「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「断捨離考」五木寛之さん

2022年04月27日 | つれづれ噺

                 
                       断捨離、イメージ

「僕はへそ曲がりである。世の流れに逆らうことに、ひそかな生きがいを感じてきた」。とおっしゃるのは、「捨てない生き方」を1月に出版された大作家の五木寛之さん。
「世はまた断捨離ブームらしい。モノに執着せず、さっぱりと捨ててシンプルに暮らす。潔いと思う。雑多なモノがある暮らしは、今やネガティブに語られがちだ。でも僕は『捨てないこと』にこだわってきた。『捨てるな』とは言わない。だが捨てない暮らしや生き方も面白いよ、とひそかに提案したいのだ。」と続き、僕はモノを捨てることはめったにしない。仕事部屋はモノだらけである。まだまだ続く断捨離しない生き方。

断捨離しない、捨てない生き方、などと普通の人が言うと、なんかしら不潔感やけち臭さや強欲など、負のイメージがつきまとう。しかし、彼の五木寛之さんの発言となると、妙に納得してしまう。とりもなおさずかく云う小生も断捨離は苦手である。捨てない生き方推奨派である。
何故捨てるのがイヤなの?別にイヤなわけではない。長い間一つ屋根の下、身の周りにあって一緒に生活をしてきたのだから、なにがしかのつながり、思い出、かつては必要としてきたモノなど、「無理して今捨てなくても・・・」とつい置いてしまう。

特にスーツなど一度身にまとったモノは、その時々の思い入れや経過などに結び付いてなかなか捨てられない。体型も変わり年も重ねて色や柄が合わないことはわかり切っていても、自分の手ではなかなか処分できない。誰かが知らないうちに一切合切処分してくれたなら意外にあきらめがつくのだろうけどね。

再び五木寛之さんの登壇である。「どれひとつをとっても、それを手に入れた時の人生の風景、記憶が宿っている。僕は『依代』と呼んでいる。喫茶店のコースター、バーのマッチ、古雑誌、何でもいい。あのバーには誰と行った、あんな曲が流れていた・・・」そんな他愛もないものをきっかけに、長らく思い出すことのなかった過去の記憶がよみがえる経験は、誰にでもあるのではないか。ウ~~ンなるほど。

確かに思い当たる。しかし、「自分のモノは自分の時代に処分しておかないと、若い人にとってとんでもない負の遺産だからね」と、断捨離大好きな山の神の言葉も説得力がある。結局は、もう少しの間、記憶力が確かな間だけ待ってもらって、やがては身の回り何にもなくなるのが幸せなのかも。

コメント (2)
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