今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「リンゴの唄」の日

2006-10-11 | 記念日
今日(10月11日)は、「リンゴの唄」の日
敗戦から2ヶ月、焼け跡の街並みにバラックが建ち、闇市が立ち並ぶようになった1945(昭和20)年10月11日、松竹映画「そよかぜ」が公開された。敗戦後初めて製作された日本映画であり、公開と同時に大ヒット。そうして、映画以上に人気を集めたのが挿入歌「リンゴの唄」サトー・ハチロー作詞・万城目正作曲)であり、この歌は戦後を象徴する大ヒットとなった。
1945(昭和20)年、戦後初めて制作・公開された松竹映画『そよかぜ』は、劇場のオーケストラ部員である3人の青年と歌の大好きな下宿娘が繰り広げる、歌と恋の明るいレビュー映画である。戦前から、大スターだった上原謙、佐野周二、斉藤達雄に加え、松竹歌劇団出身の並木路子 が登場。この映画の中で、 並木路子 の歌う「リンゴの唄」は、秋が深まるにつれて大ヒットし、日本中に知れわたった。敗戦による開放感と虚脱感の入り交じった国民の心に、この歌の不思議なほど明るいメロディーが、ぴったりしたのだろう。
しかし、もともとこの映画の脚本は、戦時中に書かれた戦意高揚調のものだったが、敗戦で急遽、街頭慰問隊から劇場に置き換えたものだという。
第二次世界大戦の末期、戦局の長期化と共に物資の統制・配給、戦意の高揚・言論統制等の下で、「音楽は軍需品である。乱れんとする国民の気持ちをわき立てて、動揺する気持ちを不動のかまえにもちなおす。そこに音楽の力がある」【内閣情報部報道部長の言葉 (、2006年5月・NHKの「その時歴史が動いた」第252回・響け 希望の歌声 ~戦後初の流行歌「リンゴの唄」~の番組より引用)】とされた時代であった。
当然、劇中挿入歌の「リンゴの唄」も、そのような時代に、そのような意向の元に、軍歌として作られたものであったが、軍の検閲によって、「軟弱である!」と、却下され、以来、ずっと、サトー・ハチローの許で暖められていたものだそうだ。
それでも、並木路子(当時24歳)が、作曲家の万城目正から「「リンゴの唄」の譜面を渡されたのは、1945(昭和20)年9月末のことであったという。サトー氏の作詞の遅れもあって、撮影終了時までに間に合わず、そのため、並木は撮影時には別の歌(「丘を越えて」を歌っていたという)で口の動きを撮り、アフレコ(後からレコーディングすること)で歌をすべり込ませたそうだ。そのため、本人にそうした違和感があったからか、何度歌っても万城目正は首を立てに振ってくれない。自分が少女歌劇の声楽選科に在籍していたため、どうしても歌劇調になるからだろうと思ったが、万城目の指摘は違っって、「君の歌は暗すぎる。この歌は目一杯明るく歌わなければいけないんだ」といわれたという。
並木さんは、その年の3月10日、東京大空襲の夜に火災から逃れるため隅田川に母親とともに飛び込んだが、数日後、母親は遺体となって発見され、その上、軍属であった父親と長兄、出征していた次兄の消息も不明だったという・・・。「明るく歌えと言われても何かにつけ母のことなどが思い出され、私はそんなに簡単には明るくなれませんでした。」…リンゴの唄の録音について感想をきかれ、そう語っている。
映画自体の批評は芳しくなかったようで、音楽映画を目指しながら音楽映画になっていない、と酷評されもしたというが、これも、敗戦直後の、GHQの検閲映画第1号となったものであれば仕方のないことでもあろう。それでも、敗戦による苦しい生活の中で、娯楽に飢えた人々は、この映画を歓迎した。
米軍による空襲で焼失した映画館は、終戦の日までに、全国で513館にも及んだという。さらに、強制疎開や劇場以外の施設に転向したものもあって、戦争前に約2400館あった映画館は、終戦の時点で845館にまで減っていた。しかし、映画が娯楽の王者であった時代、その復興も早く、まもなく約260館が焼け跡で興業を再開。当初は、1日2回、正午と午後6時から上映が行われた。(データー週刊20世紀・朝日クロニクルより)。上映されたといっても、中には、映画館とはよべないような小屋もあった。たとえ、戦災を免れたとしても、戦時中、金属供出に協力した映画館には座席はなく、ただ丸太を並べただけのものだったりしたからだ。それでも生死の境をさまよい、九死に一生を得た人たちが、映画館に殺到、どこも観客であふれかえったという。
私は、この当時、まだ小学校への入学前であった。終戦前の神戸は空襲が酷く、家を焼かれ、何度か家を引っ越したが、いよいよ住んいられななり、高砂の親戚の家に疎開したが、そこも住んでいられなくなり、徳島の母方の里へ引越し、そこで、終戦の翌年小学校へ入学。秋ごろ、神戸へ帰ったが、引っ越す前の家は焼けたらしく、帰った時の家は、苦労してやっと手に入れた別の家であった。その家も、空襲に会い、焼けていたものを手直ししたものであった。そのようなことで、私は、この映画「そよかぜ」は見ていないので、内容について詳しくは知らない。しかし、私の父が、朝から晩まで、、「リンゴの唄」ばかり、歌っていたのを覚えている。大体、私が、小さな時から父親が、歌を歌ってる姿など見たことがない。その父が毎日歌っている。又、ラジオでも毎日放送をしているし、明るい歌なので、私も、子どもながらにわけも分からないまま、歌詞は、丸暗記していた。
とにかく、映画以上に人気を集め当時の人達で歌わなかった人はいないと思われる「リンゴの唄」。
日本コロンビアからレコードが発売されたのは、映画公開の翌年の1月のこと。原盤の材料不足で年間3万枚程度が限界といわれる中、事実かどうかは分からないが、発売3ケ月で7万枚が売れたといい、17円50銭のレコードが、闇市では100円の値がついたともいう。
当時並木さんは、万城目から「君はあと5年間は大スターでいられる。ただし、半音でもキーをさげるようになったらこの歌は歌わないでほしい」といわれたという。5年どころか、50年以上歌っっているが、50年以上キーを下げてまで歌いたくないと、同じキーで歌える歌手なんてそういないよね~。
詩人サトー・ハチローが最初に作った歌詞は、以下のようだったという。
「リンゴ畑の 香りにむせて 泣けてもくるよな よろこびを
若さにむれてる リンゴのひとみ リンゴの気持ちは よくわかる 
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ」
映画「そよかぜ」のプロデューサーでもあった作曲家の万城目正がサトー・ハチローと話し合って、後に流行した型(以下に記載)に変えたそうだ。サトーは戦時中に「大衆を元気付ける詩」の以来を受け、すでに作詞に入っていた。作詞のサトーハチロウーの回顧に「あのね歌を作る上においては、やっぱり明るい歌を書きたいですね。涙があったり悲しみがあったり、ボクはね、それを一つもないやつをね」(番組より)と言っている。
「赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持は よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ」
「リンゴの唄」(サトーハチロー作詞・万城目正作曲)↓
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Ringo_no_Uta.htm
歌詞が軽くて気取りがなく、曲調は明るく、はずんだ歌であるが、歌詞自体には大衆を元気付けるようなものも見られないが、詩中の赤いリンゴと青い空のイメージが、それを黙ってみてるだけで戦後の人々の心の中の灰色の気分に明るい鮮やかな色彩を加えてくれた。そして、わが国の映画はこの「リンゴの唄」とともに、自由と民主主義を旗印に復興の道を歩んでゆくことになったのである。その意味で、この映画は記念すべき映画であり、歴史に残る歌である。
並木路子の「リンゴの唄」は敗戦後の人々に希望を感じさせる歌であったが、当時りんご自体は統制品だった。りんごの自由販売が許されたのは1948(昭和23)年のことである。
(画像は、コレクションの切手。平成12年5月 23日発行「20世紀デザイン切手」シリーズ第10集「リンゴの唄」)
参考:
リ ン ゴ の 歌
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rinngonouta.htm
その時歴史が動いた - 番組紹介 5月/第252回・響け 希望の歌声 ~戦後初の流行歌「リンゴの唄」~
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_05.html#01
禁断の木の実が熟するとき
http://www.bekkoame.ne.jp/~dr.fuk/Series1J.html
訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします
http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo010409.html
並木路子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A6%E6%9C%A8%E8%B7%AF%E5%AD%90