アイリス あいりす 

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エッセイ:早さが求められる仕事

2024-07-07 08:29:51 | 創作文

速さが求められる仕事

 

以前の仕事場で、仲良くなった人に街でばったり会いました。

彼女は今は駅向こうのスーパーのレジで働いていました。

私もその時、別のスーパーで働いていました。

 

彼女「この間、スーパーのレジの大会があったのよ。全店舗からのレジの人が選出されて集められて、どのぐらいの時間でできるのか、大会があったのね。」

私「へえ、そんな大会があるのね。」

「それでね、私、凄く頑張ったのよ。大会に出られることも嬉しかったし、全店舗の人が競うわけでしょ?」

「そうね。やりがいがあるわよね。」

「そう思うでしょ?誰だってそういう大会に臨めるわけではないし、がんばろうって、おもったわよ。」

「ふーん、それで?」

「それでね。私一位になったの!」

「わあ、凄いね。一位になったの?おめでとう!」

「ありがとう。でもね。がっかりよ。」

「どうして?一位なのに?」

「私も、凄く嬉しくて、この年だし、やったーって思ったわよ。もっと若い子が半分以上だったから」

「わあ、わかるわ、それ。でもどうして?」

「うん。実はね、私その後凄く期待したのよ。お給料が少しあがるかな?って」

「そうよね。それで?」

「一月たっても二月たっても、何にもなかったの。」

「え?大会の時に金一封は?」

「そんなの無かったのよ!あれば私も給料に少しでも還元されるかなって期待しなかったよ。お小遣い程度でもね。あればうれしいでしょ?

「フーン、そうだったの。それはがっかりね。」

「それで、私、あそこのスーパー辞めたわよ。」

「そうだったの、じゃあ今は別の仕事さがしているの?」

「今は、何もしていないよ。」

 

彼女はとても正直な人でしたし、曲がったことの嫌いな人でした。

ですから、このような大会が行われたのに、従業員を競わせるだけで、何もそれに対する対価もないというのは、

士気を消沈させることになります。

働く人への大きな損失ではないでしょうか。

partタイム労働者、派遣労働者が増えたことで、企業のトップの給料が爆発的に増えています。

毎年のボーナスもない、労働者に対する扱いもひどいですね。

日本社会は、持てるものと持たざるものに、分割が進められてきたのです。

しかも国民を奴隷にして!

 

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【エッセイ】2024年 春の公園で

2024-05-06 11:57:36 | 創作文

2024年春

中学の同窓生2人と久しぶりに上野で食事をしました。

新緑や大木のイチョウからのエネルギーが私たちに降り注いでいるのがわかり、それだけで行きかう人は満面の笑顔を見せているように見えました。草花の色々が私たちの日頃の疲れを和ませ、また大勢の人ごみも、なぜか日常とは違うタイムラインの光景を目にしました。

休日の大ショッピングモールの人ごみには、すぐに疲れてしまうのですが、こちらは不思議と元気になりました。

人々の間を心地よくエネルギーが流れ、人の心もそのエネルギーに同化しているのかもしれません。

久しぶりの気の置けない女同士のおしゃべりは、楽しくて、美味しい和食の品々を堪能して、ひとときの静かなたたずまいの中で、気兼ねすることなく、会話も弾みました。

一人は、ガンを患い、一人は心臓を患い、もう一人は健康そのものです。

健康なのは、彼女の結婚生活が良かったからでしょう。子供がいない彼女は、聡明で快活さを失っていません。

長い間、音信不通だった私たちが再び出会うようになったきっかけは、数十年後の同窓会でした。中学3年生の時のクラスメイトでした。彼女たちとすでに他界したもう一人の友人と一緒に、高校が別々になることから、一緒に遊園地に遊びに行ったことも懐かしい思い出となりました。そこで偶然にもカメラを持って来ていたクラスメイトの男子がいて、私たちは声をかけて、一緒に写真を撮ってもらったことも、思い出したのです。

私たちはアイスコーヒーを買い、ベンチでたわいのないおしゃべりをしていました。そこからちょっと離れたところに、

木の下がちょうどベンチの高さまで盛り上がった場所があり、そこに外国人の男女が数人座っていました。けれども、彼らは公園のイベント会場の方に顔をむけていましたが、皆笑顔ではなかったのです。行き交う人達が皆笑顔で語り、親子連れも満面の笑顔だったところに、そうした人達はちょっと異質に見えました。

笑わないその数人の人たちは、それでもリラックスしているような具合に見えました。

日本の公園内に、これほどの笑顔に溢れる人を見るのは普段の日本とは違いますが、私はその外国人の彼等の休息を心から応援したい気持ちでした。

異国の人たちも集まる、大木に囲まれ都会に残された新鮮な空気と春の緩やかな日差しの中で、ほほ笑みを交わす行き交う人たちを眺めているだけで、人は何か心温まるものを感じるのではないでしょうか。そうあって欲しいと思いました。

 

 

 

 


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ニホンザルの習性

2022-12-27 12:01:01 | 創作文

ニホンザルの習性

日本猿の研究者の話ですが、お名前はちょっと忘れてしまいました。

猿が芋を洗うようになったことは、最初は子猿が興味本位に遊びで芋を洗っていたようです。

そして、それを見ていた母猿が子猿の真似をして、日本猿の間に芋を洗うことが広まったということでした。

そして、その時ですが、オス猿たちは殆ど見向きもせずに、関心を示す事も無かったといいます。

やがて、子供の猿が成長して、オス猿になるとイモ洗いはオスもするようになったということでした。

最初は子ザルだったのですね。

そして一緒に生活をしていたメス猿にも広まり、やがて代が変わると子供のときからイモ洗いをしていたオスが大人になってイモ洗いをする、ということです。

この研究は私はとても興味深い話だと思いました。時代の変遷にはこうして代替わりということがあるのは、人間も同じだと思うからです。

新しいものに見向きもしない、オス猿の姿も何か人間のようにも思います。

イモ洗いをしていたオスでも、その後大人になれば、昔のオス猿のように

また新しい事には見向きもしなくなるようです。笑

オスとメスの何かが違うように思います。メスの脳は柔らか頭、オスの脳は徐々に頑なな頭に変わるのでしょうか。

とても不思議で面白い話です。

 


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【創作】「父とわたし」 自家中毒

2021-01-26 22:12:08 | 創作文

自家中毒

私と姉が一緒にお腹をこわし、吐き気をもよおしたことがあり、医者には父が付き添っていたことを、おぼろげながら覚えていました。

医者は「自家中毒ですね。」と言っていた事はずっと覚えていたのですが、それは長い間、普通の食から来る病だと私は思っていたのです。

それがつい最近、自家中毒という病名は精神的なダメージからくる病であって、食からくるものではないと、わかったのです。

それから、当時を思い出すと、

医者に「最近なにかお家で変わったことはありましたか?」と父は聞かれていて、「私が再婚したのですが。」「そうでしたか、そういう事でしたら・・・」というような会話を思い出したのです。

この病気は、小学生中学年位までに見られると書かれていましたが、その時私達姉妹は10代の半ばでした。

あの時、私達姉妹は父が再婚した事から、このような病気になっていたのでした。それは私の記憶にはずっとなかった辛かった記憶を取り戻すかのようにして、ぽろぽろと出て来たのです。

父親が再婚した相手は、以前住んでいた田舎の市内に住んでいた人で、私達の母と同じ血液型の人でした。

子供にとって、父親が再婚して新しいお母さんが来てくれるとだけ思っていたのですが、それは子供にとっては今までの我が家とはまるで違う雰囲気と、家の中の流れが変わることでした。

私達姉妹は、父親の再婚について不満を言う事もなく過ごしていましたが、自分たちの感情を押さえていたのではないかと思います。それが積もり積もって、身体に現れたのでしょう。

むろん父に不満や愚痴を言う事もありませんでした。

父はその時にどう思っていたのかは、もう聞くことも出来ませんが、その後私達家族は、動物園や、遊園地、など連れだって、出かけるようになりました。

忘れていた辛い思い出は、いつの間にか蓋をしてしまい何事もなかったかのように過ごしてきました。

やがて、私達も成長して義理の母親とも話をするようになってからは、すこしづつ間が埋まってきたのかもしれません。

なぜか、母の日の私の戸惑いが思い出されます。母の日のカーネーションを買うのに、私はピンクのカーネーションにしたかったのです。

それは、母が逝ってしまったから白いカーネーション。でも新しい母がいるので間をとってピンクのカーネーションが、私の気持ちにはぴったりだったのですが、父から「赤にしなさい」と言われて、やむなく「赤いカーネーション」を買ったことも思い出しました。

母の日はそんなわけで、毎年私の心はしっくりしませんでした。亡くなった母を思い出す日は無くなっていくようでした。 

カーネーション一つでさえ、自分の意志とは違うことをしなければならない気持ちは私を悲しくさせたのです。

私はいつの間にか、自分の心を閉ざして暮らすようになり、やはり姉も同じようにして、自家中毒になったのは、姉も心の内を漏らすことはなかったからでしょうね。

父にどう言ったらわかってもらえるのか、というよりも、父に言う事はできないと子供心に思っていたのです。

そんなある日、ある家族連れの男性が我が家にやってきました。父親と娘さん2人を連れて我が家に来ました。我が家には義母の友人が来ていて、どうやらお見合いのセットをしたようでした。

私と同い年の長女とまだ幼い小学生の妹さんと、3人で公園に出かけました。

むかい合わせに座るブランコに乗っておしゃべりをしていると、その長女が私に言いました。「今日会ったあの人と、父はお見合いをしているのだけど、私はね、新しいお母さんはいらないと思っているの。私は絶対に嫌なの。」と言い出したのです。むろん彼女は我が家の事はすでに話で聞いているようでしたが。私はそういう彼女を見て、凄い人だと思ったのです。うちの姉よりもしっかりと自分の意志を言うなんて、そして心の中で思ったのです。彼女ならきっと妹の面倒も見て、家事をして3人で仲良く暮らしていくだろうって。私よりもずっとずっとしっかりしている彼女をまぶしく感じたのでした。

その後父から、この縁談は破談になったと聞き、私は心の中で彼女にエールを送りました。

 

 

 

 

 


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【創作】「父とわたし」 番外編 小学6年で起こったこと

2020-11-01 18:48:19 | 創作文

図書館で、ふと棚をみると「あの人が同窓会に来ない理由」という本に目が留まり、一ページ目を読みました。読む本かどうかは私は一ページ目の書き出しで決めます。引き込まれた私はすぐにその本を借りることにして、家に帰り、すぐに読んでしまいました。そして、私は自分の過去について、忘れていたようでもあり、忘れ去ろうとしてきたようでもある、ある出来事を思い出していました。

私は、小学6年生の春に都会の小学校へ通い出しました。

田舎の小学校と変わらない気持ちで通い出したのですが、案の定皆の前で話をすると大笑いされ、先生に助けてほしくて先生を見ると、先生もお腹を抱えて笑いこけていました。

それは私にとって、考えられない事でした。田舎の小学校にも転校生は来ていましたが、必ず先生から「言葉の違いを、笑ったりしないこと」と注意されてきたからです。だから転校生は、言葉使いが違うのが普通だと私達は思っていたのです。

そして、思いがけずに母が転校してわずかひと月とちょっとで、他界してしまい、私はかなり落ち込んでいましたが、幸い父の姉が来てくれて、我が家の食事は叔母がやってくれました。

学校で、私は田舎にいた時に見た、こんな事を話しました。

隣の畑で、雄鶏のけたたましい慌てた鳴き声をきき、畑を見ると、雄鶏が右の茶畑の方に向かって羽ばたきながら走っていて、犬がその後を追いかけていたのです。雄鶏と犬が茶畑に入ると、雄鶏の鳴き声が聞こえなくなり、私はてっきり犬が雄鶏をくわえて出て来ることを想像していたのです。ところが、犬が茶畑から出て来たのですが、雄鶏をくわえていませんでした。そしてその後をあの雄鶏が、けたたましく鳴き声をあげて羽根をばたつかせて怒りをあらわににして、犬の後を追いかけていたのです。

さっきとは、まるで反対の形勢でした。

雄鶏は、こんな風にして、犬に向かっていく事があるのだと、私はその時思ったのです。

この話を都会の男子にも話をしたところ、その男子がいきなり、「お前は嘘をついている!」と言ったのです。私はむろん真実、見たものを話したのですが、その嘘つきと言われたことに、私はどう言ったらいいのかもわからず、黙っていました。

其のうちに、その「嘘つき」が独り歩きをしていったようで、私は遠巻きにされるようになりました。

田舎の小学校で、登校してすぐに、この話をしたところ、男子も女子も面白がって「そんなことがあるんだ~」と話ていたのに、都会の子供達の捉え方が全く違うことに、私は驚きました。

また、担任の先生がクラス替えをするときに、今でもあるそうで、「奴隷商人」という名前まである、そのグループ長を先生が決めて、グループ長が、壁の前にぐるっと立っている子供たちの中から、自分の好みの子供を指名してグループにするというやり方でした。

私は、このような席の決め方について、疑問を持ちました。最後に残った男子のあきらめたような、悲し気な、怒りのこもった目を覚えているのです。

私は先生のこうしたやり方を、子供ながらに「このやり方はよくない。」と批判したのでした。

この話は、仲良くしていた帰り道で一緒の友人達にも話たのですが、この話と私が「うそつき」というレッテルを貼られて、その後友人の家に「あそぼ~」と行っても、遊んでもらえなくなりました。

母親をなくして、「嘘つき」で「先生を批判する子」というのは、私を見る大人たちが何かを感じて、そのようになったようでした。

そして夏休みのある日に、隣のクラスの男子数人が私の家を訪ねてきました。私は隣のクラスの男子とは、見かけてはいましたが、話をするのは殆ど始めてでした。クラスの男子からは敬遠されていたので、うれしかったのです。そして道路の端っこで、立ち話をしていたところ、クラスの男子が走ってきました。そして、隣のクラスの男子が名前を呼んで話かけると、「じゃあな」と言って走りさっていきました。その後、数分後に彼のお母さんが走ってきて、「うちの子知らない?」と言い全員で「あっちへ走って行きましたよ」と告げるとお母さんもそっちへ走っていったのです。たったそれだけだったのですが、不思議なことに、翌日私の担任から呼び出されて、音楽室のような誰もいない所で、となりのクラスの男子達と私は、「もうそういうことはしないように。」と釘をさされたのでした。男子のひとりが、「僕たち何も悪い事していません!」と言いましたが、先生はそれに答える事はありませんでした。

そして、私はだんだんと、学校へ行く気力もなくしてしまい、心が折れる寸前にまで行った時に、帰り道で一緒になった男子が、お母さんが昔先生をしていたと言って、「先生はもっと子供の話をちゃんと聞くべきだと思う」と話ていたと、私に言ってくれたのです。

私は、その彼のお母さんには、会ったことはないと思います。でもその大人の話を聞いて、「わかってくれている大人もいるんだ。」ととてもうれしかったのです。むろん私はこれらの話をおばさんと父にもしていました。おばさんも「おかしな先生だね。どうしてそんなやり方するのかねぇ。」と言ってくれましたが。同級生のお母さんで先生もしていた人が、理解を示してくれたことは、私は嬉しかったのです。

一緒に今まで遊んでいた友人の家に行くと、「遊べない」と言われて、また奥の方で、私の事を「先生から注意された子」と、言っている家族の声も聞こえてきました。PTAで、きっと問題視されたのでしょう。

その後、私の父はたくさんの本を亡くなった母の従兄弟の勧めもあって、文学全集を買ってくれたのです。私には子供文学全集を、姉に世界文学全集を。それを読むことに夢中になっていき、友人と遊ぶことなく時間を過ごすことができました。

私の子供時代で辛い経験はこの1年間が、とても辛かったのです。

その後中学校へ進学すると、学区の関係で同じ小学校からその中学へ進学する人は、ほとんどいませんでした。

1年間で私の言葉は、都会の言葉の練習の成果もあり、ほとんどわからないようでした。

過ぎ去った遠い遠い過去でしたが、思い出して見ると、当時の気持ちが浮き上がってきて、とても辛くて悲しい気持ちになりました。誤解を誤解だという事もしませんでしたし、悲しみを誰に話ても分かってもらうことなど、できませんでした。

その後、私は県立高校に入学が決まったときに、父から、一枚の官製はがきを差し出されました。そして「小学校の担任の〇中先生に、『お陰様で県立〇高校に合格しました。』と書いて送りなさい。」と言われたのです。私はすっかりその時のことを、忘れ去っていたのに、どうして父は嫌な事を私にさせるのか、と思いました。しかし、父からそう言われたのですから、そうするしかなくて、私は父のその言葉を入れて、短い文で先生へのハガキを書き、父にわたしたのです。数日後に〇中先生から、返事がきて、「よく頑張りましたね」と書かれていました。

私はそれで、すべて終わったと思いました。それで嫌な事はもう考えたくない、思い出したくもないと、思ったのです。(父はどうして私にそんな風な大人の対応を私にさせたのかは、今ではよくわかるのですが)

ところが、夏休みに入ると、遊ばなくなった友人から電話が入り、「〇中先生が校長先生になったので、みんなでお祝いをするから来ない?先生からあなたにも、声をかけてと言われたのよ。」という事でしたが、私は部活があるから行かれない。と言って断りました。

その後、お互いに連絡もなく過ごしてきました。

50年後に、中学の同窓会があり、私は喜んで出かけました。その同窓会が終わり、ホテルの廊下で、いつかの帰り道に先生をしていたお母さんの話をしてくれた男性がいたのです。「あれ、まっくんも○○中だったの?私知らなかったわ。」と言ったのです。

そうしたら、そこに集まっている人達は小学校が同じ人達でした。それで、私はつい、先生の事を話て、「まっくんのお母さんに私は助けられたのよ。」という話をしたのです。

脇に立っていた男性が、「俺はそういう席替えの事、なんとも思わないよ」というのを聞き、私は本当にびっくりしました。それで、「最後に残る子供のことを、考えたことあるの?」と私は少し憤りを押さえて言いました。

50年も経っているのに、子供時代の悲しい出来事は私をまた過去へと案内したのでした。

人はどうして、こんな風な誤解を平気でするのかしら?

そして、もっと深く考えないのかしら?

先生でも決して大人の考えを持っていないことも、私は小学6年生で知ったのです。

 

最近になって、私が導かれてきたことは、「エンジェルナンバーに導かれて」に書いていますが、この辛かった過去についても、私は導かれてきました。

その当時の先生についても、保護者についても、友人だった人についても、もう何も思うことはありません。ただどうしてそうなってしまったのかを、知りたいと思いました。

それについて、私に直観が来ました。

〇中先生の魂はまだ成長の途中であったこと、そして保護者の大人たちについても、同じ事が言えると思いました。そして彼らは、私の境遇から「オソレ」を感じていたのでしょう。その「オソレ」が自分の子供に悪い影響を与えるとおもったのではないでしょうか?

〇中先生も同じようにして「オソレ」があり、初めて会う田舎娘に「オソレ」保護者の「オソレ」にも「オソレ」ていたのでしょう。

こうして「オソレ」というものを人が抱えている事は、誤解を生む原因となっていったのだと思います。

人類は自分ではわからないように、「オソレ」を持っています。そして、その「オソレ」は真実を遠ざけるヤミの勢力のもっとも人類に持ち続けてほしいものでした。

「オソレ」を持つとたとえ目の前に真実を見ても、「見なかった事に」しようとするのです。

私の話を都会の子は、「嘘」だとどうして思ったのでしょう?自分の知識の範囲を超えた話を信じない、というのは、今の目覚めていない日本人もまるで同じなのです。

嘘つきと言ったあの男子は、知らない話をする田舎娘に「オソレ」たのでしょう。

 

私は図書館で借りてきた本を、読み終えて、しばらくの間自分の心と向き合っていました。そして、やっと直観できた結論に自分で納得することができたのです。

これは辛い悲しい出来事がありましたが、エンジェルナンバーの導きによって少しづつ癒されてきた事、それから自分の出来事に対する考察をすることが出来ました。それによって、私は自由になり、もう当時のことを思い出しても、関わった人に対して、何も思わなくなったのです。これ以上の自由はないですね。

私の心を縛りつけていた、悲しい出来事も、私なりに理解する事ができました。良い人ぶるのは、それは偽物の心ですが、こうして心から納得するのは、本当に気分がよく、自分の心を縛り付けていたのは、自分の心の持ち方だったことが、わかったのです。

天界から、考え方を学んだのでした。

最後に、あの小説はノンフィクションかもしれないと、思ったのです。あのような出来事が、実際に学校側と重要なPTAによって曲げられてしまったのは真実だったのではないかと、あの文面を読んで思ったのです。

人間の狭い心を、これから解放して、私達の本当の自由を手にしましょう。それは一夜にして、起こるかもしれませんが、人間の心を変化させるのは、一夜では変わらないと思うのです。それはこれからの人間の課題ではないでしょうか?

 

 

時代 - 中島みゆき(フル)


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【創作】父とわたし 番外編 山本五十六と明治維新

2020-08-15 22:10:37 | 創作文

山本五十六と明治維新

 

田舎の小学生だったころ、父と親戚の内科医の先生がお酒を飲んでいる時でした。

ふたりは山本五十六の事を話していたのでしたが、先生と父は、笑いあっていたのです。「な?」と言い、二人で顔を見合わせて笑っていたのです。その時、私がいたので、先生は山本五十六の名前を教えてくれました。「ごじゅうろくと書いていそろくと言うんだ。」

珍しい名前ですから、私は覚えていました。その後授業で教科書にその名前が出てきた時に、びっくりしたものです。

山本五十六は、教科書ではヒーローになっていました。先生と父とのあの五十六を笑った事を、忘れていなかった私は、その違いに困惑しました。

なぜ、先生と父は、あんなふうに笑ったのか、その理由もわかりませんが、そうかと言って、教科書のヒーローが本当で、先生と父は勘違いしているなどとは、少しも思わなかったのです。

中途半端な考えのまま、私は60歳をすぎてから、PCの中で山本五十六について書かれているサイトを見つけました。

そこには、山本五十六はフリーメーソンだったことが、書かれていて、なんだか教科書とは違うもののようでした。私にとっての歴史は、こうしてひも解かれていったのです。

また高校生の時、日本史の授業で、坂本龍馬の話がありました。坂本龍馬といえば、高知県ではヒーローです。その坂本龍馬は、下級武士であったうえに、脱藩していたということなんですが、船に武器弾薬を積んで用意してきたと、教科書にありました。

私は中学生になってから、世界文学全集を毎日読んで過ごしていたために、教科書の中に書かれていない不可解な所があることを、先生に質問をしました。「先生、坂本龍馬が、船に武器弾薬を用意したお金はどこから出たのですか?」と。

ところが、先生はものすごい剣幕で、怒ったのです。「君は明治維新の素晴らしさよりも、お金の方が大事なのか?」と、そして結局はうやむやで授業は終わりました。友人たちは、「先生はきっと知らなかったのよ。」と言って慰めてくれたのですが、この先生は調べることが趣味な先生でした。国会図書館というものがあることも、私達に教えてくれたのです。

慌てた様子の先生に怒られてその後ずっと忘れていましたが、60になる前にこの事を思い出した私は、PCによって調べることができました。そしてそれは、60の手習いとなり、独学にまい進してきました。

坂本龍馬の武器弾薬の資金源を追うと、長崎市グラバーに行きつきました。

長崎市のグラバー邸宅は、若い時に観光に行きました。そのグラバーに由来のある、沢山の秘密が出て来たのです。

それは、日本史の先生の誇張した「素晴らしい明治維新」の秘密そのものだったのです。

 


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【創作】父とわたし 番外編 親戚の内科医とおばさん

2020-08-09 23:45:13 | 創作文

その年のお正月に、父方の親戚の内科医院へお年始に行くからと、父は私を連れていきました。

内科医院は武士の家の作りで、父の実家の農家の作りとはまた違っていて、面白かったです。

玄関から奥へ声を張り上げて、「ごめんくださ~い」と言うと、奥からおばさんの声がしました。「台どこへまわってちょうだ~い」

奥への通路になっていて、先生の黒い自転車が置いてある土間を通り抜けると、広い土間の台所にでました。釜戸がいくつかあり、叔母さんがかっぽう着姿で、忙しそうにしていましたが、笑顔で迎えてくれました。

左側は茶の間になっていて、長火鉢の前に軍医だった先生が台所を向いて座っていました。そしてびっくりしたのは、その横に日本髪のかつらをつけ、キレイに白塗りしたお姉さんが座っていたのです。芸者さんです。

私は初めて見る芸者さんと、先生とおばさんの関係について子供ながらに、理解できませんでした。

するとおばさんが「○○ちゃん、キレイなお姉さん見たの初めて?」と言ってきました。私はこっくりしただけで。白塗りのお化粧といい、先生の隣で、お酌をする姿に、驚いたものです。

おばさんはお料理を作って、先生の前にだしていました。大人4人で、何の話なのか、大笑いしていました。

そうして、笑いあって後に失礼して、帰ったのですが、もちろん家に帰った私は、母にこのお姉さんの話をすぐにしました。そうすると、父が「○○にいる芸者さんだと思うよ。」と母に話ていました。

こんな先生の姿を見たのですが、この先生は実は、映画「赤ひげ」を見た時に、私は先生がモデルではないかと思ったぐらいなのです。

それは、お正月はこんなふうでしたが、実は軍医であったことを、私に説明してくれたことがありました。内科が専門でも、何でもやって来たと聞きました。

「軍医といっても、鉄砲玉の飛んでこない場所にいるんだよ。兵隊が運ばれてきたら、それを処置する役目だから、沢山の兵隊を見なくちゃならないからね。」と言っていました。

「だから往診に行った先で、息子さんを戦争で亡くした人の家は、息子さんをお国の為に、差し出したってことなんだよ。そんな家から、往診代をもらうわけにはいかない。」と先生は言っていました。

先生はそうした流儀の人でした。でも田舎のことですから、おばさんが毎朝5時に起きて、門から玄関までの掃除をしに出ると、玄関先に野菜や、お茶やお米などが、置かれている時があるとおばさんが私の生母に話ていました。

先生に、「どなたが置いていってくれたのでしょう、お礼の先がわかりません。心あたりはないですか?」と先生に聞くと先生は、「相手の詮索はしないでいいから、有難く頂戴しなさい。」といわれたそうです。

調剤はおばさんがしていました。おばさんは調剤師だったのです。

そうした事がたくさんあり、おばさんは時には困っていたそうですが。先生の一番の理解者はおばさんだったと、お正月の時に目にした光景からそう思いました。いそいそと、はしゃいで料理を作り、芸者さんにお酌されてご満悦の先生を理解していなければ、出来ない事です。まさに内助の功だと思いました。

先生はお酒が好きだったようで、いつだったか我が家に来て、父と盛り上がって飲んでいましたが、そこへ先生の高校生の息子さんがやって来ました。

どうやら往診の電話が入ったようで、先生は生母から水をもらい、グイっと飲んで、立ち上がると、其の目はすでに医者の目に変わっていました。そして、玄関で待つ息子さんに、「どんな具合か?」と聞き、ではカバンには何をいれたのか?」と聞き、おばさんがカバンに入れたものを言うと、「よし、行こう」と素早く靴を履き、大きな黒い自転車の荷台に先生を乗せて、息子さんが運転して西のほうへと走っていきました。

医者は好きなお酒を飲む時間もないのだと、私はその時思いました。父の仕事とはまったく違う医者という仕事を、知りました。

また、先生は小学校の校医もしていました。注射を打つ日には、決まってクラスのゴン太君(いたずら小僧)に声をかけていました。それだけで、なぜかゴン太君は、その後とても嬉しそうにしていたのです。

先生は昔の事ですから、薬も沢山出す事はありませんでした。たいてい熱がでたら、水枕、額に濡れたタオル、足元には湯たんぽを入れて寝ること、おばさんからは、すりおろしたリンゴや、梅干しのおかゆを食べられたら食べるように言われました。そして頓服が一つ出されて、40度を超えたら飲むようにと。

ある時、食べる気力もない時がありました。そんな時は、ゆざましだけで過ごして、熱が下がって食べたいと思ったときには、野菜のスープを作って飲むようにとおばさんから言われて、母はその時に家にあったほうれん草とジャガイモでスープを作ってくれました。塩と野菜を一緒に弱火でゆっくりと煮ただけで、スープにほうれん草の旨味が出ていて、とても美味しかったことを覚えています。具はなくてスープだけです。そうして私は元気を取り戻したのです。

 

 

 

 

 

 


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【創作】父とわたし 父の望郷の土地

2020-08-07 23:23:21 | 創作文

「父とわたし」は数年前に書き置いたものです。私は小学校5年までは田舎で過ごした後、都会へ引っ越しをしました。父とわたし達姉妹がどのように過ごしたのかを、私の子供達へ残すつもりで書き記したエッセイです。

      

         父の望郷の土地         

 

父は若い頃、昭和の戦争の中で生きてきました。その地は中国大陸です。中国と国交が正常化されると、父は「北京に行きたい。」と言って、私を驚かせました。詳しい話を聞かなかったことを、いまでは悔やまれるのですが、父は貨物列車の中の荷物の間に、隠れるようにして逃げてきたと言っていました。駅に止まると、必ず中国兵がドアをあけて中を調べたそうです。その度に息を殺して、見つかって殺されるかもしれないと、何度も思いながら帰国したと、聞いています。そんな風に、命からがら引き上げてきたのに、どうしてまた平和になったからと言って、行きたいなどと言ったのでしょうか?

行く理由を聞きませんでした。ただ父がそういった時に、不思議な感触を覚えているのですが、まるで故郷を思うかのような顔をして、笑顔で遠くを見るような目をしていました。

父は結局は北京に行くことなく、この世を去っています。

私は20代の頃、「人間の条件」五味川純平著を読んでいます。それはビルマの竪琴を読んだ後でしたが、本当の戦争の内容を知ったのです。それまでの小説はまるでオブラートに包まれているかのように、思いました。そして私は父に問うたのです。父にその本を読んだ事と少し感想をいい、「戦争に行って、お父さんも人を殺したの?」と、あまりにも率直な言葉に、父は少し黙っていましたが、やがて本当の事を話してくれました。本当にそんなことがあったのだと、私は若かったからでしょう。その後ずいぶんと悩みましたし、父親を理解できないくらい考えてしまいました。戦争は確かに悲惨で、むごくて、人間を獣に変えるしかない状況へと追いやられるものです。そしてそれは正義の為という、信仰のようなものを植え付けられていたのです。

父の人生はこうして、引き上げてから結婚し、私達が生まれて来たのです。

私に息子達が生まれた時、父は泣いていました。そして「生母の母から、息子が生まれてだめだったとき、戦争で人を殺したからだ。」と言われて辛かったと、話してくれました。父は男の子を望んでいました。「息子が生まれていたら、キャッチボールをしたかった。」と笑いながら話してくれたこともありました。

生母の母は、父を責めたのではないと思います。当時の環境がそうだったのですから、若い二人を慰めるつもりで言ったのでしょう。しかし父は自分への諫めのように思ったのでした。それは父が胸に秘めていた苦しい思いだったと思います。

姉と私はそれぞれ息子達を授かりました。ですから、父は自分の罪が許されたように思ったのではないでしょうか。

父が亡くなった時、そして3人目の母も亡くなった時に、父の戦友の一人が葬儀に来てくれました。朝の新聞で葬儀があることを知ってきたと、言ってくれました。そして彼もやはり、「もう、誰も話す相手がいなくなってしまった。」と言い男泣きをしていました。3人目の母が残ってから、その戦友は毎年お盆にお線香をあげに、実家に来てくれ、3人目の母と父の話をして懐かしんでいたのでした。

そうして、父は私達の前から消えてしまいました。

でもきっと、あの歌のように今では風になって、北京へもいったりしているのかもしれません。

おとうさん、色々あったわね。お父さんも辛い人生だったじゃない、だけど3人目のお母さんが言っていましたよ。「私はおとうさんが好きだった。」って、よかったわね。最高じゃないの!

 

 

 

 


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【創作】「父とわたし」 父の日曜大工

2020-05-22 13:23:25 | 創作文

父の日曜大工

 

父の日曜大工は、亡くなるまで続きました。

2度目の母を亡くした後、父の友人の奥さんの紹介で3度目の結婚をしたのです。

私は当時「反対」と言いました。「でも、結婚するのは自由です。」とも、言ったのです。県外に住んでいた私のところに、何度となく父から「元気か?」と電話がかかってきました。私の心をほぐそうとしていたのです。そして私は、「妹がいいというのなら、それでいい」と条件を出したのです。

そして、父は3回目の結婚をしましたが、父からは「お義母さんと呼んでやりなさい。」と何度も言われましたが、私は言う事ができませんでした。その後子供達が生まれてから、実家に帰ると自然に「おばあちゃん」と言えるようになりました。

 私が小学生の頃、父が木にカンナをかけながら、「若い頃は、大工になろうと思っていたんだ。だけど爺さんにサラリーマンになった方が、収入が安定しているからサラリーマンになれ。と言われて辞めたんだ。」と言っていました。

殆どの休日はいつもやっていました。雨の日も、家の中で出来ることを、やり続けていました。

日曜日の朝、物置から引っ張りだしてきて、いつもカンナをかけたり、釘を売ったりペンキを塗ったりしていました。

家にはこれと言って大物が残っているわけではないのですが、便利に暮らせるように、色々と工夫するのが好きだったようです。

田舎に戻ってから、親戚や友人の為にヒバリの籠を作っていました。それは知人の竹林から竹をもらい、竹を割っていき、丸く削って竹ひごから作っていました。また天高くあがるヒバリがぶつからないように、網が天井につけられていて、親戚に川で漁をしていた人のところへ行き、網の作り方を習ってきました。

そうして、ひとつひとつ手作りの作業が続けられて、いくつものヒバリの籠が出来、知人へのプレゼントになっていきました。

その一つは神奈川の生母の従兄弟の家にもあり、それはメジロの籠でした。

休日の朝は、父の日曜大工で始まり、夕方の4時には終わり、道具を片付けほうきで履いて掃除をきちんとして、自分で風呂の支度をして、一番風呂に入るのが日課でした。

これは父の才能だと思いますが、この並みでない趣味こそが、父の心の平安を培っていたのではないかと思うのです。

父はいつでも自分の運命に対して、私達に愚痴を言う事もなかったですし、父はいつも前向きに明るく生きていたように、見えました。

その父を支えていたのは、この没頭する趣味だったのではないかと、私は思っています。健康的な心を支えていたのは、健康的な趣味だったのです。

 

 


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【創作】「父とわたし」 父の悲しみ2

2020-05-22 12:40:44 | 創作文

父の悲しみ2

 

 私達は、2度目の母も病気で亡くしました。医師の話によれば、当時は助かる見込みがほとんどないと言われた病でした。まだ小学生だった妹と義母と暮らす毎日は父にとっても、たいへん心が痛む日々だったと思います。

 私も姉もすでに嫁いで、離れた県外に住んでいました。私と姉は義母の手術の回復を待って、お祝いをしました。義母と妹が、まず私の家に泊まり、飛行機で姉のいる所へと行き、姉の家に泊まることでした。義母は初めて乗る飛行機に大喜びをしてくれました。

そして、父の提案で、3家族で海辺のホテルに宿泊して、遊んだりもしました。

やがて、義母の身体はまた具合が悪くなり、入院したのです。私は出来るだけ、実家に帰って入院している義母と実家の家事をしてきました。

父は、義母には病名を知らせていませんでした。其のことは私達姉妹にも話されていたので、同じように内緒にすることになりました。けれども、義母は次第に身体が弱ってくると、周りの慰めも耳にしたくないようでした。

私にも、「身体が回復している気がしない。」と言っていました。

そうして長い闘病生活の末に父と妹を残して、亡くなってしまいました。

その通夜に、ある女性が慌てた顔をして、父を訪ねてきました。あろうことか、父は多額の請求書を差し出されたのです。

その女性は駅前通りで洋裁店をしている女性でした。義母に未納の多額のお金があると、言ってきたのでした。

 父は姉と私に請求書を見せて、「何か聞いているか?」と「お金の事は知らないけれど、あの店で洋服を作っていたのは、知っていたよ。オーダーだから高いよ。でもこんなに沢山残っていたなんて・・・」

 父の顔はそれまで見た事がない程の怒りに満ちていました。私は必至で、「お義母さんは、病気だったんだから苦しくて気持ちを紛らわしたかったんだよ。」そう言いましたが、父は黙ったままで、怒りを抑えているようでした。

父の性格からすると、金額もあるが、自分が知らなかっことも、悔しくて辛かったのではないかと思いました。

その後、支払ったと聞き、父は2度とその話はしませんでした。

義母の病について、みんなで内緒にしていたのですが、当時の私は、父の愛情とはそういうもの、と思っていました。信じて疑うこともしませんでした。

でも、歳を取って見て、少し義母の気持ちを考えたら、義母は孤独感に包まれていたのではないかと、思います。

一度は回復を見せていたのですが、やるせない気持ちとの闘いは続いていたのかもしれません。父の思いやりは、義母には寂しさと孤独という二つが胸を占めていったのかもしれません。ひとりで、病と向き合っていたのです。誰にも自分の病についてわかってもらう事がなかったからです。

父の愛情はとてもよくわかりますし、女としての義母の気持ちもよくわかります。

だから、義母は高価な服を作って、気持ちを帳消しにしたかったのではないかと、今になって思うのです。

 

・・・・・

「父とわたし」は数年前に書き置いたものです。私は小学校5年までは田舎で過ごした後、都会へ引っ越しをしました。父とわたし達姉妹がどのように過ごしたのかを、私の子供達へ残すつもりで書き記したエッセイです。

 


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【創作】父とわたし 伊豆のおばさん

2020-05-11 22:18:34 | 創作文

伊豆のおばさん

 

生母の叔母のひとりが伊豆に住んでいました。私はお会いした記憶はありませんが、そのおばさんは、祖父の妹でした。

ある日、父が誰かと電話で話している所に通りかかったのですが、どうやら姉と私の近況を話ているようでした。そしてその後父から、「伊豆のおばさんと話していたんだよ。お歳暮に干しシイタケを頂いてお礼を言って、こちらからもお歳暮を贈ったことを、電話で話していたんだよ。」と言いました。

「そうだったの。」と、そっけない私でした。母方の伊豆のおばさんという人がどんな人なのか、わかりませんでしたし、それにしても母が亡くなってからずいぶんと経つのに、こうしてお歳暮を我が家に送ってくれる人もいるのだと、知りました。

そして数年後も、やはり父の口から「伊豆のおばさんから干しシイタケが届いたよ。」と聞きました。

そのやりとりがいつまで続いていたのか、詳細はわかりませんが。ある時、伊豆のおばさんの息子さんに会う機会がありました。その時は父も亡くなっていたのですが、私と姉との近況を詳しく知っていたことに、私も姉も驚いたのです。

私はこの年齢になり、ようやくわかった事があります。

姉は、高校生の時に、外国から帰国した生母の叔母の一人に逢いに、祖父の弟である神奈川の家に呼ばれて行ったことがありました。

また、私が高校生になってから、その神奈川の家のお爺さんから、「夏休みに家にアルバイトに来てくれないか」と父に電話があったそうで、私は夏休みに食事付き、寝泊まり付きのアルバイトに出かけました。そこには初めて会う名古屋の母の従兄弟にあたるお姉さんも来ていました。

海辺でのアルバイトは、若者たちでにぎわっていて、今までにない程の解放感がありました。とそこに、田舎から従兄弟のひとりが来ました。私は大喜びで、「どうしてきたの?」と繰り返し聞きました。それほど、私達が会うのは数年ぶりでしたから。懐かしさと喜びの数日を過ごしたのでした。

新しい母が来ると、私達は新しい母の実家と親戚に囲まれていました。そして生母の実家とは、父の考えで一切の行き来はありませんでした。

そうした中で、神奈川の家での田舎の従兄弟に再会できたことは、何物にも代えられないものでした。たった数日の事でしたが、幼い時の記憶そのものがまだあり続けていたのです。

そうした経験を今振り返ってみて、私ははた、と気づいたのです。

私と姉は母の実家とは疎遠になり、そのまま生きて来たと思っていたのですが、実は祖父とその兄弟たちに、私と姉は、ずっと見守られていたという事実が浮き上がってきたのです。

伊豆のおばさんはお歳暮を贈ることで父と話をする事ができ、私と姉のその後の様子を知ることが出来たのでしょう。それはおばさんの兄弟に話が行っていたのです。

そして神奈川の家で従兄弟に会えたことも、偶然ではなく、祖父の兄弟によって、会う機会を設けてくれたこと。

伊豆のおばさんの息子さんも、私と姉の近況だけでなく、母の事も知っていてくれましたし、伊豆のおばさんから私たちの事を詳しく聞いていたようでした。それらの暖かい心に私はやっと気づいたのです。

それに、小学6年の時、新しい母が来てから、生母の従兄弟の一人が東京で働き始めたからと言って、わざわざ「挨拶」に見えたのです。その従兄弟が父に勧めてくれたおかげで、私達は父から沢山の文学全集を買ってもらうことになったのですが、この従兄弟の「挨拶」は、祖父からの頼みではなかったかと、今では思えるのです。きっと従兄弟に「様子を見てきてほしい。」と祖父は頼んだのでしょう。

母方の祖父の兄弟の結束の中で、私と姉は、きちんと見守られて育ってきたのだとわかりました。それは無償の愛でした。私達は母鳥を無くした幼鳥ではなかったのです。気づかれないように、あまりにもさりげなく、それは静かに私達を見守り続けてくれた人たちの心にやっと私は気づきました。

私の目に涙があふれて止まりません。ちっとも知りませんでした。私と姉がきちんと育ったのは、このような人達が影から見守っていてくれたからでしょう。それは母の愛にも似た祖父たちの愛でした。

60代になるまで、知らなかったのです。この年齢になったから、祖父たちの気持ちに気づいたのかもしれません。私達は忘れられてはいませんでした。こうして、私と姉の様子を影で見守り続けてくれていた肉親の情を、有難く思い返しているのです。

優しい祖父たち兄弟によって、私達はきちんと育つことが出来たのでしょう。

沢山の愛を、私達は受けていた事、それを私達は知らずに育ちましたが、今わかりました。すべて祖父たちが協力し合って、私達に愛を注いでくれていたのでした。なんとお礼をいいましょう。有難う、本当にあなた達のおかげでここまできましたよ。遅くなりましたが、あなた方のしてくれたこと、すべてわかりました。本当にありがとうございました。

無償の愛は、こうして私と姉とに、母を亡くした後も、注がれ続けていたのでした。

優しさとは、無償の愛とは、言葉で説明は難しいのですが、祖父たちのしてくれたことは、無償の愛そのものでした。私は今それをしっかりと学びましたよ。みんなみんな、ありがとうございました。

 

 


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【創作】父とわたし 父の悲しみ1

2020-05-07 16:19:43 | 創作文

父の悲しみ1

 

父はサラリーマンで、農家の二男でした。その為、土地を譲り受けてその土地に家を建てたと聞いています。

都会から県内の町に越してきたのは、私が高校を卒業する少し前でした。しばらくの間姉とふたりでアパートで暮らして、卒業後にその地へ私達も引っ越ししました。それから2年後に、貸していた田舎の我が家が空き、田舎へ戻りました。

私が20歳の時でした。

父とふたりで歩きながら、久しぶりに見る畑の向こうに見える我が家を眺めていると、「爺ちゃんが柱を切ってしまって、こんな低い家になってしまって・・・」と意外なことに、愚痴がでたのです。初めて父の口から出る愚痴でした。

「何の事?」

「爺ちゃんが俺に内緒で、台風が来たら大変だからと、勝手に大工に柱を切らせてしまったんだよ。だから家の天井が低くかっただろう?なあ?」と悔しそうでした。

父には父の未来の家に対する望みを持って楽しみにしていたのでしょう。それを、息子には言わずに勝手に大工に切らせてしまい、望むような家に住むことが出来ずに、我慢しつづけた父だったのです。きっと言い合いもしたでしょう。でも爺ちゃんは、南側の生垣もまだ小さいことから、台風の風あたりによって、家がどうかなってしまうのではないかと、心配をしたようでした。

でも、父の知らない間にそれが決行されたことで、父の怒りと悲しみはどれほどだったでしょうか?

生涯住む家と、思っていたのに、父の未来は爺ちゃんの決行によってつぶれてしまったのです。

しかし、とろろ汁の時の思い出の中には、そんな素振りは一つもなかったのです。父も、母も。爺ちゃんにも。

祖父は、私達が都会暮らしをしている間に、亡くなりました。一度都会の我が家にも来ていますが、やはり田舎の景色と空気が自分にあっていると言っていました。

祖父は実は、若い時に私の生母の叔母と結婚をしていたのです。でも祖父の兄が家を継いでいたのに、若死にしてしまい、奥さんと子供が残されたために、子供がまだいなかった祖父は、自分の結婚をあきらめて、兄嫁と残された子供のために、実家に戻り兄嫁と結婚したのです。(家を存続させるためにです。)

私が小さい頃、よく祖父と姉と私とで、バスに揺られて生母の実家に泊りがけで行ったものでした。幼いときには、生母の実家を祖父の親戚かと思い込んでいたぐらいです。そして、その祖父は、翌朝私と姉を置いて昔一緒に暮らした女性の家に挨拶に行っていました。すでに女性は他界し、旦那さんと息子夫婦や孫の暮らす家になっていましたが、旦那さんと話をしたり、仏壇にお参りをするのが、その時の祖父にとっての大切な事だったのでしょう。

祖父が他界し、懐かしい家に帰ってきたので、父は思わず愚痴がでたのでしょう。長い間祖父と父はお互いに軋轢を抱えて暮らしてきたことを、初めて知りました。

私は、父が大工仕事が好きなのに、なぜか2階の部屋の一部が「お金がなくなってしまったから」と途中のままになっている部分を、自分で作りあげようとしないのか、私は父に聞いた時がありました。その時は、父はただ笑っていただけでしたが、もし柱が切られることなく、家が建てられていたら、きっと父の性分ですからやり遂げたことでしょう。その意気込みを父から無くしてしまった、出来事だったとわかったのです。

 

・・・・・

「父とわたし」は数年前に書き置いたものです。私は小学校5年までは田舎で過ごした後、都会へ引っ越しをしました。父とわたし達姉妹がどのように過ごしたのかを、私の子供達へ残すつもりで書き記したエッセイです。

 

 

 


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【創作】父とわたし 「あるテスト」「高校入試」「夏の夜」

2020-04-02 14:05:23 | 創作文

「父とわたし」は数年前に書き置いたものです。私は小学校5年までは田舎で過ごした後、都会へ引っ越しをしました。父とわたし達姉妹がどのように過ごしたのかを、私の子供達へ残すつもりで書き記したエッセイです。

         

          あるテスト           

 中学1年のどの学期かは忘れましたが、「あるテスト」がありました。

 そのテスト用紙を、先生の合図で、裏返して読みだしたとたんに、私のいままでの経験したことのない内容に驚きました。それは今までの学力テストとは比べられない程、面白い内容だったのです。引き込まれるようにして、テストに夢中になったのを、昨日の事のように覚えています。(この話を中学の同窓生に話をしても、誰も覚えていませんでした。)そうして、次々と読み進みながら、答えを書いていきました。

 数日後に、先生との面談があり、先生は「この間のテストはどうでしたか?」と笑顔で聞いてくれました。

「とても面白かったです。」開口一番に、私は自分の思っていることを素直に話し、そのうえ「先生、次はいつこのテストやるのですか?」と聞きました。

 先生も思わず笑い出しながら、「そう、面白かったですか。残念ながら、このテストは何度もやるテストではないのですよ。実は点数はいえないけど、君の点数はかなり良かったですよ。クラスでいつも一番の〇〇さんよりも良かったです。だから君は学力テストでも、彼女と同じぐらいの点数がとれてもいいと思いますよ。だからがんばって勉強してください。」と言われたのです。

 私は先生の「次はない。」と言われて、どれだけがっかりしたか、膨らんでいた楽しみがぺしゃんこにされたように思いました。それほど面白いテストだったからです。ですから、先生の学力テストを頑張ってください、という言葉に、私はなんの反応もできませんでした。

 心の中で、「先生はわかっていないなあー。私はこのテストは面白かったのであって、学力テストは、少しも面白いと思ったことがないのに。」と思ったのです。

 後から知ったのは、このテストは「知能テスト」というものでした。それでも私の人生の中で、この世の中からは少しも評価されない「知能テスト」とやらを忘れることができませんでした。それだけではなく、「自分自身に何か、人とは別の能力があるのかもしれない」とずっと心に確信だけが置かれていました。

 例えば、職人として生きている人は、学力は関係ないです。そういった事と同じで、人は学力に優れている人。運動能力が優れている人。職人として優れている人、そして私のように何かわからないけれど、優れている人、という具合に私は自分の心に根差して生きるようになりました。ですから、私の人生の根源のような事が、ここから始まったように思います。

 優れているということは、誰にもわからないし、誰にも評価されるものでもないし、それは自分の心の確信であるだけで十分であり、人それぞれ、優れているものを持っている事を、私はこの日から密かに心に刻んだのだと思っています。それは、やがて自分への自信となっていきました。

 

 

高校入試

 

 中学3年の秋、3者面談を終え義母から、私の成績状況を聞いた父は、私に「お姉ちゃんと同じ県立に受かるように、がんばれよ!」と言いました。

 日頃から、勉強について一切言われたことがなかっただけに、私も少し本腰を入れるようになりました。そして年があけて、私立高校に合格した私に、また父は「お姉ちゃんと同じ高校に入るんだぞ、がんばれ!」とだけ言いました。

 後にも先にもこの2回だけでした。

 そうして県立高校の入試の発表の日、父と姉と私とで出かけました。校庭に貼られていく紙を見ながら、自分の番号を見つけた私は、振り返ってうれしさのあまり思わず父に抱きつきました。

「あった、あったよ。合格したよ。」と

 一緒にいた姉は、「恥ずかしいじゃないの~」と言っていたけれど、私は少しも恥ずかしくなかったし、久しぶりに昔の父を感じていた日でした。

 

 夏の夜

 

そのころ住んでいたのは、東京近郊でした。

休日の夜、家族で夕食を終えると、夕涼みがてら駅前までぶらぶらと散歩をしたものです。

年の離れた妹も連れて、みんなでおしゃべりをしながら商店街に着き、まだ開いている八百屋の店先をのぞいて、美味しそうな果物や野菜を見つけて買い、手分けして持ち帰るといった具合です。

 八百屋のおかみさんが、「ご家族で今日は何かあったの?」と父に問いかけると、「家族全員でぶらぶらと夕涼みしているだけですよ。ハハハ」「へぇーいいねぇ~」とおかみさんの顔が一層にこやかになり、うらやましそうでした。

 おかみさんが店の奥にいたおじさんにその事を話す声を後に、私達は店をでました。

 

 

 

 


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【創作】父とわたし  紙飛行機

2020-03-11 18:09:40 | 創作文

紙飛行機

 

私が中学生となって、間もない頃、それは木造の古めかしい校舎の2階にわがクラスがありました。

 誰がしだしたのか、休み時間にノートを破り、男子生徒たちが紙飛行機を飛ばしていました。私はこういう事になると、嬉しくなってしまうのです。それで私もノートを破って紙飛行機を飛ばしました。

 男子生徒の紙飛行機は、生垣に突き刺さるように音速ジェットのような形をしているものが、ほとんどでしたが、私の紙飛行機は、田舎で父から教わったもので、よく座敷から縁側へそして庭へと、よく飛ぶ紙飛行機で、とがっていないものでした。

 私の紙飛行機は、男子のものとは違っていたからでしょうか、生垣を乗り越えて、車の殆ど往来のない、中学校のバスケットコートへと続く道の方へふわりと飛んで消えました。そしてチャイムが鳴ったので、一斉に席についたのですが、その時間はきっとホームルームだったのでしょう。下の担任が紙飛行機が散乱しているのを見て、2階の私達のクラスの担任にその事を話しにきました。

そして担任から、すぐに拾ってくるように言われて、くもの子を散らすかのように、いっせいに外へ飛び出して、拾ってもどってきました。そうしたところ、担任は「放課後、残りなさい」といいつけました。ところが、6時間目が終わり、担任がやって来た頃には、男子はほとんど帰ってしまい、おとなしそうな男子達と、私が残っていました。

 先生は、職員室と廊下の掃除を今からするので、雑巾を持って職員室にいくように、いいました。職員室は男子が担当し、私は廊下の担当をいいつかりました。私は子供心に、少しも悪い事はしていないと、思っていましたし、廊下の掃除もなんとも思いませんでした。

 そして、掃除をしていると、職員室の中からよその先生が出てきて、笑いながら通り過ぎていきました。これもなんとも思いませんでした。

 そのあと、隣のクラスの男子が出てきて、私の顔をわざわざのぞき込んで、「きみも~?」と言ってからサッときびすを返して走り去りました。これにはちょっとムカッとしました。一瞬ですが、持っている雑巾を彼の背中めがけて投げようかと思った位です。

先生の紙飛行機事件のバツ掃除は、こうして終わりました。この話はむろん家族には内緒でした。


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【創作】父とわたし   母を亡くして 少女時代

2020-03-11 17:36:04 | 創作文

「父とわたし」は数年前に書き置いたものです。私は小学校5年までは田舎で過ごした後、都会へ引っ越しをしました。父とわたし達姉妹がどのように過ごしたのかを、私の子供達へ残すつもりで書き記したエッセイです。

 

 

母を亡くして

 

 

私達家族は私が小学生5年を終えて、春休み中に関東地方へ引っ越しをしました。そして一月後に、母は突然病気で亡くなりました。

東京見物へ、東京の大学へ行っていた母の甥と一緒に私達女性ばかりと従兄弟と出掛けて来たばかりでした。

楽しく遊園地、東京タワーと見てきて、私達は田舎の受験生だった従兄弟のすっかり東京慣れした姿に圧倒されながら、楽しく過ごしました。

母は東京タワーに行き、展望台での人ごみになれないようでした。1時間ぐらいエレベーターを待つと聞き、なんと非常階段を下りると言い、私達にはエレベーターで来るようにと言ったのです。

ひとりで、非常口から出る母を、心配で後から私もついて行きました。母は、振り返って、私に戻るように言いましたが、私は聞き入れませんでした。そして、目が回りそうだと言いましたら、「下を見ないで、階段だけを見ておりなさい。」と言われて、あの東京タワーの展望台から階段を二人でおりたのです。

今にして思えば、母はどうしてあんな事をしたのでしょう。私がおてんばだったのは、母譲りかもしれませんね。

従兄弟と姉が降りて来るのを、私達はベンチに座って待っていました。

私はそれ以降は、そういうことは出来ないです。もう2度とごめんです。笑

そうした、楽しい思い出を最後に母は突然旅立ちました。葬儀が終わってから、私はまだ引っ越しをして間もないことから、友人も少なかったですし、とても寂しく思っていました。

家の中で寂しいと思った事もなかったのに、母を亡くすと火が消えたようになりました。私は父と姉と三人で肩を抱き合って、思いっきり泣きたい気持ちになり、姉と二人でめそめそしてばかりいました。

ですが、父は「もう泣くな」と言って、私達の肩に手をやり、 それ以上の気持ちを推し量ろうとはしませんでした。父は日本男子ですから、きっとそのような事はしなかったのだと思います。

父の姉がその後、私達家族の家事を請け負ってくれることになり、しばらくの間、私達家族と過ごしました。

私の学校での交友関係も、少しづつ落ち着きを取り戻してきました。慣れない都会の学校でも私は元気に登校していました。

そして、秋になり、父は2人の女性と、お見合いをすることになり、私達姉妹を連れて、その二人の女性と田舎で会いました。帰宅してから、父は私達姉妹の前に2枚の写真を見せて「どうだろう?」と言いました。その時あの二人の女性とあった理由が初めてわかったのです。

私と姉はちょっと考えて、一人の女性の写真を指差して、「この人となら、うまくやれそう」と言いました。父はただ、「そうかそうか」と言っただけでしたが、その人と再婚したのです。私達姉妹はその後、ちょっと大変な状態になりました。

私達姉妹のわが家が、実は父と再婚した母と呼ぶ人の家へと変貌したのです。それは大人にもわからない状態だったと思います。子供心にそれは更に悲しい事でした。我が家の形をしていても、それは我が家と呼べるものではなくなったからです。

母と呼ぶ人が来てくれて、私達家族は仲良くやっていましたが、心はすぐにそうはいかないものだとわかりました。

私達姉妹にとっての家は、もうなくなってしまったかのようでした。

その頃、亡くなった母の従兄弟が、東京に就職していて、「挨拶」という形で、我が家に来てくれました。

田舎の家の近くの高校に通っていた彼は、良く我が家にも顔を出していて、父ともよく知っていました。ですから父も大喜びでした。

その従兄弟から、子供たちに本を読ませることを、勧めてくれたことで、父は私達姉妹に文学全集を買ってくれたのです。

世界の児童文学全集は私向け、世界文学全集は姉と将来の私の為に、これはとても助かりました。

姉は田舎から出てきて、僅か1年で高校受験をしていましたから、多分本格的に読みだしたのは、高校に入ってからだと思いますが、私は毎日部屋で静かに、ラジオの音を下げて、それらの本を読むことに熱中し、姉は受験勉強に集中しました。

私もやがて、世界文学全集に手を伸ばしたのですが、そうすると児童文学全集には、飽きてしまい、こちらは、全部は読んでいないと思います。

作家の個性あふれる文章に、次々とのめり込んだ私達でした。

そうした中で、小学校でのグループ学習をすることになり、私の家に友人二人がきて、その学習の総仕上げをしました。おやつ時に、父がお盆に紅茶と、トーストにバターを塗って、持ってきてくれました。

その光景は友人ふたりには、物珍しくうつったようで、「お父さんが持ってきてくれた」と大そう驚かれました。父はそのような事は、平気で出来る人でした。

このころの、私の写真を見るのは、実は好きではありません。その時の、たった一枚の修学旅行の時、集合写真ではない、偶然写された写真で見る笑顔の私だけが、好きな写真です。他の写真はとても暗い顔をしているのです。心が顔に出ていると、今でも思います。

私達姉妹は、家にいる時間は本と向き合うことで、家では静かにしていました。ですから、ほとんどテレビを見ることもなく、どんな番組をやっているのかも知りませんでした。

また、私は毎朝、玄関のお掃除、姉は部屋のお掃除を担当していました。田舎にいる時から、掃除のやり方を教えられていましたから、田舎の玄関の半分もないような、都会の玄関掃除は簡単で、外回りもやっていました。

我が家の朝食前の時間になると、同級生の男の子が、「ナットー、ナットナットー」と言いながら、自転車で納豆を売りにきていました。私が一度言われて納豆を買ったところ、クラスメートだったことがわかり、父からは納豆は、その子から買うように言われた2度目の母は、「あの子が売りに来る納豆はおいしけれど、値段が高いから」と言いましたが、父は「あの子も早く売れれば、それだけ早く学校にいけるから、買ってやりなさい。」と言っていました。

 

少女時代

中学生になった私は、父と言葉を交わす事も少なくなり、「相談をするのは、全て母に」と言われたとおり、私は相談事は2度目の母にしていましたが、私は言いたいことを押さえるようになり、不満も抱えるようになりました。

父だけが、前よりも遠くにいるようになっていました。

仕事も忙しくなったようで、酔って遅く帰ってくることもしばしばでした。

そんな中、会社の人達と家で夜中まで麻雀会をする父が大そう恨めしかったです。田舎の父とはすっかり変わってしまったようでした。

父は再婚したこともあってか、家族で美術館、博物館へ行ったり、遊園地や少し遠くの大きな動物園へも連れて行ってくれました。そしていつも父は満面の笑みを見せていたのですが、私と父の距離が埋まることはなく、このころから、私は父との軋轢を感じていて、なんと60歳までそれは続いていました。

父は私が39歳の時(母が亡くなった年齢の時)75歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 


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