今日は出張だった。
帰りにバスに乗ったのだが、丁度、地元の養護学校の生徒数人と乗り込んだ。
彼らの話はくったくのない調子で、優しい世界が広がっているように感じられた。
ふと窓の外を見ると、同じような制服の子どもが歩いていた。
B男「あ、A君。歩いているね。」
C男「本当だ。A君はなんで歩いているのだろう。」
B男「そうだね。なんでだろう。」
C男「彼はバスに乗らないで歩くんだよ。駅まで乗らないんだ。」
B男「バスの方が歩くよりも早いのにね。」
C男「そうだよね。場合によっては歩く方が早い。だけどバスは楽だよ。」
B男「バスに乗ればいいんだよ。なんでか聞いてみたいな。」
話はなんだか少し食い違いながらも延々と続いて行くように思えた。
とうに歩いていたA男は見えなくなっているのに・・・。
B男「あ、図書館。ここのカードをもっているからよく借りるんだ。」
C男「そうなんだ。ぼくもカードをもっているよ。授業で調べた本もここで借りた。」
B男「君は家に帰って何をする?」
C男「宿題して、お手伝いして、ゲームする。」
B男「本は読むか?ぼくはよく読むんだ。」
C男「すごいね。ぼくは読まない。・・・いや、ぼくはたまに読むよ。」
B男「文学は読むかい?」
C男「読まない。」
B男「ぼくは太宰治や芥川龍之介を読む。」
C男「すごいね。ぼくは新約聖書を読んでいるよ。」
B男「うん。ぼくは文学が好きなんだ。」
彼らは目を合わさないで会話をする。
でも、お互いを受け止め合って話している優しい声が響く。
相手の言っていることが少々わからなくても相づちを打ち、話を合わせるかのように話題を自分なりにつなげる。
この子たちと一緒にいると楽しいだろうなと思った。
私はどういう文脈で彼らの話を聞いたのだろう。
帰りの電車で考えてしまった。
おそらく私が彼らのような話でコミュニケーションをとった場合、現時点での人間関係は成り立たなくなるだろう。
幼い息子達が、自分のタイミングですり寄ってきたり、勝って放題にふるまったりすることも思い出した。
それでも受け止められるのだ。
そう漠然と考えた。
だれもが信頼し合って過ごすというのは、きっと楽なことなのだと思う。
彼らの会話で、そばで思わず吹き出しそうになったのは、鳥(キビタキ)の写真をつかったCMポスターを指差して、
「この鳥、何?」
「・・・カワセミだよ!」
「そうか!すごいね君。」
「うん。有名だよ。」
鳥はキビタキと脇に書いてあった。
が、そのすぐ近くにカワセミクラブとも書いてあった。
どこに視線が言って話が成立したのかわかり、なるほどと思った。
もちろん、これも視線を合わせずに話合っていたので、言葉の抑揚が不思議な響きで、ユニークだなと感じた。