日本の陰謀より転載しました。
http://park.geocities.jp/j_con4/0204/p047.html#page307
◆ このブログの管理人は、フィクションもありと書いていますので、そのつもりで読んでください。でも、フルフォードの情報と一致するものです。私はこれが真実かどうかは、DNA鑑定しかわからないと、思います。そのように主張しているとしても、それが真実かどうか、今までどれだけ乗っ取りがあったか調べて来たので、すぐさまこの話を信じるわけにはいきません。
マッカーサーが上陸してすぐに、日本のピラミッドや、古墳の内部を調べたりしていたことは、確かなようです。歴史は嘘にまみれている。しかし誰かが調べてもいる。利用しているものもいる。と思います。
真実はそのうちに明らかになると思います。天皇家が、ユダヤ人であるというビデオがたくさんでていますが。そういう策略もあるのです。何が本当なんでしょうね?朝鮮人なら、わかるはず?
気になったのは、赤字にした部分で、今、まさにそのような時です。しかもネパールでの大地震。
|
古代エジプト王朝 画像 ラムセス2世 スエズ運河 画像 |
これは何も不思議なことではない。数千年の王朝の支配者階級が互いに広大なネットワークを築くことは当然のなりゆきだった。民族が淘汰される時、その伝統は中央ではなく、片隅に残る。アイヌ人の伝統が日本の南北の両端に残ったり、イギリス人の伝統がニュージーランドに残ったりするのと同じように、古代エジプトの伝統をかたくなに守り通したのは天皇一族だった。 |
パナマ運河 シベリア鉄道 日露戦争 日本海海戦 画像 |
1858年12月15日 スエズ運河会社が設立される。日付は、徳川家康の記念日に基づいた。着工は1859年4月25日と決まった。これは、平家が滅亡した壇ノ浦の合戦の1185年4月25日と、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日の1199年(皇紀1859年)2月9日を記念したものだった。
徳川幕府は、この大規模な投資と工事に際して、前年の1858年列強各国と通商条約を結んだ。しかし、この大規模な陰謀が発覚して天皇に容疑がかからないように、安政の大獄を始めたり、十三代将軍 徳川家定や薩摩藩主の島津斉彬なりあきらなどの要人が死亡した(姿を消した)。これで国内の体制は出来上がった。
10年後の1869年11月17日スエズ運河は開通する。この日は、将軍徳川慶喜の大政奉還から2年目だった。結局、日本は、スエズ運河工事の大事業に際して、万一失敗したら道義的な問題も経済的な問題も江戸幕府に押しつけてうやむやにするつもりだった。しかし、工事自体は順調に進み、その意味では明治維新は役に立たなかった。だが、実際に王政復古を成し遂げると、それが、思ったよりも天皇・徳川一族に心地よいことが徐々にわかってくる。
日本が政権交代でごたごたする時、その舞台裏ではとんでもない陰謀が実践されている場合が多い。
事件 | 関連事件 |
---|---|
スエズ運河会社設立 (西暦 1858年12月15日) (旧暦:1858年11月11日) |
■平将門の乱。 ■元禄赤穂事件。 ■大坂冬の陣。 |
スエズ運河着工 (西暦 1859年4月25日) (旧暦:1859年3月23日) |
■壇ノ浦の合戦。平家一門が滅亡。 ■(死亡)源頼朝、鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 ■鎌倉大仏(鎌倉高徳院の大仏)の建立開始。 |
スエズ運河開通 (西暦 1869年11月17日) (旧暦:1869年10月14日) |
■徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言する。 |
■ 埋蔵金の威力
日本は、軍資金の保管については超一流だ。戦争の準備資金は、国内には置かない。戦争の相手国に「埋蔵金」を置く。とんでもない発想だが、古代から現代まで使える卓越した戦術だ。国内の紙幣・債権・財宝は、国境・海上を封鎖されると無価値になる。それに比べると、敵国内のスパイが管理する埋蔵金は、敵国の武器弾薬に変えていつでも入手することが出来る。しかも、戦争に負けても、戦勝国の通貨で持っているため、損失を帳消しに出来る。
徳川幕府は、フランス革命を通じて、特に、フランスに膨大な埋蔵金を置いた。その原資は、金・銅・醤油などの輸出を当てた。当時は相当な貿易黒字であったことは間違いないだろう。
スエズ運河の資金は、ほとんどフランス国内からの調達だったが、徳川幕府の自作自演であったことは間違いない。そして、以後の通行料金は、全て日本に流れ込んできた。と言っても、埋蔵金だから、フランスやスイスなどに保管された。
■ エジプト古代王朝の運河
スエズ運河の工事は、近代文明の成果と思う人も多いだろう。だが、スエズ運河は古代エジプト時代にも作られていた。技術的にはそれほどの大事業ではない。
■ 岩倉使節団
スエズ運河開通の2年後、1871年11月20日、日本は岩倉使節団を欧米に派遣する。日付は、モンゴル帝国を記念した。もちろん、開通直後のスエズ運河を通過した。しかし33年後、ロシア・バルチック艦隊はスエズ運河を通らず、アフリカ最南端の喜望峰を迂回した。
■ バルチック艦隊
日露戦争は八百長だった。ここでは、日付のしりとりを取り上げる。詳細は別に述べる。
西暦 | 1903年12月14日 1903年12月17日 |
★ライト兄弟が動力航空機による3秒間の飛行に成功。 ★ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功(公式発表)。 |
旧暦 | ★日本はロシアに、2月2日を期限として、最後通牒を発する。 ★日本の最後通牒に対するロシアの回答が、駐日ロシア大使館に届かず。 ★日本政府は日露戦争開戦を決意する。 |
|
西暦 | 1904年1月31日 1904年2月2日 1904年2月3日 |
|
旧暦 | ★日本で最初の捕虜収容所が松山に開設される。 | |
西暦 | 1904年3月18日 | |
旧暦 | ★第三次旅順港閉塞作戦(日本海軍・日露戦争)。 | |
西暦 | 1904年5月3日 | |
旧暦 | ★フィンランド総督ニコライ・ボブリコフ暗殺事件。 | |
西暦 | 1904年6月16日 | |
旧暦 | ★ロシアのプレーヴェ内相暗殺事件。 | |
西暦 | 1904年7月28日 | |
旧暦 | ★ラサ条約が英国とチベット政府との間で締結される。 | |
西暦 | 1904年9月7日 | |
旧暦 | ★バルチック艦隊がアジアへ向けてリバウ軍港を出港(日露戦争)。 | |
西暦 | 1904年10月15日 |
西暦 | 1905年1月11日 | ★バルチック艦隊の支隊がマダガスカル島で本隊と再合流。 |
旧暦 | ★連合艦隊旗艦・戦艦三笠は呉を出港、バルチック艦隊との交戦を前に、 対馬海峡で訓練を行う。 |
|
西暦 | 1905年2月14日 | |
旧暦 | ★(誕生)アルベルト・シュペーア、ナチス・ドイツの建築家、政治家。 | |
西暦 | 1905年3月19日 | |
旧暦 | ★フランス社会党が結成される。 | |
西暦 | 1905年4月23日 | |
旧暦 | ★日本海海戦(日露戦争)。海軍記念日。 | |
西暦 | 1905年5月27日 |
ライト兄弟が動力飛行機の初飛行に成功した日は赤穂浪士の討ち入りの日だった。その後の日本のライト兄弟に対するこだわりから、ライト兄弟が日本人であったことは間違いない。詳細は別に述べる。
ロシアは、日露戦争決戦に備えて、新型戦艦クニャージ・スワロフを建造する。だが、こともあろうに、この戦艦は横幅の問題でスエズ運河を通航出来なかった。しかも、旗艦であったために、後続の小型艦船も喜望峰を迂回する航路を選び、兵力・気力を消耗させた。全て日本のシナリオ通りだった。
ロシア帝国も日本の帝国だった。日露戦争は、その一部が表に出ただけのことだった。詳細は別に述べる。