--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
新・創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道 昭和47年(1972年)
--傷つけられた大衆の怒声--(目次は、第2回に登載)
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◆ 所得のうえでも池田のみ救われているのか?
学会員はほとんどが経済的にも底辺にある。年収二百万円クラスといったら、そうざらにいないはずだ。ところが池田の所得はいったいどれぐらいあるのだろうか。あれだけの世帯をきりまわし年間十冊前後の著書を出しているし、再販重版をあわせれば、この数倍に匹敵するだろう。だから所得をみるとおそらくは松下幸之助くらいはあるのではないかと思われがちだが、案外と少ない。
池田大作が住んでいる(学会から低家賃で住居を借りている)東京・信濃町管轄の四谷税務署公表によると、昭和四十二年二千三百八十五万七千円、同四十三年二千七百七十四万七千円、同四十四年三千九百六十万五千円、同四十五年七千八百十一万七千円〔『全国高額所得者名薄』,東京商工興信所調べ)と增加している。
ただ注目されるのは四十四年から翌年にかけて僅か1年の間に二倍近い所得の伸びがみられることである。この一年間にそれほどの収入増があるとは一般の人にはとても考えられないことだが、そのとても考えられないことか池田の身辺で現実におこっているのである。そこでややうがった見方をするならば、例の言論妨害事件に関連あるのではないかということもでき
る。言論出版妨害事件は四十四年暮であり、四十五年の申告はそれを配慮しての申告ではなかったのか、ということも考えられるが、真偽のほどは所得明細が公開されていないのでわからない。
ともあれこうした池田の高額所得を一般会員は実に複雑な心境でみている。
まず池田のあまりの高額所得に驚き、それにひきかえやれ新聞だ、本だといってはお金を吸い上げられ、一生懸命やればやるほどやせほそっていくわが財布をみて嘆息しているのである。この点からも幸福製造機の恩恵にあずかっているのは、要するに池田だけなのがよくわかるというものであろう。
◆ 「タバクラカシの先生」-戸田城聖
次に取り上げねばならないのは、このところ「精神公害」の元凶の一人になっている観さえする池田大作の先輩戸田城聖の真の人間像であろう。死者に鞭打つ気持ちはさらさらないけれども戸田の場合は、そうはいかないのだ。現在これほどまでに多くの無知の人々をだまし、苦しめている学会運営のレールを敷いた張本人となると、「死せる戸田」にきわまるといってよいからである。池田にさまざまの詐術の手口を、それも事細かに伝授した諸悪の原点ともいうべき人物である。この人物を俎上にのせねばやはりホントの池田学会批判にはならないということである。
どうも死者を追想するとき、人はその人間の良き面だけの思い出を残すものらしい。現在でも「池田大作は悪いが戸田城聖は立派だった」という学会員もかなりの数にのぼっている。もっともこれは、そのほとんどが、戸田とチャンとした面識のない人たちで、さきの池田と同じように舞台の戸田しか知らない人々である。ただこの戸田時代に入信し熱心に学会活動をし、現在中堅クラスとなっている学会員から数多くの批判者、さらには退転者が続出しているのもいまや厳然たる事実なのである。真実の戸田を知ればそうなって当然であろう。
いずれにせよ戸田も池田に劣らず、いやそれ以上の「悪玉」であったことはまず間違いないところである。創価学会の財源が、戸田という天才的昨欺漢により貧乏人からむしり取った金が雪だるまのようにふくれあがったものであるからだ。
人間には“色”と“欲”が一生つきまとうといわれている。金のない者が無手勝流で財をなそうとすれば、欲でつって多くの人を欺すしか方法がない。このやり方は洋の東西を問わず、古代の昔から多少の姿、形が違うだけでいつの世にも行なわれてきたものである。
戦後の混乱期にいち早くこれをやったのか、東大生山崎社長の“光金融”であり、政界にまで立法化を狙って資金をばらまいた“保全経済界”、さらには個人金融から一大発展を目論み、かっての横綱男女の川を顧問にして一世の話題をまいた西村小三郎の“西村金融”、さらにはつい最近九州で起こったいわゆる“ネズミ講”と類例は枚挙に瑕がない。
これら金融会社がいずれも短期間で潰滅したのに比し、学会は、目玉商品を宗教のご利益に切り換え、利益を“ご供養金”にすり替えてしまったところに延命の要因があるわけである。この為、学会員である限りは終生、金をしぼり取られる仕組みになっているといってもいい過ぎではない。
ここに戸田を直接知っている二人のご老人が生存されているので登場していただく。戸田が死に際にあまりに苦しんだ為、学会員の付添い看護婦が、驚いて退転した、話も有名であるが、公表されていない戸田という人間の知られざる側面、彼が如何にヒ弱で小心な、小悪党人物であったかの生きた証言者である。
秋田県に住む加藤哲蔵さんの話.。
「戸田は小学校卒業後、札幌の化粧品雑貨問屋に丁稚奉公にでました。その後、かなり苦労して準訓導の資格をとったのです。二十歳で北海道の訓導になっております。二十五歳で子供を亡くしておる。
その後福生に来て、教員を辞め保険の外交員になった。ところがまた妻に死なれて肺結核で寝込み、世をはかなんでキリスト教に入ったのですな。
大正十五年に『推理式算術指導』という学習書を発行しています。このとき、私は教壇に四年ばかりいたので、戸田城外というべンネームで出版されたのをよく知ってます。
昭和十二年に学会の発会式があげられ、十八年に不敬罪で入獄しました。
戦後は一時、出版でかなり羽振りが良かったが、戦前の大手出版社が盛り返してくると、戸田は没落の一途をたどったですね。彼のところに池田大作がいたが、亀山の印刷屋の社長の話によると、池田はさかんに借金の言訳けばかりしていたということでしたよ。」
加藤さんの話は、このほかすでに発表されている部分、経歴も含まれていたが、それらはすぺて省略した。キリスト教から何故、カンタンに日蓮宗に鞍替えたかについては詳述を要すまい。たまたま牧口校長と知合い、牧口の創価教育学体系が新興宗教という金儲け組織の理論づけには、まさにカッコウの材料になると着目した為にほかならない。人柄にしても、信仰篤実な内省型の人物でもなんでもなく、口だけは結構うまかったということである。
ともかく当時は、聖職といわれた教師がどうして一転して一種のサギ師になったか。現在よりはるかに厳しく、かつまた教育の情熱に燃えた当時の師範学校卒の教師のなかで、戸田は余りにも肌合いがちがっていたし、この男か酒と女を愛したのに、余りに貧乏だったからだとみるほかはあるまい。
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