6月4日(日)
今まで「わび」とか「さび」について全く考える事はなかったが、最近これが日本文化の一つの柱なのかなあ、特色と言える物かなあと、考えるようになった。
「わび」「さび」とは何かと問えば、荒涼とした風景、朽ちた家屋などのように、人工的な手入れがされていない姿の事物である、と答えられよう。これは目の前の自然だけでなく人間生活の分野にも及んで、堅苦しい役人生活の放棄とか出世競争を拒否した悠々自適の生活態度(つまりは規則とか習慣とか陰謀などの人工的な営みに縛られない)とかにも、見られる所である。
これを日本人は愛でるのであるがひとつ前提がある。それは荒涼とした風景、朽ちた家屋、隠遁生活などが、それなりの一定の秩序を維持していて、美を感じさせるものでなければならない、という事である。鉱石を乱掘したまま放置された鉱山とか、スラム街とか、酒乱の毎日とかは、如何に人工的な手が施されていないとはいえ「わび」「さび」とは認められない。「わび」「さび」は決して剥き出しの自然とか人間の生のままの生存状況を、意味しない。日光東照宮のような建物とか、権力者の権謀術数とかの人工物よりも一段下がるが、一応風雪に耐えている建物とか、世の中の酸いも甘いも嚙み分ける知性ある隠遁生活とかの、人工物の残滓とでもいうべきものに、裏打ちされているものなのである。そこに日本人は美を感じるのである。
だから人工物の構築から離れた老人でないと、「わび」「さび」の良さに、理解は行かないと思う。
思うに日本の老人は昔から幸せだったのだと思う。或いは現役を引退しても一定の生活が保障されていたというべきか。人工物を構築する場から離れても、「わび」「さび」という形で別の方向に人工物を伸ばして行けれる、余裕があったというべきか。
外国の老人がどうであるかは全くの無知であるが、あまり「わび」とか「さび」に類する話を聞かないので、案外現役を終わったらそれまでという生活ではないのかと考える。もし「わび」「さび」が私の考えるように老人なりの人工物の追求だとしたら、日本の社会は二種類の努力に包まれているという事になり、それはかなり強固な社会なのではないかと思う。
今まで「わび」とか「さび」について全く考える事はなかったが、最近これが日本文化の一つの柱なのかなあ、特色と言える物かなあと、考えるようになった。
「わび」「さび」とは何かと問えば、荒涼とした風景、朽ちた家屋などのように、人工的な手入れがされていない姿の事物である、と答えられよう。これは目の前の自然だけでなく人間生活の分野にも及んで、堅苦しい役人生活の放棄とか出世競争を拒否した悠々自適の生活態度(つまりは規則とか習慣とか陰謀などの人工的な営みに縛られない)とかにも、見られる所である。
これを日本人は愛でるのであるがひとつ前提がある。それは荒涼とした風景、朽ちた家屋、隠遁生活などが、それなりの一定の秩序を維持していて、美を感じさせるものでなければならない、という事である。鉱石を乱掘したまま放置された鉱山とか、スラム街とか、酒乱の毎日とかは、如何に人工的な手が施されていないとはいえ「わび」「さび」とは認められない。「わび」「さび」は決して剥き出しの自然とか人間の生のままの生存状況を、意味しない。日光東照宮のような建物とか、権力者の権謀術数とかの人工物よりも一段下がるが、一応風雪に耐えている建物とか、世の中の酸いも甘いも嚙み分ける知性ある隠遁生活とかの、人工物の残滓とでもいうべきものに、裏打ちされているものなのである。そこに日本人は美を感じるのである。
だから人工物の構築から離れた老人でないと、「わび」「さび」の良さに、理解は行かないと思う。
思うに日本の老人は昔から幸せだったのだと思う。或いは現役を引退しても一定の生活が保障されていたというべきか。人工物を構築する場から離れても、「わび」「さび」という形で別の方向に人工物を伸ばして行けれる、余裕があったというべきか。
外国の老人がどうであるかは全くの無知であるが、あまり「わび」とか「さび」に類する話を聞かないので、案外現役を終わったらそれまでという生活ではないのかと考える。もし「わび」「さび」が私の考えるように老人なりの人工物の追求だとしたら、日本の社会は二種類の努力に包まれているという事になり、それはかなり強固な社会なのではないかと思う。
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