ベランダにスズメの死骸があった。
よく見ると、
頭にケガをしていた。
猫か大きな鳥か襲われたのだろう。
そして、大地一人がたまにスズメに餌をやっているので、
ベランダに逃げ込んできたんだろうか?
なんか、愛しかった。
遺体を何重もの袋に丁重に包んだ。
どんな生き物もいつかは死を迎える。
ベランダにスズメの死骸があった。
よく見ると、
頭にケガをしていた。
猫か大きな鳥か襲われたのだろう。
そして、大地一人がたまにスズメに餌をやっているので、
ベランダに逃げ込んできたんだろうか?
なんか、愛しかった。
遺体を何重もの袋に丁重に包んだ。
どんな生き物もいつかは死を迎える。
今日は天赦日という吉日だが、
そもそもこの世は勝ち負けの世界。
万人にプラスの日ということはありえない。
しかし、どんなに悪い日でも、
気持ちの持ちようで、
毎日を天赦日とすることができる。
それは天=神様を毎日毎秒信じることだ。
毎日を、天赦日(てんしゃにち)にしましょう!
男と女、どっちが、相手を求めているか?
大地一人、間違いなく、女だと思う。
確かに男は、女を求める。
しかし、かなりは肉体的なものだ。
もちろん精神的に女性を求める場合もあるが、
肉体の割合が大きいだろう。
ところが女性の場合は、
心も体も男を求めている。
女にとって「男は本源的に必要なものなんだ」と思う。
たとえ一人で暮らしていても、
「心の支えになっている男はいる」と思う。
(もちろん、そうは思わない女性もいますが、少数派でしょう)
逆に男にとって、「女は、必要な存在ではあるものの、
本源的に必要とまでは言えない」と思う。
たとえば、ある死刑囚に対して、
裁判官が「生かしてやるから、無人島で一人で生きよ」
と言われると、
男は「ま、仕方ないか」と思うだろうが、
女性は、「え?たった一人で?無理・・・」と思うんじゃないだろうか?
グアム島で、残留日本兵の横井庄一さんは一人で生きていたが、
あれが女性なら、まず無理なんじゃないだろうか?
碓井真史教授は社会心理学の専門家ということであるが、
彼の文章を読むと、
大変申し訳ないが、
「頭の悪い心理学者の見本だな」と思った。
これは決して、彼を貶めるためではなく、
こういう間違った見方で社会が動いてはたまらん
…と思うので、
面倒くさいが、反論を書くことにしました。
彼は「土俵に女児を上げないのは偏見差別の見本:男と女の社会心理学」
と言う文章の中で、
「男女差よりも、個人差の方が大きい」ので、
女児も、土俵に上げるべきだ
・・・と言っている。
しかし、世の中と言うのは、
明確に、男女差で動いている。
男女は体の作りが違うのは当然として、着るものも違うし、
声や髪型や化粧や言葉遣いも違うし、
会社でも学校でも病院でもホテルでもトイレもお風呂も、
遊び仲間も、全部、区別されている。
戸籍や免許証などの書類でも、
ほぼ必ず「男女の別」が書かれている。
スポーツもほぼすべて、男女別である。
(馬術だけが例外)
ちなみにヨーロッパの多くの言語では、
男性名詞、女性名詞と分かれている。
碓井真史教授は「男女差はあるものではなく、作るもの」
と言っているが、以下の事実はどうするか?
「なでしこジャパンの実力が、日本の男子中学生より弱い」
「五輪における羽生選手の317.5点とザギトワの239.57の違い」
「重量挙げの記録では、69キロ級で、男子:359キロ、女子:286キロ」
「日本の職人やエンジニアの数は、女子が圧倒的に少ない」
「将棋の世界では、女子は、一人も、実力4段以上がいない」
・・・という厳然たる事実は、やはり非常に重い。
また女子グループの中でも、
個性は決して重んじられるのではなく、
「女性はかくあるべし」
というルールがあり、
たとえば、あるお母さんが言っていたが、
「うちの娘は中一だが、胸は全くのペシャンコ。
なのに学校からは、ブラジャーを着けるように言われている。
全くのペシャンコなのに、ブラジャー・・・なんか変な気がする」
と画一ルールの犠牲になっている。
また世の中は、原則論だらけで、
「6歳で小学校入学」
「18歳で成人」
「65歳で年金もらえる」
「小中学生には落第ナシ」
…と言うように決まっている。
個性で決まるのではない。
外国に行くにも、
「日本人はアメリカにはビザなし、インドはビザ必要」
・・・と決まっているのであって、
個性で決まるのではない。
道徳や観念でも、
「女性の体(特に顔)は傷つけてはならないもの」
という原則も根強い。
そして、もう一つ。
世の中には、子供たちや女児への禁忌は山ほどある。
「他人の家に入っちゃいけない」
「スーパーでは、目の前に美味しい食べ物があっても、
食べちゃいけない」
「授業中は大きな声を出しちゃいけない」
女の子なら、
「胡坐をかいちゃいけない」
「むやみにパンツを見せちゃいけない」
「女の子らしい言葉遣いをするように」
そういう山ほどある禁忌の中で、
「土俵に上がれない苦痛」は、
まったくもって、取るに足らないものだろう。
さらに、もう一つ。
世の中を動かしているのは、
理論ではなく、「責任論」である。
「誰がどう責任にを取るか?」
・・・これが最も重要な問題なのだ。
たとえば、女児をケガさせた場合、
どのように責任を取るか?
・・・相撲協会はそれを言っているのだ。
碓井真史教授は学校中心の生活なので、
実際に、世の中がどのように動いているのか、
全然わかっていないようだ。
こういう愚かな人の理想論を聞くのは、
一般日本人にとって、苦痛だし、害悪だろう。
正直、世の中を知っている人にとって、
彼の論文には、失笑を禁じ得ません。
そこで、教授には、申し訳ありませんが、
怒り&忠告の文章を書かせていただきました。
ただし碓井教授の言うことも、
正しいところは、少なからず、ある。
たとえば・・・
女性を劣ったもの・・・というのは、絶対に間違っていて、
いかなる場合も、男女は平等である!
男女の違いとは、かなりの部分、役割の違いだからである。
また最初から「これは女性には無理だ」
と限界を決めつけるのも間違っている!
「どうしてもしたい」という女性がいれば、
たとえ不器用でも、
できるだけ、女性たちに、チャンスを与えてあげるべきだ。
ただ女児が土俵でケガしたらどうなるか?
セクハラなどと言われたらどうなるか?
・・・などを考えるとき、
女児禁止は、相撲協会が決めることだ。
なぜなら責任を取るのは、相撲協会だからだ。
手っ取り早く言えば「部外者は黙っていろ」というわけだ。
碓井教授は、「相撲をやっている女子もいる」と言っているが、
相撲協会は、「一般的な女児をダメ」と言っているわけで、
そもそも「相撲をやっている女子」なんて、
滅多にいないではないか!
1%もいないだろう。
学者はすぐに例外的なことを持ち出す。
「世の中は全体として、どのように動いているか?」
・・・が一番大切なのです。
いろいろ書きましたが、
碓井教授の言っていることは、
申し訳ないが、
20代のウブな若者が言っているようなことで、
話になりません。
だから大学教授は「世間知らず」とバカにされるのですよ。