「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「いきなりの喪主さん」

2022年05月05日 | 家族・孫話

               

すぐ近くに住んでいる4才違いの姉が、まさに寝耳に水、突然あの世に召された。享年84歳1か月。
84才1か月の生涯が長いのか短いのか。早すぎるというには少し無理があるかな。遅すぎるというには、人生100年時代ともいわれる今、少しの違和感を覚える。ま、人それぞれの考え方にお任せするとして。

2週間前に直接会って話もしたし、特に変わった様子もなく「また来るね」「気を付けようね」などと、いつも通りの軽い会話で別れた。
年なりに足腰が弱っていることもあって、重い物の買い出しは絶対に無理をしちゃいけん。遠慮せんと電話しんさいよ。などと、どこにもある普通の姉弟と同じように力を貸したり知恵を借りたりの生活であった。

ただ、近い将来の身の振り方を真剣に考える時期が見えつつあった。その時は弟である小生が、最大の知恵を絞ってでも人並みな老後を送らせたい、などと少しの心配もしていた。そんな矢先、何の前触れもなく突然、自室のベッドに横たわる形で静かにその生涯を閉じていた。もちろん自死などではなく、他からの影響を受けた形跡や事件性など全くない。最終的医師の判断では「高齢による心臓発作」という診断。という警察署刑事課の担当刑事さんから説明を受け、我が家に引き取ることになった。

家族を持たない姉。身寄りと言えば、血統の一番近い実弟の私が身元引受人であり、喪主ということになる。
なんの前触れもなく、何の予備知識もないままいきなり仕立てられた喪主さん。いささかの戸惑いを感じながらも、山の神の記憶力や姪っ子の知恵などにたすけられて、当面の儀式やお弔い一式を滞りなく終えた。まだこれから、住居の後始末、生活用品の処分など、実質的な大仕事が待っている。

人の一生には様々な事情があり、ドラマがあり、計り知れない運命もある。同じように、人生の幕切れ、一生の終わり方も千差万別、思いがけないドラマの主役になったりする。
生涯の半分以上を独り身で生きて来た姉が、幸せであったか不幸せであったのか。それは本人以外誰にも分らないし、憶測でものを言うのは失礼である。この目で見る限り、大きな幸せではなかったかもしれないが、不幸であったとは決して思わない。いうなれば、ごく普通の一生であった、と思っている。

即席喪主を何とかこなした者の思いとして一つだけ。「人の一生諮り難し、今日とも知らず明日とも知らず」。周囲とつながりを持ち、声を掛けたり掛けられたり、複数の人と一緒に生きていくことも大切だね~というのが正直な感想である。

コメント (2)
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