今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

上水道の日

2006-10-17 | 記念日
今日(10月17日)は「上水道の日」
1887(明治20)年、横浜の市街地へ日本初の近代的上水道による給水が開始された日。
1858(安政 5 )年、徳川幕府が日米修 好通商条約を締結して開港地に定めたことにより戸数わずか100戸に満たない一寒村であった横浜の人口は、開港都市として、人口も増加し、急成長。市街地を中心に目覚しい発展を遂げた。当時住民は水を求めて井戸を掘ったが、横浜は殆どの地区を沼や海を埋め立てて拡張してきたので良質な水に恵まれず、ほとんどの井戸水は塩分を含むなど飲み水には適していなかった。人々は水売りから水を買うのが当たり前だった。しかし、市街地を中心に人口も著しく増加、水売りの水だけでは手が回らず、質の悪い井戸水や川の水を利用する者も多く、コレラ・チフス・赤痢など消化器系の伝染病が蔓延し、近代的な上水道・下水道を整備する必要に迫られた。そして、1871(明治4)年、何人かの商人が共同で水道会社を創始し、給水を行ったが、それは共同水道と呼ばれる原始的なものであり、漏水が頻繁だったり、水道料の滞納者が増えたりで会社は解散、その事業を県が引き継いだ。その時の横浜の人口は7万人だったという。神奈川県は充分な供給のできる水道作りに悩んだ末、1883年(明治16年)に渡来した英国人技師H.S(ヘンリー・スペンサー)・.パーマーの指導の下、資材すべてをイギリスから輸入して、1885(明治18)年近代水道の建設に着手、1887(明治20)年9月に洋式水道が完成した。44km離れた相模川上流を水源とし、横浜で緩速砂ろ過をして配水した。これが、わが国最初の近代水道だそうである。
しかし、この「近代水道」以前にも、「上水道」そのものは敷かれていた。日本で最初に「上水道」が敷かれたのは江戸である。
1590(天正18)年 江戸を居城と定めた徳川家康は近世城下町の建設を開始した。 1603(慶長8)年 江戸に徳川幕府が誕生。江戸入りした家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために、上水道の確保が急迫した問題となってきた。幕府が日本初の水道を設計するのは寛永期(1624-43)であった。当時は、いくつかの自然河川が江戸の街を流れていたが、その中で最大の河川だった井の頭池を水源とする川(神田川)を利用して、1629(寛永6)年に「神田上水」が作られた。神田川のもとの名前は平川と言い、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。江戸への供水は、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へ導かれ、その後、地中の導水管へと導かれ、現在の水道橋のあたりで掛樋となって神田川を渡り、 駿河台方面へと供水されたそうだ。関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれ、上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流は神田川と呼ばれるようにった。神田上水の工事は、後の1653(承応2)年に計画着手された玉川上水のように新たに開削したものではなく、武蔵野を流れる自然河川に手を加えた程度で関口まで引いたものだというがそれでも当時としては、今でいうところの一大公共工事だったわけである。
玉川上水が建設され多摩川の羽村の堰で取水された水が、江戸中央部へと給水を行うようになると、神田上水は、小石川地区から神田川以南の日本橋、京橋、大手町地区に供水していた。また、本所、青山、千川、三田の4上水が整備され江戸周辺へと給水された。しかし、こうして作られた上水道も明治の時代に入ると、玉川上水は船の通行が許可(明治3年より)され、多摩地区からの農産物を東京市街へ運搬していたなどにより水質悪化などの問題が発生する 。そして、浄水施設を持つ近代水道の必要性が求められたが、近代水道の建設は遅れ、工事着工は、横浜に近代的上水道による給水が開始されて、6年後の1893(明治26)年のことであり、東京が玉川上水の水を淀橋浄水場に導きやっと改良水道工事が完成したのは、1899(明治32)年のことであったという。そして、神田上水は、1901(明治34)年6月30日にその使命を終えることとなったそうだ。東京の玉川上水の建設から近代的建設などについては、以下参考の「水道歴史館(東京都水道局)」を見られると詳しい事がよくかる。
近代上水は、その後、他都市にも導入されるが、明治開港以降横浜と同じ様に港町として発展した神戸が、イギリス人技師バルトンの設計による近代水道として給水を開始したのは、1900(明治33)年のことであり、日本で7番目である。水源には布引谷と烏原谷が選ばれ、給水区域は生田川と湊川の間(旧生田区のほぼ全域)、計画給水人口は25万人 であった。横浜と日本初の多くの1位2位争いをしている神戸が、ちょっと、近代的水道建設の面では、横浜に差をつけられた感じではあるが、それは、横浜と違い、六甲山系を背景としている神戸には、布引貯水池とその布引渓流などの大変きれいな水が豊富にあったからであろうと思う。
明治以降、横浜、神戸などの新興都市には、全国から人が集まり産業が栄えたが、その一方で不衛生な井戸水の使用によりコレラなどの伝染病が大流行したことが、近代水道布設の機運が高まった直接の要因であった。
近代水道の特徴は有圧送水、ろ過浄水、常時給水にあるといわれ、また近代水道の三大発明として鋳鉄管、砂ろ過、ポンプがあげられるという。近代水道導入時から現在に至るまでに建造、使用された水道の施設から1985(昭和60)年『近代水道百選』が選定された。『近代水道百選』は、厚生省の企画により歴史的価値の高い水道施設を後世に伝えるため選定したもので、神戸市のものでは、 奥平野浄水場、 布引五本松ダム、千苅ダムの3つが選ばれている。以下を参照。
水道百選 →http://www.jwrc-net.or.jp/suidou/100menu.html
《画像は、布引五本松ダム。 神戸市。 わが国で最も古い重力式コンクリートハイダム。水道百選より)
参考:
横浜水道の歴史 ・横浜市水道局ホームページ
http://www.city.yokohama.jp/me/suidou/ja/mizu/rekishi.html
神田川逍遙~江戸の暮らしと神田上水
http://www.kanda-gawa.com/pp005.html
EICネット[環境用語集:「近代水道」]
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=654
神田川 (東京都) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D
水道歴史館(東京都水道局)
http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/s_history_01.htm
江戸と座敷鷹 上水制度1
http://www.0105.jp/~mizuki/jhosuiseido1.html
神田上水
http://www.ne.jp/asahi/iidabasi/sanpo/sotobori/kandazyosui.htm
玉川上水 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4
水道百選
http://www.jwrc-net.or.jp/suidou/100menu.html
神戸水道100年のあゆみ(神戸市水道局)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/51/06/09.html
神戸水道の誕生(神戸市文書館)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/tenji/kako.html
水道局リンク集【HIR-NET提供】
http://www.hir-net.com/link/living/water.html