スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(撫順戦犯収容所)

2024-07-11 11:40:15 | 日記
7月11日(木)
 撫順戦犯収容所は1950年(昭和25年)に始まり、1956年(昭和31年)の日本人戦犯帰国によって終わった。その後普通の刑務所になったのかどうかよく分からない。大東亜戦争は昭和20年に終戦を迎えているから、日本人戦犯はまずソ連に5年間捕らえられ、それから撫順に移され、さらに6年間収容された訳である。
 私はこの撫順収容所の日本人捕虜に対する扱いが、どうしても理解できなかった。中国人は残虐な民族であるというのが私の認識だ。その例は本当に歴史上山のようにある。しかしこの撫順戦犯収容所に限っては強制労働もなく、殴打を伴う尋問とかも一切なく、戦犯の食事は中国人看守よりも良かったとの話を聞く。何で日本人をこんなに優遇するのかとの怨嗟の声が上がっていたそうだ。
 ここの戦犯は帰国して中帰連を作っているのだが、初代会長の藤田茂(捕虜時師団長)は死亡の時、中山服を着せてくれと家族に言ったとのことだ。つまり心から中国に帰服していたという事だ。まあネットで拾い読みをするばかりだが、その他の人達も似たような告白を残している。待遇は良く、鉄拳で強制されて戦争犯罪を告白したものでは、どうやらないらしい。中国側の暖かい配慮により、侵略国の兵士としての罪を、自覚した、収容所で私は真実に目覚めたとの類の言葉が並んでいる。
 もちろん収容所の目的は日本人戦犯を洗脳して、彼らが日本に帰国してから、中国の為に働いて呉れるようにする事であった。これはソ連も同じである。ソ連はアクティブを作りスターリンへの感謝状を書かせたから、そして日本人は帰国船への乗船時、天皇島への敵前上陸をしますと威勢よく誓ったから、ソ連の為に働いて呉れると信じたが、その期待は船が日本海を越えると藻屑のように消え去るしかなかった。吊し上げを食らった元アクティブも居たようである。
 それに比べて中帰連の人達は心から中国に帰依したようである。だから6年間という長期の収容期間を要したのであろう。ソ連も中国も日本人を洗脳したのだが、ソ連は暴力を振るう速成方式だったので、洗脳は日本の土を踏んだら数日で溶けてしまった。撫順では洗脳は極めてソフトに行われた。だから死んでも溶けなかった人も居たのである。この洗脳は撫順の奇跡として、中帰連の人が死んだ後、その奇跡を受け継ぐ会と称する人たちに継承されているようである。しかし私は奇跡でも何でもないと思う。今の日本だってシバキ隊とかコロナ陰謀論とか幾らでも偏向した連中が出ているだろう。別に彼らの行動を縛ったり強制したりしたから、彼らはそのように偏向したのではない。現代日本でも情報を絞り、彼らの心を一方向だけの関心に向けさせれば、洗脳は可能である。撫順収容所がいくら自由で待遇が良かったとしても、戦争犯罪を犯したと告白しなければ、釈放されることはなかった。その点の強制には、きついものがあったと思う。皆、私はこれこれの戦争犯罪を犯しましたと告白しているらしいが、やってもいない事を書かされているように思えてならないが、つまり強烈な同調圧力(アクティブへの迎合とは種類の違った)がかかった結果のように思うが、まだ私の知識ではそれ以上詳しい説明は出来ない。
 ただ私が不思議に思うのは、どうして残忍を宗とする中国社会で、こんなソフト洗脳路線を取る事が可能であったのかという、疑問である。確かにソ連の洗脳は一日で溶けてしまったから、やり方を変える必要があるとは、思ったであろう。しかし6年間もかけるソフト洗脳路線は、中国人の伝統にないもののように思う。現に10年後に起こった文化大革命では、旧思想の解除と称して、残忍な吊し上げが横行したではないか。これが中国人に相応しいやり方である。このソフト路線は周恩来の指示で行われたと書いてあるが、もし洗脳が上手く行かなかったら、周恩来は責任を問われたに違いない。だからなぜ周恩来がそんな危険を冒したのか分からないが、年表を見ると確かに撫順戦犯収容所は、周恩来が居たからこそ成り立ったように思える。
 撫順戦犯収容所は1950年(昭和25年)から1956年(昭和31年)の間に存在している。毛沢東が絶対的権力者になったのは、実は反右派闘争に勝利した、1957年(昭和32年)からである。1949年(昭和24年)の中共建国以来毛沢東は国家主席、周恩来は国務院総理となったが、両者の力関係は以後のように隔絶したものではなかったようだ。周恩来は毛沢東(それ以外の多くの幹部連中)とは違い、日本とフランスに留学している。又南開大学というトップクラスの大学の一期生でもある。延安の田舎から出てきた中国共産党の荒くれ連中の中で、唯一の知識人であったように思う。だから周恩来は単なる共産主義者とは違った、ヒューマニズムの心得のある人だったと思うのだ。また西安事件で蒋介石を説得し、最終的に中共を勝利に導く端緒を開いた、大功績者でもある。この時期の外交政策はほとんど周恩来が決定していたように想像する。
 日本とフランスに留学経験のある、周恩来が権力を持っていた時だからこそ、中国史の例外として、撫順戦犯収容所が存在し得たのかも知れないと考えて、私は納得したのだ。
 そう考えるとその後の周恩来の人生を、本人にはさぞ不本意なものだったろうなとの、同情が湧く。権力を握った毛沢東はご存じのとおり1958年(昭和33年)から大躍進政策を推し進める。これが大失敗して一旦は失脚するが、権力亡者さながらに蘇り、1966年(昭和41年)より、有名な文化大革命で劉少奇に対する逆襲を始めた。知性派であった周恩来には何とも理解のつかない不合理且つ暴虐極まりない騒動であった事だろう。しかし周恩来は毛沢東に跪き、文革を受け入れた。どういう心境であったのだろうか。周恩来は文革の終焉を見ることなく死に、その数か月後に毛沢東も死んで、文革はやっと終わった。せめて毛沢東の後に死んでいれば、死に際は、少しはすっきりした気分に浸れたろうにと、想像する。
 






 






2 コメント

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洗脳の結果 (野々花)
2024-07-11 19:22:57
>現代日本でも情報を絞り、彼らの心を一方向だけの関心に向けさせれば、洗脳は可能である。<

まさにまさに、これこそが、政府・官僚・マスゴミによって洗脳され、82%の国民が我も我もと争って、毒ワクチンを接種する結果となりました。
そのかげで、毒ワクについて警告する人たちに、どれだけの言論弾圧がおこなわれたことか・・・
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洗脳はとけない (野々花)
2024-07-11 19:26:40
その結果、
毒ワク接種者の血液を輸血すると、輸血された患者に血栓が生じる問題が浮上・・・
これからさらに、もっともっと、とんでもな
い問題が発生することでしょう。
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