスをした池田氏を心底恐ろしいと思いました。
 金の亡者であるビジネスマンはたくさんいますけど、自分の扱ってる商品には絶対の自信がある、自分が本気で惚れ込んでいるという人が殆どなんじゃないでしょうか。
 インチキと知ってインチキ商売をする。
 しかもその商品は品物ではなく宗教。世界中を巻き込んでまで。
 正気じゃないですよね。

◆コミュニティの過去・現在と未来
 覚醒は麻薬と同じ?…陶酔・反省・懺悔滅罪・自己嫌悪・罰論のマインドコントロールの残滓等々。
 100万円の財務で歓喜・体験発表!!・新聞啓蒙で表彰!!・選挙で感動!!‥の日もあったし……。
 人は一人で生きられない?…過去との決別とこれからのコミュニティに勇気と工夫ですね。
 地区婦人部長や多くの役職あるので…バリ活〝演じて〟(のふりして)いる人多いですね。
 切ないですねぇ…それにしても、池田は超ワルですねぇ……悪しき天才ですねぇ……

◆家のゴキブリ
 朝、洗顔していると……ちょろちょろ…と、さいさなゴキブリ……
 突然・止まって死んだふり(ゴミのふり?)する奴、時々いるんですよ…
 いじらしいですねぇ……切ないですねぇ……

 人もゴキブリも……のふりをして生きるんですかねぇ…そうしないと生きられない?…

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)
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1 コメント

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Unknown (本堂)
2014-05-28 09:01:27
>矢島 周平は、「池田を折伏したのは私だ」と

この文は当時、檀徒会結成や松本勝弥氏の「板まんだら」訴訟を報じた東京スポーツの矢島師(当時病床)取材記者の記事だと思います。多分矢島師は戸田氏から学会追放?されて(戦前の教員赤化事件の関係で?)除籍みたいな扱い?になっているので池田氏が参謀室長時代の聖教新聞記事でも小平氏のみが折伏した記事です。が、
もしや史実は矢島師と小平氏の2人での説得折伏したのでは?確か矢島師と小平氏の2人で堀米師住職の寺院に向かったとか何かで読んだ事あります。

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