創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作「権力者」の構造-8

2014-06-01 07:54:36 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=8>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
──────(100頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
◆信仰の証としての労苦─池田の前時代的性格
 東京建設信用組合は、池田によれば、その年六月ころ戸田のもとに持ち込まれた東
京建設信用購買利用組合を種目変更したものであり、専務理事を務める戸田に一切の
経営責任があった。それは、「およそ事業の基礎というものは、最後には金融資本の
掌握が必要となってくることを、痛感していた」(池田『人間革命」四)という資本家
・戸田の経営学の実践であった以上に、敗北につぐ敗北のなかでの、それ以外にしょ
うことのない戸田の窮余の一策であった。ドッジ・ラインの進行によるデフレ不況
は、つくづく金繰りさえつけばとの思いを戸田に強いたことだったろう。
 しかし、その場合、窮すれば通ずという格言は通用せず、同信用組合は正式発足
後、一年ももたずに破産した。預金額が借り入れの申し込みに反し、思うようにのび
なかったのだというが、戸田や日本正学館社員のにわか転用では、およそ能力に限り
があり、いきおい無理と知りつつ、あこぎな手口もとらざるを得なかったようだ。
 が、その結果は昭和二十四年暮れから翌々二十六年にかけて戸田も池田も債鬼に追
われて困窮と過労の度を深めるというものであった。降って湧いた朝鮮特需による世
の好況をよそに、戸田はウラボロとあだ名されたように裏地がボロボロの背広を着通
さなければならなかったし、それでなくとも数少ない社員は半年以上も出ない給与に
愛想をつかして、次々と去った。
 池田もまた五十キロ以下にやせて頰がこけ、「お前の顔で、指にささったトゲが掘
れる」と揶揄されたばかりか、二十四年秋、病弱を表むきの理由に、一年半通った大
世学院を中退するはめになった。
「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、といわ
れたんです。“おれが教えてやるから十分だ„というのです」と、池田はのちに語っ
ている(央忠邦『日本の潮流』)。
 以後、池田は日曜日ごとに、後には毎朝一時間ずつ、矢田俊隆『世界史』、熊谷幸
次郎『日本史─概説と問題点』、鵜飼信成『憲法』、鈴木安蔵『政治学』、高田保馬
『経済学原理』、ガモフ全集などを教材に戸田の教えを受けたとされている(草柳大蔵
“手づくり人間„池田大作」、『文藝春秋』昭和四十四年九月号)。戸田が学校教材風のこ
れらすべてを実際に用いたかは疑問であり、また戸田の講義を受けたのは池田ばかり
でなく、たとえば二十六年入信の秋谷城永(のちに、栄之助)も受講者の一人だった。
「(秋谷は八時半から)九時までの三十分、かならず博学の戸田会長から雑談ふうの講
義をきいた。池田現会長も仲間であった」(『文芸朝日」昭和三十八年八月号)
 彼らは貧窮のなかで、いっそう身を寄せあい、時に叱られながらも、猥雑なまでに
密着した。
「『さあ、寝るか、伸(池田をさす)、ぼくの布団で一緒に寝ようよ』戸田は隣室の布
団に入った」
「幾度か 戦さの庭に起てる身の 捨てず持つは 君が太刀ぞよ」(戸田から池田へ
の返歌という、いずれも池田『人間革命』四)
 池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。彼
は、「この地を受けつぐだけでなく、天国をも受けつぐことを定められながら、今は
おとなしい様子をしている王子である」(E・ホッファー『大衆運動』)と自分自身を考
えていた。そういう池田にとっては、あと半年通えば卒業できた大世学院を断念させ
られようと、金銭的に恵まれなさすぎようと、戸田を見限るなどは論外であり、彼は
ひたすらマゾヒスティックな快感さえ覚えて、日々を試練として耐えつづけた。一
方、それは池田のいうとおり、使われるよりは仕える境地でもあり、彼の前時代的な
作風が、自己犠牲をしのびやすくしたのも事実である。

◆投機的強信者の弟子
 それほどまでに強く池田をとらえた戸田の人柄は、ざっくばらんに過ぎて人に面白
がられはするものの、決して一般には尊敬をかち得られるものではなかった。
 戸田は初代会長,牧口常三郎の法要の席で、牧口と対比して彼自身のひととなりを
次のように語ったことがある。
「わたくしと先生はまったく違う。先生は理論の面から、御本尊様を信じきってい
た。わたくしは、功徳の面で信じている。わたくしはある体験から、ぜったいの功徳
を信じ、日蓮正宗のために命をささげるものです。先生は謹厳そのもので、わたくし
は世のなかをふざけて生きている。先生は謹直で、わたくしはルーズだし、先生は目
白に、わたくしは目黒に住んでいる。先生はひじょうな勉強家で、わたくしはさっぱ
り勉強せぬ。先生は飲まないし、わたくしは大酒飲みだ。これだけ、まったく正反対
の性格でありながら、先生とわたくしは境地はピッタリー致していた」(戸田『講演
集』上、昭和二十七年十一月)
戸田の酒は、「二十九の年から四十四で牢屋に入るまでー晚もかかさず、出獄後今
日までー晚もかかさない。前は料理屋と待合で飲んだが、今は本部と自宅で飲む。量
は今ではウイスキーのオールドびん一本が三日間」(『週刊朝日』昭和三十一年七月二十
九日号)というもので、酔って大石寺での会員質問会にも臨んだ。
 また「料理屋と待合で飲んだ」ことからもうかがえるように、戸田は女性に対して
も発展家であった。
 夕張郡真谷地尋常小学校に奉職中には、複数の女性と恋愛し、「恋にもつれ、恋に
狂いて、最も神聖なる教職を汚」(戸田『若き日の手記・獄中記』)した結果、その清算
のために退職しなければならなかった。また戦前には三角関係を経験し(小口、前掲
書)、当時も、戦前、彼の経営する会社の会計役であり、会員でもあった森重紀美子
との関係をつづけ、彼女との間には子まであったようだ。森重は創価学会幹部間で公
認されていた戸田の二号である(由比宏道『毒鼓の縁』)。
 戸田には己の弱所を口にして揮らない率直さはあつたものの──おそらくそれは
「この世に遊びにきた」(戸田『講演集』上)という彼の行動的、快楽主義的な空無観
に通じる一種の達観と関連したものであり、そうした率直さの点では池田よりはるか
に上だが──、内省的な深みはまったく欠けていた。
彼は昭和三十一年、参院選で柏原ヤスが落選した挙げ句、多くの会員が選挙違反に
問われた際には、「(官憲は)買収をしたのじやないかと買収の証拠を探そうとしてい
る。柏原参議院落選候補のオチンコを探すようなものだ。ワシは柏原だけはオチンコ
がないから、落ちんと思ってた」(『週刊朝日』前掲号)と野卑な駄洒落をとばしたり
した。軽度のアルコ—ル依存症患者は外界に対して上機嫌で円満な態度を持し、駄洒
落を好むというが、戸田のこうした言葉はまさしくその症状と思われる。
 戸田にインタビューした大宅壮一は彼の印象を「如才がなく、ぬけめのなさそうな
ところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校校長か役場の
収入役といった感じである。……そういえば金貸しにもむきそうな面がまえである」
(『婦人公論』昭和三十二年十月号)と記した。
 戸田の人相、風体、言動、著作物などいずれも聖性とは縁遠く、そのすべてに俗臭
が立ちこめていた。池田はそのようなものの弟子であり、戸田から池田への進化はた
だ一つ、後者がスノビズムを身につけたことだけであった。
 総じて生前の戸田を知る人々の戸田像は、もうけを片時も忘れることのない小事業
家、「勝負」に生きがいを見出す投機的商人、はったりと大言壮語で人をけむにまく
山師的性格、さばけた苦労人といったものであった(日隈、前掲書)。
が、そのような戸田にも、戦前、当局の弾圧に「退転」しなかったことに典型的に
見られる、強い力がひそんでいた。戸田を支えた力は、初めは牧口への敬愛の念だっ
たろうが、後には日蓮正宗への強信と入れ替わった。彼の強信は、信仰のフィルター
を通せば、その人柄を十分魅力的に、人物を尊敬に値するように見させたのだろう
し、一見性格的に相容れそうもない池田をはじめ、多くの青年の心をつなぎ得たのだ
ろう。
 池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負っ
て立たされ、金や法、人や組織、インチキや噓や脅しなど多くのものを学んだ。
「毎日の目標をきちんと立てさせる。私も戸田先生から厳しくやられた。耐えられる
人はいないね、窒息してしまう。今日はどこに行って何をどれだけやってくるのか。
株も勉強させてもらった。二百万円位やらせてもらつて二年で三十五万位損をした」
(池田の回想、『社長会記録」昭和四十六年七月二十七日)
 この実地教育が大世学院で教える課目以上に有用だったことはいうまでもない。池
田はのちに修羅場で学んだその知識や技能をおおいに創価学会の経営に役立てたし、
また創価学会の成功により、その試練の期間を、池田の先見の明を表す証左ともした
のである。

◆戸田城聖の破産と教団指導業への転進
 昭和二十五(一九五〇)年六月、東京建設信用組合の預金払い戻しは急増し、七月
に入ると取りつけまがいの騒ぎさえ起こった。焦げつき債権の回収も、優良組合との
合併策も思うにまかせず、払い戻し請求には、なりふりかまわぬ居留守と平謝りの一
手しかなかった。
 同信組の被害者のひとりは、のちに戸田をインチキと激しく非難している。
「昭和二十四年、当時戸田が西神田にある『東京建設信用組合』なるものの経営をし
ているとき、知人を通じて手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済界会などの事
件も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不審も抱かず、手形の
割引きを、四、五回したものです。
 また、その信用組合は定期預金なるものを作り、三ヵ月、六ヵ月満期の定期にも加
入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だ
とは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
 ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼
鏡をタタミにすりつけて平身低頭『生きている限り、必ずこの戸田が誓って全額返済
します』といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、二年後に彼
の負債(千五百万円とか)は三割返済の決議により清算されました」(『週刊朝日』昭和
三十一年九月二日号、読者投書)
 結局、事業家・戸田の論理は宗教家・戸田の論理とゴッチヤになって、無い袖は振
れぬだった。戸田のなめた苦しみは、他人に対して無責任で酷薄ないい抜けや一時し
のぎを許す権利を授けたわけである。
 八月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家と
して致命的に敗れて組合法違反を問われ、また取り立てにからむ刑事事件をひきおこ
し、債権者からは告訴されることになつた。そのため彼は創価学会理事長の職を辞任
し、後任を矢島周平に讓つて夏季講習会にも出られず、一時は城聖の名を城正と変え
(佐木、小口『創価学会』)、雲がくれした。戸田の破産は多くの会員を動揺させ、彼に
出資していた一部会員を離反させたばかりか、中には数十世帯を集めて分派を結成す
るものさえ現れてきた。
戸田は刑事事件としていつ起訴されるかもしれない身であり、彼の妻は生活のため
に働きはじめ、池田は牧口門下の清算事務局長の下で、毎日を希望のない善後策に走
りまわり、疲労しきっていた。
池田はのちに当時をこう回想している。
「昭和二十五年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしょうとする。借金取り
は連日連夜悪口を云った。(池田先生が)私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうに
なった。二十五年の十二月には、もう駄目かも知れぬと思った」
「記者が玉の井で遊んだ時、その売笑婦が信用組合に金を出して損をした話をした。
二十六万だまされたと話したので、それをネタにして乗り込んできた。一応、私が会
って、その晚玉の井へ行った。遊郭へ行って、その女に会って話をした。あなたは若
いのに真心がある、あなたが来てくれたのだから、その話はもうしないと約束してく
れた」(いずれも『社長会記録』昭和四十三年四月二十九日)
 東京建設信用組合は春をひさぐしか生きられない底辺庶民の金さえ、結果的にはだ
ましとったのだから、その瓦解が明らかになったとき、出資者たちの怒りが戸田や社
員に集中したのは当然である。若い二十二歳の池田ならずとも、修羅場と観じる。
《御本尊さまにこの苦しみだけは逃れさして下さい、という願いをして御題目を六十
万遍唱えることにしました。逃れ(られ)なければやめようと思っていたのです。そ
れが不思議にも百日過ぎて急によくなったのです。その時先生は事業を讓っていまし
たが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質
的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信
仰しなければ二十三くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら
貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますが、ずっ
と順調で申し分のない幸を得ております》
「この苦しみ」とは貧困や病弱、家族や友人からの信仰への反対も指そうが、中心は
東京建設信用組合の事後処理問題であろう。池田は一切から閉ざされてもなお将来を
賭けた戸田に、最大の苦悩を背負わされた。「逃れられなければやめようと思ってい
た」は、信用組合や信仰を、であろう。
実際、同僚はつぎつぎにやめ、池田としても苦しむために勤めるような気持ちにも
なったにちがいない。のちに池田は「大半の人がいなくなり、私一人になった。その
時、しめた!これで自分の人生は勝った!と思った」(昭和五十年六月六日、第一回
本部代表者会議で、内部文書)と述べているが、自らの先見性を証するための創作で
あり、「やめようと思った」が偽りのない気持ちだったろう。
 が、池田によれば、昭和二十六年一月下旬、信用組合は「大たい心配がなくなっ
た。目鼻がついたので(戸田は)会長就任の決意を二月十一日の誕生日になさった」
(『社長会記録』昭和四十三年四月二十九日)という。
「先生は事業を讓って」とあるのは、東京建設信用組合の清算事務を、牧口門下で戸
田の事業仲間でもある会理事に委ねたこと、また二十五年秋、戸田は小口金融、不動
産、保険代理業などを営む大蔵商事を設立したが、彼自らは世間をはばかってその顧
問で控え、社長に会理事の和泉覚、専務理事に戸田の公認の妾である森重紀美子を立
てた(由比、前掲書参照)ことの二つを指すものと思われる。
 池田が六十万遍の唱題を発心したのは、入信から満三年を経た二十五年晩秋のこと
であったが、唱題の当初は、相変わらず給料遅配で、その冬もオーバーをあきらめざ
るを得ないような実効性にとぼしいものであった。が、彼のいう「身体も、生活も、
物質的にも、社会的地位も」のうち、まず「社会的地位」が早くも彼にほほえんでく
れた。
「本日、営業部長に、昇格する。一、経済の勉強をいたすべき事、一、事業の発展
に、責任を、一段と深くすべき事、一、学会の前進に、遅れざる事」(池田『若き日の
日記から』十一月二十七日)
 大蔵商事の社員は池田のほか、戸田の親戚二、三人にすぎなかったというから、
「営業部長」は、およそ名刺上の箔づけだけにとどまっていたにちがいない。事実、
部長にともなう手当や給与の方も、翌二十八日を見ると、「今月で、三か月給料遅配。
本日、少々戴く。帰り、大森にて、シャツ等を購入。金、百六十円也」という情けな
い仕儀であった。
 大蔵商事は十二月、新宿百人町に移転したが、その事務所が地肌のままの土間だっ
たことに見合って、営業成績もいっこうに振るわなかった。が、二十二歲の池田は生
まれてはじめて「長」を与えられ、大いに戸田への心証をよくしたと同時に、その妾
にも仕える腰巾着の地位を、職制のうえで確立したのだった。
池田が唱題を始めて、ほぼ「百日」後の二十六年二月ころから、効験はいよいよ実
をともないはじめた。二月初旬、信用組合を解散してもよい、という大蔵省の内意が
伝えられて三月十一日、東京建設信用組合は正式に解散し、戸田への責任追及はひと
まず解消した。
 戸田がどのような手段で法的制裁を免れたかは不明である。
池田への真の救いは同じころ、戸田が、牧口以後長らく空席のままであった創価学会
会長の地位につく意向を表明したことによってもたらされた。その時点で戸田に会
長就任の決意をかためさせたものは、「ここに、不思議のことありて、大確信を得」
(戸田『論文集』)とある「不思議のこと」であり、その意味するところは、明らかに、
彼には「ありがたい御本尊の功徳」と映じた、この信用組合の免責であった。それが
立正佼成会(昭和三十五年に大日本立正佼成会から改称)への敵対心と相乗して、ふい
に戸田を会長に立たせたのである。
 立正佼成会は創価学会と同じく日蓮系で、法華経を重視し、また設立年月も昭和十
三年で、創価学会の設立と近接している。が、当時会員は約二十万を数えて、三千の
創価学会とは雲泥の差であり、新興宗教中、最高の成長率と最大の教勢を誇っていた。
佼成会は戸田にとって、教義上はもとより、いわば近親憎悪といった面でも敵であ
り、思いのたけをこめて打倒すべき邪宗以外の何ものでもなかった。
「学会と立正佼成会は同じく正と邪の道を開き、しかも、いまだかれら邪宗をつぶす
にいたらず。このまま便々としては、大御本尊様よりお叱りあることをおそる」(同前)
が、佼成会に対する戸田の敵愾心には、一筋縄ではいかない、陰微な嫉視や競争心も
混入していた。佼成会の発展は戸田には、なにより不正不当な、横取りされたような
成功と感じられた。
「学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていた
のは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、七ヵ年の時を経過して、
かれは大なる教団となつて邪教の臭気を世にばらまいている」(同前)
 規模もスタートも同じくして、一方は「邪教」の分際で大教団、一方は事業家とし
て塗炭の苦しみ──この事実に戸田は事業上の挫折を天啓と見、また新事業を着想す
る視点をも得た。
彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこ
の世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金
も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要
は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして
「信者を三十人集めれば食っていける勘定の、ベラぼうに高収益のあがる商売」(大宅
壮ー)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への道
はそれ以外になかった。
 戸田は早速会長着任をめざして布石を始め、まず会員間に会長推戴署名運動を起こ
させ、三千人の署名を集めた。戦前からの会員の一部は署名を拒否したが、戸田は歯
牙にもかけなかった。ついで四月六日、支部をA級(千世帯以上)、B級(五百以上)、
C級(五百以下)の三段階、十二支部に格づけ、再編し、支部長を任命して組織再編
成をはかった。また旬刊、ブランケット判二頁の『聖教新聞』の創刊にも着手し、編
集主幹に入信まもない、芝浦工専卒の石田次男をあて、四月二十日、第一号三千部を
刊行した。
 戸田はこれらの措置によって会長就任の花道をしつらえた後、五月三日、東京向島
の常泉寺で行われた会長推戴式に臨んだ。
 式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、
森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のままで、そ
れまでの理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落した。各部の部長は、指導監査
に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、男子牛田寛、女子
小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授─助教授─
講師─助師の四段階にランクづけされた。
 池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎ
なかったが、それでも、創価学会の発展が、池田の出世という位置にかろうじて連なっ
ていた。ようやく池田に「順調で申し分のない幸」が訪れかかっていたのである。
───────(~117頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

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