スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(マルクス)

2018-04-26 16:47:37 | 日記
4月26日(木)
 マスゴミや野党それの御用学者たちは、大きな目で見れば中国と韓国の御用聞きを務めているのだが、彼らがそれに甘んじている理由が二つある。一つはそれで食っているという経済的理由だ。今更転職して、よい食い扶持にありつけるとは思えない。
 二つ目が精神的理由で、俺は人類の為になる方向に向かって運動しているという、自分への言い聞かせである。その根拠がマルクス主義に沿っているという、最早彼ら自身も本当には信じていないだろう表看板である。ソ連が崩壊しキューバもアメリカの軍門に下り、中国は国家資本主義とも言うべき姿に変身をしてしまった。マルクス主義は現実的に破綻したが、どっこいしぶとく、二つの形で現在に生き延びている。
 一つは、歴史はマルクスの言う通りには進まなかったが、資本主義を解剖し階級を洗い出し、その帰結として共産主義社会を唱道したことは正しい。計算機だって初期のものは重すぎて今のように掌サイズで使うことは出来なかったではないか。共産主義社会への移行も、同じように試行錯誤を繰り返して見つけてゆくものであって、マルクスは当時の歴史段階にあって間違えたに過ぎない、そういう負け惜しみである。
 二つ目はこれを簡便化した、人間は理想に向かって突き進むべきものだとの、弁解的な自己満足感である。ならばマルクス主義でもなくどんな主義でも、新興宗教だって理想に突き進むことを掲げているのだから、何でもいい事になるのだが、理想と言葉では言っても実際には共産主義であるのだ。この二つの違いは多少とも学問的体裁をとるか、無頓着に今経済的利益があるのだからやって行こうという感覚との、差である。
 こう書くとマルクス主義など惨めなものに見えるが、人々はそこまで突き詰めて考えていない。ぼんやりと、マルクスの名を出すのは憚れるが、捨て難いものがある、そんな朦朧とした感情の中に居るのだ。だからソ連が崩壊して四半世紀以上たっても思考が進歩しないのだ。だからマルクス主義に引導を渡すことはやはり、まだ、重要なのである。
 マルクス経済学はアダム・スミスと同じ古典派経済学に過ぎないと、はっきり断定すべきものである。マルクスの価値論は商品が希少であった時代に通用した理論である。今や価値とは使用価値だけとなり、価値の産出は労働時間の長さなどとは関係のない、創意工夫と技術の蓄積に依っている。そうなると労働による価値の産出と資本財の所有によって区別されていた階級概念も怪しくなる。プロレタリアートとは別の価値産出層が出現し、彼らの動向こそが社会変革の主要なパワーとなっている。歴史がさらに進めば別の層に属する人々が出現するかもしれない。だから旧態依然として組合員をプロレタリアートとしか見なさない連合は、組織率を大きく減らしている。だから連合は社会主義を標榜する野党を支持して、小西などのシーラカンスを生きさせている。しかし人々がもう少し真面目に考えれば、連合は消滅するだろう。
 理想社会は追及すべきものだが最早弱小階級となったプロレタリアートが権力を握って、実現できるとはとても考えられない。階級闘争とかまず国家権力を倒してとかの方法論は、鉄器時代に石器の斧を持ち出すようなものだ。理想社会はそんな古びた方法で実現出来るものではない。マルクスは博物館において、現実に向き合って、深い思考を巡らさなければならないものだ。

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