スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(マックスウエーバー)

2018-12-13 13:34:15 | 日記
12月13日(木)
 古い新聞記事はとっておくものだ。平成14年の中日新聞に、羽入辰郎さんの寄稿文があった。採ってあったということは当時関心を持ったからだろうが、すっかり忘れていた。忘れていたものでも再見すればなにがしかの記憶の断片が蘇るものだが、それさえもない。もし今日他の新聞に寄稿文が載っていて読んだとしたら、今日が初見だと記憶してしまうことであろう。
 寄稿文の内容は、ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、ウエーバーがでっち上げた資料に基づいて、書かれているというものである。吃驚してネットで検索してみたが、どうも事実のようである。反論としては、資料の不透明さは仮にそうだとしてもウエーバーの卓見は色褪せない、そんなものである。更に東大学派からの羽入さんへの出版妨害もあったようで、まるでマルコポーロ日本版といったところである。
 私も若い頃に「プロ倫」は読むべき本だ、世界が分かる本かも知れないと期待して、一応読んでは見たが、さっぱり分からなかった。資本主義という社会制度も、決して経済的要請だけから発生するものではなく、人間の思考形態が作用してこそ出来るものだ、そんな事が言いたいのだろうとは見当づけたが、具体的にプロテスタンティズムがどう資本主義の形成に作用したのかという肝心の所は、何度読んでもさっぱり分からなかった。でっち上げた資料に依っていたのだとしたら、ウエーバーに自分の考えを同調させない限り、分る筈もなかったことだ。
 大学時代に、社会科学なんて科学ではないですよ、と言う先生がいた。何を老いぼれがと反発を覚えたが、今では先生が正しかったかもしれないと考えるようになった。この本もウエーバーの思想書だと思えばよい。ほかの人より多少広く世間を見て帰納したことを、科学と称して発表したのであろう。もし社会事象を完璧に帰納することが出来ればそれは科学と呼んで差し支えないと思うが、恐らくその帰納物は全く読むに堪える論理性を持たない、茫漠としたものになってしまうのではないか。社会科学者と称する輩は人を感心させる理論を導くために、世界の事柄から種々の帰納をする。その帰納物を叙述発表することが命なのだから、広い世界には何処かで叙述物と矛盾する事柄も出てこよう、従って一定の所で資料の無視とかでっち上げに走らざるを得ない宿命を持っている存在なのではないか。だからこれは俺が世界を見た感想文だと言っておくのが、本当の学者というものかもしれない。
 「プロ倫」に関しては、もし本当にウエーバーが資料をでっち上げて結論を導いているとしたら、その結論は信用できない、もしくは、西洋の資本主義形成は結論の通りらしくに一見見える、そう評価しなおすのが正しいと思う。

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