東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

三島由紀夫,『奔馬』,新潮社,1969

2007-08-13 10:06:56 | フィクション・ファンタジー
文庫は新潮文庫,1977。改版2002で読む。

こんな小説とは予想もせず。

もっと緻密で観念的な、読むのに難儀する小説と思っていたが、卑近な俗物の登場人物たちの日常的な話だった。
その中でただひとり、非現実の世界を夢見る中心人物・勲(いさお)、であるが、彼の言うこと、生活、行動は、まわりの人間と同じような俗っぽい、現代の(物語の時代の)思潮や流行に支配された、若いもんの妄想にすぎないと思うんだが。

劇中の架空の書物(というより薄いパンフレットのようなもの)「神風連史話」であるが、これが、ちょっとおかしい。
というのは、文体が作者・三島由紀夫の文体と、ほとんど区別できないのだ。
読む人が読めば、三島由紀夫の文体と、「神風連史話」の文体の違いがわかるのだろうか。
架空の著者・山尾綱紀が、三島由紀夫のような文章を書けるという設定にムリがある。この点が、わたしがおかしいと感じる点だ。
(ただ、ひょっとして、「神風連史話」には、普通の読者には気づかない、文章の誤りや文字の間違いがちりばめてあるんだろうか?判断不能)

「神風連史話」の内容は、筒井康隆が書きそうなドタバタ劇である。それを、まじめくさった三島由紀夫風文章で描いている。作者・三島由紀夫は、この書「神風連史話」を読む読者(小説全体の読者)に、「あっはっは、ばっかみたい!」と思わせる効果をねらっていたんだろうか。
この点に関しても、わたしは判断不能だ。
読む人が読めば、あきらかな爆笑スラップスティックに読みとれるのかもしれない。

中心人物・勲は、このドタバタ喜劇を本気にしてしまう男である。
やれやれ、おやじとおふくろの住む家でパラサイト童貞の生活をしていて、妄想にカブレるなんてのは、現代のワカモンにそっくりだなあ、あはは。(と、他人事のように、書いているが、わたしも同じようなもんだった……とほほ)

小説の構造として、第1部『春の雪』が没落貴族と老側女の掌の上であがく男女を描いたのと平行するように、第2部では、世知たけた大人にかこまれてドタバタを演じる少年(といっても20歳だ)を描いたと、捉えてよいだろう。
ただ、この第2部、第1部の緊張感がなく、ずるずると破滅する若者を描いているだけと、読みとれるのだが。それが作者・三島のねらいなのか??
もっとも第1部も、深く読めば、たんなる若気のいたり、汚濁した現世にもがく人間の有様ということになるのか?

三島由紀夫,『春の雪』,新潮社,1969

2007-08-13 09:59:12 | フィクション・ファンタジー
三島由紀夫,『春の雪』,新潮社,1969

文庫は新潮文庫1977、改版2002。

1969年か。
三島由紀夫という作家は、強烈なファンが存在する一方、それ以外の者には、ああ、有名な作品をいっぱい書いた人ね、で、すまされる人物である。
かくいうわたしは、『金閣寺』以外読んだことなし。

巻頭から結語まで、ぎっしりと技巧をこらした文章が続き、まるで塚本邦雄(あ、失礼、新字体ですます。ちなみに、この文庫も新字新カナで、ふりがながいっぱいあってようやくよめる。)みたいだ。
この、登場人物の心理の襞を執拗に書きこむ文体、流麗な自然描写(ガイジンがオー、ビューティフルと喜ぶような描写)をうるさいなあ、と感じたら、もう読めないな。

そんな文体を、作者とファンに失礼だが、気軽に無視してよみすすむ。
さすが、と今さら言うのもはばかられるが、たいしたストーリーもなく、人物の行動も予想がつく小説なのに、読みすすめられる筆力がすごい。

中心人物、松枝清顕(まつがえ・きよあき)と本多繁邦(ほんだ・しげくに)、松枝侯爵家・綾倉伯爵家のひとびと以外にタイ王国の王子ふたりに留学生が登場する。
このタイの王子様ふたりは、第二巻以降の伏線かもしれないが、この第一巻の中だけでみると、仏法を無邪気に崇拝し、故国に残した「月光姫」を無条件に愛する異国の若者として描かれる。
それに対し、主人公・清顕は、技巧をこらして、綾倉聡子という幼なじみの女性を自分の幻想の中で恋愛関係をつくろうとする人物である。(ああ、こんな大雑把な要約をして、怒らないでください。)

以下、ストーリーをばらすので、未読の方は注意。
といっても、これほどの名作であるから、読む人はもう読んでるでしょうね。

綾倉家の老女・蓼科と綾倉伯爵が過去に交わした密約、というより、閨の密話が明かされる。(文庫本p374 の前後)
その中で、聡子は、婚姻前に処女を失うように創造された乙女で、相手の男に、その非処女性をきづかれないように育てられることになる。(こういう、要約のしかたも、不愉快に思われるかたがおられようが、まあ、我慢してくれ、わたしの語彙が貧困なのだ。)
これらはすべて、新興階層の松枝侯爵に対するあてつけ、聡子の婚姻に口を出すと予想された松枝侯爵の傍若無人さに対する旧貴族の、復讐である。
うーむ。処女性にこだわるという、奔放な貴族らしからぬ、けつの穴の小さい陰謀だが、まあ、その点は目をつぶろう。

ということはだ、主人公・清顕は、落ちぶれた貴族と老女のつくりだした、人工処女に、恋をしてしまうのである。
陰謀をたくらんだ伯爵もまさか宮家への出嫁が決まるとは想像できず、また、側女の老女・蓼科も、聡子がほんとうに恋に狂うとは思わなかったであろう。

過去の暗い陰謀が、自分の娘、あるいは蓼科にとってはお屋敷の姫に、罠となって襲いかかるのである。
しかし、若いふたりにとって、それは真実の熱情であり、恋である。

と、ここから少々飛躍するが、そうするとですね、清顕の幼いころの思い出(といっても13歳になった男ですが、設定にムリがあるような……)、宮中の新年賀会で春日宮のお裾持をつとめた時、清顕にさしむけられた(ように感じた)微笑、この記憶に残る、后様も、同様に、創造された、人工のもの、明治の時代、清顕の祖父たちが創りあげた幻想ではないでしょうか。

ということは、物語中の現在の若者たち、清顕や聡子も、陰謀に加担する(物語の想像に加わる)つもりならば、トラブルをなんの支障もなく乗り越えられたはずである。(それから、作者がほのめかしているが、清顕が綾倉家で育てられた幼年時代、すでに清顕と聡子に肉体関係はなかったんでしょうか?)

物語としての悲劇は、ふたりが、創造された虚構ではなく、真実(のようなもの)を求めはじめてしまい、虚構のレールを外れたことに始まる。
と、書いてくると、タイ王国の王子たちは、いかにもナイーヴで、「熱帯の無邪気さ」として扱われているのが、どうもひっかかりますね。
タイ王国も大日本帝国も同じように、19世紀に創造されたもんでしょ。

と、まあ、先走った感想です。全四部を読まなきゃわからないのかもしれない。