怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

教師格差(角川Oneテーマ21)尾木直樹2007.06.10その2

2007-06-16 17:12:36 | 教育書
結局、尾木氏はどういう支点をもっているのだろう。
立脚する部分が風評なのか、社会学的な視点なのか、労働学的なのか、なんなんだろう。
そういう疑問とともに読み進め、終わった。

第一章では、ほぼ教師力は落ちたと指摘している。
しかし、第二章では、一転して教員側に同情する言葉で締めくくられる。
第三章以降もそういった言葉を決してはずさない。
私が第一章で感じたねじれた違和感はなんだったのだろう。

思うのだが、尾木氏思想的な部分の根底には、教師や保護者、地域などが教育活動のためにほう起することを狙っているのではないか?

これはプロ教師の会の諏訪氏の主張を思い起こさずにはいられない。
>尾木の立脚点を革命前提と断じ、背景には尾木独自のユートピアがある
と私は彼の「尾木氏批判に関する主張」をまとめたことがある。

また、同時に、私自身の尾木氏評価は
>私は尾木さんの主張は好きであるが、どうしても最終的に踏み込みばのない論になる点に違和感を持っていた。
と書いた。

今でのその感触はかわらないのだが、ここにきてはっきり思うのは、第一章での尾木氏の主張は教師の弱体化を詰ったものではないだろうか?

(1)「問題教師」が出現する一方でそれに対向する人材の出現や育成ができない無責任な現場意識
(2)「敬語」を使えない、一般的な電話の応対もできない教員文化のレベルの低い部分
(3)「生活科」や「総合的な学習の時間」のカリキュラムをつくれないプロとしての能力を問われる教師
(4)更に追い打ちをかける教員採用試験倍率の低下による優秀な人材確保の問題。
そういったこと一切合切を「教師力が落ちた」といい、それは教員側の問題なのだといっているように読める。

だが、逆に読むと、
(1)「問題教師」出現に対応するシステムをもっていなかったことや、そういった現状認識に対応するだけの余裕を与えられていない教員像も浮かび上がる。
(2)小学校教員に名刺を持たせる意味はあるのか?
   他の職業と比して、そういった普段用いられない常識を教師側に押し付けるようなことをいうだけで対策がとれるというのか?
  そういった疑問がわく。
  もっというと、都研の企画する研修では、「教師力基本」の集中研修があるが、それはまさに尾木氏のいう「敬語」やら「礼の仕方」やらの研修だ。教師の要望と合わず、研修を途中でやむなく離脱する人や、苦々しく終える人が続出する。
  形も大事ではあるが、ではそういった間接的な部分にかんして、どういうモチベーションを設定できるのかも言及してもらいたいものである。
(3)「生活科」や「総合的な学習の時間」への現場批判はもっとも忌むべき問題だ。
   全国的に混乱をまねいたのは、その学習に対する意図が読み取り難いだけでなく、保護者・地域からの理解も得られなかったり、意図が二転三転したりしたことが大きな背景としてある。
   第一、週三時間の設定を与えられたとき、どの教師でも当惑するのは必死と考えられないようではダメである。
   現場に対してなんのサポートもなく行った施策の失敗を丸投げするような姿勢はいただけない。
(4)尾木氏も、ここまでは現場の責任とはいっていない。
   大問題は教員免許更新制度という馬鹿げた施策である。

私は教員文化的なものが最高にいいとは思わない。
が、十把一絡げで改革を求めるのはどうかと思う。
そして、それ以前に、教員文化のいい部分はすでに崩壊しているということだ。

「敬語」「電話応対」の問題などは、私にいわせると、ヒエラルキーの構築によって現場環境が分業というなの分断が行われ、それぞれに干渉することをすでにやめてしまっている中ではだれも指摘などしないのだ。
それは外的に作られた環境であって、内部改革を求めてもすでに勝敗は決している雰囲気でダメなのだ。

では「研修」で、という話になるだろうが、それもダメだ。

教師(教員)自身が自立し自律した教育活動を行っているという意識が下がっている。
労組もない、職員会議もない、研修ペーパーは教委のチェックにもれなければいい程度(下手すると研修者の名前だけ違う中身はコピペのペーパーが流れているかも)で火の粉がかからなければいいという具合になっている。
そういうことなのだ。

実は「教師力が落ちた」というのは、そういうことかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログへ

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。