最初に腕時計を手にしたのは幾つの時だったろうか。少なくとも6・70年前の話ではある。それ以来、いったい何種類・何個の腕時計がこの腕を飾り、人に見せびらかしたり自己満足に陥ってきたことだろう。
どんな時でも1個だけは、勝負腕時計とでも言おうか、心の財産とでも言おうか、大事なときや節目を刻むときに使用する、プロ野球の押さえのエース的存在のとっておきが、引き出しにしまってある。
その1個が、こことうとき気持ちよく持ち出せるので、それ以外はあまり高価なものでなくても、利便性優先で、どうかすると安物と呼ばれる部類でもガマンできる気持ちの余裕がある。
そんな贅沢な話は置いといて、今日の話は、小さなローカル駅の真ん前にある小さな小さな老舗の時計店でのひとコマである。そのお店は90歳に手が届く品のいいお爺さまがオーナーである。
手許の超安っぽい腕時計の電池が切れた。自分で取り替えられないことはなさそうだが、壊したりすると、たとえ安物でも愛着をもって使ってきた分無念さが残る。そんな愚をさけるため、捨てるという選択肢もある中、ローカル駅前の小さな時計店を訪れた。
簡単な作業で電池交換を終え、丁寧に丁寧に拭き上げる所作は、まるで高給ウオッチの扱いと全く一緒。そんな扱いをされるとこちらが恥ずかしくなる。「安い時計をそんなに扱ってもらって恐縮です」というと「値段は安いかも知れませんが、歩数計やカロリー計算の付いた便利な時計ですから、大事に使って下さい。このように電波を拾って正常に動いていますよ」とやんわり諭された。
さすが年季の入った職人オーナー、人の気持ちを癒やし、また来るねという気持ちにさせてくれる。
丸い卵も切りようで四角。モノも言いようで角が立つ。というが、丸い言葉で交わす会話は、豊かな余韻を残す効果まである。和顔愛語、言ノ葉だけでなく身に付くといいのだが。なかなね~