怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

コミュニケートの実感

2007-06-18 16:09:35 | 戯言
受容的な・・・とよく言われるが、それは相手次第だろう。
そんなものを誰もが求めているとしたら病気だ。

では、一方通行なものを求めているのか?
それは極論だろう。

私がいいたいのは共感の手順なのか?
そうではなく、共有なのか・・・。

信頼とはよくいうけれど、それは歩み寄りとどう違うのか・・・。

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減速(私的な思考がとまらない)

2007-06-17 23:09:08 | 戯言
全記事に対して「平均1日1記事」に95%達成したようだ。
100%になる目標をもっていたのだが、そろそろこのブログが一時期停止した理由をアップしてブレーキダウンしよう。

目標は単純に自分に課した数値目標なので、ペースメーカーのようなもの。
深い意味はない。

このブログを立ち上げた側の気持ちの問題以外の何ものでもない。
ただ、これでいつでもやめれるなという気持ちになったということ。

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ブログはパーソナルなツールとしては未完な感じがするけれども、いろいろな可能性を見せてもらっている。

教員として、あるいは教育問題をテーマとしてかかげるブログは私が開設した時点でも多かったが、更に増え、文字通り桁違いの状況にある。

しかし、増大する個の存在は、社会性を持ちつつも個の有り様を霧散させ、コミュニティの複雑化、高度化という相互の境界線の曖昧さを生み、価値観の多様さとともに、それらの不可侵の不文律と微妙なバランスを成立した。
それは「自由」とひとくくりで言ってしまうと肯定的だが、少なくとも私にはそんなに愉快なものではない。

個に降り掛かる時間に応じ、眼前に立ちつつ自分を何気なく指差して判断を問いながら、それは違うと平然で断じる輩がはびこり、個々の相互関係を外的に浸食する可能性を発生させた。
その事例を多く見たこともブログの効能かもしれない。

それは新たな暴力なのだが、既存の暴力をモデル化して語られることが多いように思う。

でも、これは新しいコミュニケーション形態であることを明確に意識し、更新されるカテゴリズムの中より脱出するべき課題になるだろう。

新知を得たときに終わるのだけれども、それは次へのステップという意味で連続しており、また、有機的かつ固有のアンバランスな思考の発達は、まとまらないまでも新しい航路を見つけ出すだろう。

生き抜く為に。
そう。全ては道筋をつけるために。
(ああ、書きなぐってしまった。)

学力テストを支えるバイト君その2

2007-06-16 21:50:22 | 教育
前の記事に引き続き・・・。

ちゃんと予算ついているのだから働かせてやってほしいものだ。

見通しのないことをするからこういうことになる。
ベネッセや旺文社は応分の責任を果たしてほしいものだ。

いはんや人材派遣会社をやだ。

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学力調査採点スタッフ、グッドウィルに賃金補償を要求(朝日新聞) - goo ニュース

学力テストを支えるバイト君

2007-06-16 21:47:07 | 教育
「すげぇ。」と絶句した。

学力テストの採点はバイト君たちの活躍でまかなわれている。

彼らが優秀なのは、正誤の判断に迷えばきちんとリーダーに聞くこと。

午前のリーダーが○といったものが午後のリーダーに×と覆されてもめげないこと。

私が立場だったら阿呆臭くてやっていられないだろう。

こんな阿呆な採点システムでやっているテストをこれから先も膨大な予算を費やして続けるのだろうか?

バイト君(人材派遣員)たちは守秘義務はあるのかもしれないが、ベネッセや旺文社という受験産業大手に子どもの全データを預けていて不安はないだろうか?

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学力調査の中3記述式、採点難問 ×が○に、作業も中断(朝日新聞) - goo ニュース2007年6月15日(金)06:10
 小学6年と中学3年の約233万人が参加した全国学力調査の採点で、中3の記述式問題で正誤の基準が途中で変わったり、作業現場の責任者の判断が食い違うなど、混乱が生じていることがわかった。人材派遣会社から派遣された複数の採点スタッフが明らかにした。スタッフは「採点が肝心なのに、あまりにいい加減だ」と口をそろえている。

 採点業務は学校の教師に負担をかけないよう民間に委託され、小6分をベネッセコーポレーションが、中3分はNTTデータが受託した。

教師格差(角川Oneテーマ21)尾木直樹2007.06.10その2

2007-06-16 17:12:36 | 教育書
結局、尾木氏はどういう支点をもっているのだろう。
立脚する部分が風評なのか、社会学的な視点なのか、労働学的なのか、なんなんだろう。
そういう疑問とともに読み進め、終わった。

第一章では、ほぼ教師力は落ちたと指摘している。
しかし、第二章では、一転して教員側に同情する言葉で締めくくられる。
第三章以降もそういった言葉を決してはずさない。
私が第一章で感じたねじれた違和感はなんだったのだろう。

思うのだが、尾木氏思想的な部分の根底には、教師や保護者、地域などが教育活動のためにほう起することを狙っているのではないか?

これはプロ教師の会の諏訪氏の主張を思い起こさずにはいられない。
>尾木の立脚点を革命前提と断じ、背景には尾木独自のユートピアがある
と私は彼の「尾木氏批判に関する主張」をまとめたことがある。

また、同時に、私自身の尾木氏評価は
>私は尾木さんの主張は好きであるが、どうしても最終的に踏み込みばのない論になる点に違和感を持っていた。
と書いた。

今でのその感触はかわらないのだが、ここにきてはっきり思うのは、第一章での尾木氏の主張は教師の弱体化を詰ったものではないだろうか?

(1)「問題教師」が出現する一方でそれに対向する人材の出現や育成ができない無責任な現場意識
(2)「敬語」を使えない、一般的な電話の応対もできない教員文化のレベルの低い部分
(3)「生活科」や「総合的な学習の時間」のカリキュラムをつくれないプロとしての能力を問われる教師
(4)更に追い打ちをかける教員採用試験倍率の低下による優秀な人材確保の問題。
そういったこと一切合切を「教師力が落ちた」といい、それは教員側の問題なのだといっているように読める。

だが、逆に読むと、
(1)「問題教師」出現に対応するシステムをもっていなかったことや、そういった現状認識に対応するだけの余裕を与えられていない教員像も浮かび上がる。
(2)小学校教員に名刺を持たせる意味はあるのか?
   他の職業と比して、そういった普段用いられない常識を教師側に押し付けるようなことをいうだけで対策がとれるというのか?
  そういった疑問がわく。
  もっというと、都研の企画する研修では、「教師力基本」の集中研修があるが、それはまさに尾木氏のいう「敬語」やら「礼の仕方」やらの研修だ。教師の要望と合わず、研修を途中でやむなく離脱する人や、苦々しく終える人が続出する。
  形も大事ではあるが、ではそういった間接的な部分にかんして、どういうモチベーションを設定できるのかも言及してもらいたいものである。
(3)「生活科」や「総合的な学習の時間」への現場批判はもっとも忌むべき問題だ。
   全国的に混乱をまねいたのは、その学習に対する意図が読み取り難いだけでなく、保護者・地域からの理解も得られなかったり、意図が二転三転したりしたことが大きな背景としてある。
   第一、週三時間の設定を与えられたとき、どの教師でも当惑するのは必死と考えられないようではダメである。
   現場に対してなんのサポートもなく行った施策の失敗を丸投げするような姿勢はいただけない。
(4)尾木氏も、ここまでは現場の責任とはいっていない。
   大問題は教員免許更新制度という馬鹿げた施策である。

私は教員文化的なものが最高にいいとは思わない。
が、十把一絡げで改革を求めるのはどうかと思う。
そして、それ以前に、教員文化のいい部分はすでに崩壊しているということだ。

「敬語」「電話応対」の問題などは、私にいわせると、ヒエラルキーの構築によって現場環境が分業というなの分断が行われ、それぞれに干渉することをすでにやめてしまっている中ではだれも指摘などしないのだ。
それは外的に作られた環境であって、内部改革を求めてもすでに勝敗は決している雰囲気でダメなのだ。

では「研修」で、という話になるだろうが、それもダメだ。

教師(教員)自身が自立し自律した教育活動を行っているという意識が下がっている。
労組もない、職員会議もない、研修ペーパーは教委のチェックにもれなければいい程度(下手すると研修者の名前だけ違う中身はコピペのペーパーが流れているかも)で火の粉がかからなければいいという具合になっている。
そういうことなのだ。

実は「教師力が落ちた」というのは、そういうことかもしれない。

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子ども達の学習環境の様子を漠然と・・・

2007-06-16 11:21:04 | 教育
「いつ」と不勉強で、すぐにはっきりとは言えないが、尾木などが「1年生の学級崩壊」を指摘していたは10年くらい前だと思う。
その「1学年の学級崩壊」はいつのまにか終息宣言をしているらしい。

これは保幼小の連携を施策として立てるまでもなく、保・幼側が小への接続を考えて対応をしたことが一因だろうという解釈をきいた。
また、小学校も、1年生への対応を腰を下げたものにしたのだとも聞いた。

小中連携の研究をしている中で聞いたので、つまりは研究レベルでは連携を考えずに行う方が現実的だと受け止めた。

一方で、少々違和感を覚えたのは、それでは1年生段階での荒れ・崩壊の根源的な原因を解消したのではなく、対処療法を確立したのではないか?という疑問だ。
それは保・幼では事前対策なのだろうが、小学校的にはレベルダウンということで、さらに上の学年に指導の継続を求める部分ができたのではないだろうか?と思うこと、そして、実際そう感じることと繋がる。

特別支援教育などが声高にものものしくも内実はチープに導入されているが、そんなものの側面として、最近の子どもの様子・実態はどの程度なのだろうか?と漠然とした疑問を感じる。
つまり、就学する子どもの教育的な背景(成長や発達を含む)レベルは下がっていないのだろうか?

国語の学力テストの分析として、語彙の力がたいへん低下傾向で、それが足を引っ張る形で国語に関する平均ポイントが10ポイントも低下しているのだと聞いた。

法案成立を待つため、審議が停止中の中教審でさえ、この点は次の指導要領改訂時に絶対盛り込んで来るだろう。

何がいいたいかというと、子ども達は体験が少ないのなんのという以前に、社会的に学ぶ環境から隔絶できる状況に容易くあるのではないだろうか?という単なる私の想像。

苅谷等の「欲ばり過ぎるニッポンの教育」ではないが、学校という制限のある環境になんでもかんでも盛り込む前に、考えなければならないものがあるような気がする。
ただ、漠然とだが・・・。

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教師格差(角川Oneテーマ21)尾木直樹2007.06.10その1

2007-06-13 19:51:24 | 教育
まずは序章「病める教師」と第一章「教師力は落ちたのか」。

正直、尾木氏の話に素直に同意できないでいる。

序章で教師が構造的な状況で病んでいくことを語りながら、「教師力」という未定義の言葉を用いて、教師自身の自律的、自活的な努力が不足しているようだから、その力が落ちていると結論づけている。

生活科や総合的な学習の時間に戸惑うところが具体例としてあげられている。

受け取った感触としてねじれている。
本当か?と問い詰めたい気分だ。

いやしくも教員であったものが、その負担を想像できずに自立的努力が不足している点こそダメ教師であり、教師格差を生んでいると言うのは理解できない。
それほど教員の立場というのは事務公務員然としてきていると捉えられないものだろうか?

また、一方で教育の活動に関わる方針が上意下達で強行されている点は認めていながら、それが評価に直結する中でスポイルされた教員が増えていると捉えるのでなく、それに対向を考えていかない教師側を攻めている。

ましてやその方向の一つの具体例として、社会常識として「名刺交換」などの(単なる)スキルをとったりしているが、それこそ前時代に必要とされてこなかった慣習を踏襲しているだけで、まるで絶対的にそういった部分が地盤沈下したかのような表現はどうかと思う。

それよりも相対的にそういった部分を重要視されることが増えてきたし、そういった点をそれこそクレーマーの標的にされてきているため、負の積極性として、そういったスキル向上が求められるようになり、やはり多忙化の一助になっていると考えるべきだと私は思う。

第一章で尾木の言わんとしていることは、すべからく風評的なものを解釈しているだけであり、どういった社会を指向していくのかというビジョンに基づいた話でなく、迎合的で、教師の生きづらさを説明したものにはなっていない。
そればかりか、昨今の割れ鍋的な「教員の資質向上」に対する施策を追認しているかにも見える。

教師であれば、子どものために一肌脱ぐというのは当たり前という主張は一方で一般の教員の想いを述べているが、それが「名刺交換」や「電話応対」で語られるのは無理がある。
単純に、そういった部分でのOJTがなっていないとなれば、それこそ教委主導の研修でもすればいい。
第一、客の鞄を持てというのは、管理職の指導責任ではないだろうか?
(最近、管理職の方がそういったマナーに関して地盤沈下を起こしているとさえ私は思うのだが・・・。)

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スーツ

2007-06-13 01:46:18 | 教育
教委訪問。
教員なのだからスーツ着ろってクレームがついたのだそうだ。
いや、これは具体的には地域の人からついたのだそうだ。

諸先輩はあまり着ない。
特に女性は管理職意外、式典以外で着ている人はほとんどみない。

言ってくるのはかまわないけれど、そういうクレームを盾に若い連中を責め立てなくてもいいじゃない?
とは思う。

だって、あなた(上司)だって、若いころはもっとラフだったでしょう?
とも思う。

本当に重要なもの、ことってなんだったのかな?

ま、適当に合わせるけれどさ。
そんなにせっつかないでおくれよ。

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体育としてのドッジボール

2007-06-13 00:35:32 | 教育
昔から小学校などでよくおこなわれているゲーム。「ドッジボール」。
ボールをよけることから「避球」ともいうのだそうだ。

ドッジボール協会「ドッジボールの歴史」
を見ると、もともとは内野がキャッチ禁止のスポーツだったようだ。

一方、アホな映画ですが、「ドッジボール」。 というのも興味深かった。
これを見ると、日本で知られているドッジボールとかなり違うスポーツになっている。

ドッジボールは体育では積極的に取り上げられないスポーツだ。
これは技能面と運動量の問題と絡んでいる。

例えば合同体育でクラス対抗ドッジ大会を開いた場合、人数も多く、コートも広く設定されるため、球を避けるだけで、たいしたボール扱いの技能を習得する必要がなく、ちょいとよけているだけでゲームが終わってしまう。

つまり、ボールを扱うのであれば、他のスポーツの方がボールに慣れ、確実に技能が身に付くということになり、バスケやサッカー、その他の方が運動量も確保できるということになる。

これを解消するためには、コートの大きさ、ルール、ボールの数、ゲーム人数などを調整してゲームをしなければならない。
映画「ドッジボール」のような形態も有効だろう。
また、そのゲームのために練習を目的化し、チームへ課題を設定できなければ体育としての「学び」は成立しないだろう。

ドッジボールは手軽である。
それゆえにレクリエーションと混同がおき、体育の時間にレク的に行う教員もいるが、それは目的化されていない指導であり、時間の浪費をしていると指摘されてもしょうがない。

ドッジは、過去(45人学級などの時代)に、設備も指導も行き届かない中、仕方がなく考案・導入されたゲームでもあるとも聞く。
(ポートボールもそういった経緯があるスポーツだと聞く。)

手軽なのは利点なので、それを活かした学習を構築する手立てを講じなければならないとは思う。

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教師一人に一台パソコンってムリ

2007-06-12 23:30:25 | ニュースから
CO2削減並みにいい加減な目標設定だったからそんな程度なんだなぁ。

目標を喧伝して、やっているフリをしている政府側のいい加減さの例が「ここにも!」ってところ。
だいたいにおいて、予算の確保のメドがないのに目標を設定する愚かさといったらないね。
ハード整備なのだから、見通しを立てずに目標が設定されるわけがないし、見通しが立っていたなら非常に甘いので、担当は(よくいう民間並みならば)クビ相当だろう。

ただ、そんな中、10ポイントアップはたいしたもんだと思うよ。
シニカルなものいいとしてね。

それから数値目標ばかり設定していないで、中身を考えていないパタンもワンパタン。
政府や文科省は何を考えているのやら・・・。

ま、パソコンメーカーやソフトベンダーへの儲けを、本当に必要な教育予算よりも優先しようというのは明らかだな。

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教員のパソコン配備は43% 政府の目標遠く及ばず(共同通信) - goo ニュース2007年6月12日(火)16:51
 全国の公立小中高校の教員へのパソコン配備率は3月現在、平均43%だったことが12日、文部科学省の調査で分かった。昨年同時期に比べ約10ポイント上昇したが「2010年度までに1人1台」とした、政府IT戦略本部の目標達成は困難な情勢だ。配備率が高いのは鳥取県87%、山梨県78%、島根県70%など。低いのは大阪府26%、奈良県28%で、鳥取の3分の1以下にとどまっている。

しかし、教師一人にパソコン一台ってのは、いったいどういうイメージで話をしているのだろうか・・・。
何か役に立つとでも思っているのかしらん?(前記事と比較してもらいたい。)
現場教員の声をもっと聞いてくれよ。

USBワンセグテレビチューナーが欲しい!

2007-06-12 02:05:16 | 戯言
久しぶりに物欲です。
例えば写真のPCTV-hiwasa。

携帯でテレビなんて・・・と思っていたけれど、パソコンなら見るなと思った。
(だいたい携帯はバッテリーの問題がある)

価格も新規にテレビや携帯買う事に比べたらそんなでもない。

うーん。欲しい。
これで録画して、教材を作ってみたい。
何より無精だから、なんでもパソコンの画面でできるのはイイ!

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でも財布の紐は固い・・・。(しょぼん)

バッシングしたくないけれど

2007-06-12 00:05:32 | ニュースから
こういう研究や金の使い方は困る。
しかし、この山西という人は教育活動のイメージが貧困だなと思う。

モナリザをハイビジョンで観せる教育的な等価の何かを考えているのだろうか?
(たぶん、メーカーから金をもらっているのか、これ以後もらうのかのどちらかだろう。と勘ぐってしまう。)

だいたいあと何年か後のイメージは、近未来の優れた教育像なのだろうから、こんな阿呆な想像ではこまってしまう。
ICタグを利用して出席を確認したところで、どれほどの効率化なのだろうか?
第一、予備校などでは数十年前からカード式による出席確認をしているが、それとどれほどの違いがあるのだろう。
頭が固いのじゃないかしら?

ま、バッシングはそれぐらいにして・・・。(当人からメールでもくると嬉しいな)

教育への情報機器活用ってのは、もっと革新的であるべきではないのかな?

こんなところに金をかけるよりも、安全整備ということで、新規に校舎を建て直すとき、体育館やプールへの通路はすべて閉じた形にするとか、受付を分かりやすい集中型にするとか、そっちの方が近未来に必要だろうに・・・。
(ま、そういう研究ではないのだろうが・・・ねぇ。)

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名札のタグで出欠管理 2015年の小学校像(共同通信) - goo ニュース2007年6月11日(月)09:51
 教室のハイビジョンモニターで「モナリザ」を鑑賞、出欠は名札のICタグで管理…。情報機器を活用した2015年の小学校像を、教育研究者らでつくる文部科学省の調査研究検討委員会(主査・山西潤一富山大教授)が11日までにまとめた。政府のIT新改革戦略で「10年度までに教員1人に1台のパソコン配備」との数値目標を掲げているが、具体的な将来像の提示は初めて。しかし、こうした将来を描いても、現実は厳しい。

インサイド

2007-06-11 21:28:57 | 教育
ブログで教育の話題を書いていて、いつも気になるのがインサイドの問題。

インサイドの問題をインサイドの人間が語るのは偏りがあるし、一般に受け入れられない部分があり、ひいてはインサイドの信用を落とすことになりかねない。
そういう論理。

でも、そうだろうか?
インサイドを理解するための一つの材料になれば、それはそれで活きるのではないだろうか?

「当事者が絡んでいるから信用を落とす」はその通りだが、当事者も含めて考えていかないから自浄作用が働かないというのも理屈だと思う。
(どっかの保守政党なんてそのいい例)

「信頼関係」というのは、インサイドとアウトサイドの境界に目を向けさせることからしか始まらないと思う。
そう強気でいる今日。

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ただ、私は戦線を離脱気味であるのは認める。
匿名であるし、私に関わる当事者からの発言をセーブしようとしているし・・・。

でも、生き抜かなければね。